狂乱水城のルクテュレア9
謎の魔人襲来の後、私は気絶したリオドさんの治療をしてその場から退避した。あの結界の持続時間は効果を重視したためにかなり短く、リオドさんの回復を待っている暇はなかったからだ。
「ここで大丈夫かな」
先ほどの場所から離れた場所にボロい船を見つけ、そこに身を潜めた。持ち主は近くにいなかったし、随分古い船のようだから恐らく廃棄された物だと思う。小型の船で数人乗るので精一杯といった大きさだ。幸いこの街の水路はそれなりに広く、日本の道路くらいの幅はある。少し移動して水路の端に停泊させていれば他の船の迷惑にはならないと思うのだけど。
「とりあえず動くかな」
運転席とエンジン部分を見ると帝国で勉強した船の構造と似ている。要は魔石を利用してスクリューを回転させ、それを推進力に変えているのだろう。運転席にある魔道具へ魔力を注いでみるが反応はない。
「これ完全に壊れてるわね。――だから廃棄したのかしら」
少し考えて壊れていても問題ないかなと考える。ようは動けばいいのだ。幸い私は水魔法の使い手。だったら自前の魔法で水を動かして船を操作すればいいでしょう。リオドさんの傷はもう治っているし、元々そこまで重傷じゃなかったからすぐ目が覚めるはず。それまではあの妙な魔人とは接触しない方がいい。
「それにしても、本当に変な魔人だったな」
初めて出会った魔人だが、正直あそこまで強いのは想像以上だった。リオドさんと2人なら倒せなくても善戦は出来ると考えていたけど、かなり見通しが甘かったのは間違いない。だから今後の動きをリオドさんと相談する必要がある。それでも私の中であの魔人の事が頭から離れない。
恐怖によって、というわけではない。幸い殺気を放っていなかったし、最初からこちらを殺すつもりもなかったようだ。だからだろう。どうしてもあの魔人に関して気になって仕方ない点がある。
「あれ――どう見てもPちゃんのTシャツなのよね」
一瞬だったけど、間違いないと思う。あの漆黒のローブから見えた絵柄のTシャツ。日本にいた時、よく食べていたチョコボールのイメージキャラクター。ピーナッツを模した鳥のデザインで、家にぬいぐるみなどのグッズもあり、そして何より同じTシャツを持っているためすぐにわかった。
だからこそよくわからない。あの魔人がなぜPちゃんのシャツを持っているのか。最初は私たちと同じ転移者なのかと思った。でも身体的特徴を見ると間違いなくこの世界の魔人と一致していた。なら次の可能性は私たちとは別に転移者がいるという事になる。
「帝国以外でも呼んでいたか。或いは――」
魔人側で異世界人を呼んだのか。
だが人類殲滅を計画している魔人が異世界人を呼ぶ理由はあるだろうか。呼んだ時に殺して服を奪ったのか。それとも貰ったのか。
その2択なら前者の可能性が高い。どのみちこの件は一度帝国へ報告した方がいいだろう。私たちは何か大きな見落としをしている可能性が高いのだ。
そう思いながらゆっくり船を動かしていた時、空を見上げた。間違いなく大きな魔力が動いた。何か轟音も聞こえることから察するに、恐らく戦闘が起こっているんじゃないだろうか。ここはケスカという魔人が完全に支配している街だ。そんな所で戦闘が起きるという事は私たちのように侵入した者がいたという可能性が高くなる。そして同時に思い出すのはあの妙な魔人の事だ。しかし――。
「多分あの魔人ではなさそう……かな」
根拠はある。僅かとはいえ敵対したのだ。その時に感じた魔力と似ていない。つまり別の誰かという事になる。
行くべきか、離れるべきかの2択を考えすぐに後者を選択した。何が起きているにせよ私1人で対応するにはかなり厳しい。ただの魔物だけなら対処もできるけど、多分違うだろうし。
街の人々が立ち止まり、轟音がする方向に視線を向けている。だが誰も逃げようとはしていない。まるで音がしたからそこに視線を向けたと言わんばかりだ。その証拠にすぐにまた談笑を始めている。
「やっぱり洗脳か」
そう零しながら船を進めていく。また人通りが少ない道を選び、少しでも距離を取るように移動をする。そこで私は厄介なものを目にした。
茶髪の女の子が倒れている。
水浸しであり、地面も濡れている所を見ると水路から這い上がってきたのだろう。どうする? 普通に考えれば保護するべきだろう。怪我が無いか確認し事情を聴くべきだ。でもここは敵地。既に戦闘行為を行っているが私たちは目立つわけにはいかないし不用意な接触をするべきじゃない。
見なかったことにするべきだ。
そんな言葉が頭の中に響く。どうしてあの子はあそこで倒れているのか分からない。若い女の子のようだし日本と違ってこの世界は人の命が軽い世界だ。ここで見捨てればあの子は酷い目に遭うかもしれない。どうしてもそんな可能性が頭をちらつき、葛藤が生まれる。
「い、いや……」
僅かに声が聞こえる。意識がある? だったら治癒魔法だけかけてあげれば後は自分で何とかしてくれるだろうか。そう思っているとあの女の子が僅かに動き出した。
「に、逃げないと――いや……あいつが――」
追われているのだろうか。震えている両手を必死に動かし、這いずるように身体を動かしている。口の中が渇いていくのが分かる。あの子はきっと何かから逃げているんだ。もしかしてこの街に住む何かに追われているのかもしれない。迷っている時間がなくなっていく。まだ助ける事は出来る。私が船から降りてあの子に治癒魔法をかけ、船に乗せてあげればいい。少しでも情報がほしい状況なのだし、あの子を助ければ何かわかるかもしれない。
無意識にあの子を助ける理由を私は探している。やはり見捨てられない。そう思い立ち上がった時、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
銀髪の青年。上半身裸で何故か1枚だけ黒いローブを身につけている。日本だったら間違いなく不審者だが、この世界だとたまに上半身裸の男性は見るのでそこはそういうものと諦めている。だが見過ごせないことが1つあった。
「あ……あ……ああ――誰か助けて」
あの男を見た瞬間、あの子の怯え方が尋常ではなくなった。すぐに理解する。あの子を追い詰めているのはあの男なのだと。どういった理由があるのか分からない。何か事情があるのかもしれない。任務の事も、魔人の事も頭の中にはあるはずなのに、ただ「助けて」その一言で腹を括った。
「ん? 誰だ」
男の目の前に立つ。
「事情があるのかもしれませんが、この子は怯えています。出来ればそれ以上近づかないでいただけると助かるのですが――」
「事情も何も俺はそいつに――って待て。お前どこの出身だ?」
思わず一歩後ろに下がる。見えない圧力のようなものを感じた。
「こちらの質問を先に答えて下さい」
「――俺はそいつに命を狙われた。その理由を問いただそうと思っただけだ」
「それは――」
命を狙われた? この子に? 視線だけを動かし蹲っている子の様子を見る。見た所近接戦闘が出来そうなタイプじゃない。恐らく魔法使いだろうか。この世界は正当防衛が簡単に成立する。しかし本当なのか、この怯え方を見るにわざわざ率先して誰かを殺そうとするようには見えない。
「次はこっちの番だ。お前はどこの出身だ」
「私は……」
「一応言っておく。嘘を吐かないことだ。正直に話せ、どこから来た?」
なぜそんな質問をする? まるで何か確信しているかのように。
「そこまでだ。俺の可愛い後輩に近づかないでもらおうか」
気が付けば銀髪の男の後ろに目を覚ましたリオドさんがナイフを握り、男の首元に刃を当てていた。