愛しく想ふ13
Side 菅野彩
ヴヴヴヴヴ……ヴヴヴヴヴ。
鞄からかすかに聞こえるスマホのバイブ音を聞き、私は微かな意識を自分の鞄に向けた。だが鞄のある方に手を伸ばす時間も余裕もない。
パンッ! パンッ!
部屋の中に乾いた音が木霊する。右手に残る微かな痛み、そしてベッドで横たわり意識を失っている日葵の顔を見る。その両頬は赤く腫れあがっており軽い内出血を起こし始めている。見るからに痛々しいその顔を私はただ手のひらで叩き続けた。
「起きて……起きてよ日葵――――早く起きてッ!!!!!」
気づけばスマホのバイブの振動音も止まりただひたすら自分が日葵を叩く音だけが木霊している。爆音で鳴らしていたテレビももう効かない。大きな音でも話しかけても目が覚めない。だったらもうこれしか――。
私はベッドから立ち上がりキッチンの方へ向かった。整理されたキッチンの中に目当ての物をすぐに見つけそれを握る。それを持ちながら覚束ない足取りで寝室へ戻った。今も変わらずベッドで寝ている日葵。時折苦しそうな顔をして涙を浮かべている。そうとう怖い思いをしているのだろう。
「今助けるからね。待ってて」
軋むベッドの上に膝を乗せ少しずつ四つん這いになって日葵の元に近づき顔に触れられるまでの距離まで詰め寄った。優しく頬を撫で目元に浮かんでいる涙を指で拭う。
「大丈夫。私が起こしてあげる。ちょっと痛いけど我慢してね日葵」
そうやって握っていた包丁を両手で持ち刃先を日葵に向けゆっくりと振りかぶる。心臓の鼓動がうるさい。手が震え涙で視界が滲む。どうしてこうなってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。そんな思いが頭の中で何度も浮かび、それでも今はこれが日葵を助けるための唯一の手段と自分に言い聞かせ手に持った包丁をそのまま振り下ろそうと――。
「何を、やってんのよぉぉおッ!!!!!!」
声のする方に振り向いた瞬間、自分の頬に衝撃があった。身体が吹き飛びベッドから床へ落ちる。一体何が起きたの分からず混乱した頭で先ほど強い衝撃があった場所をゆっくり触ってまた強い痛みが走った。
「あんたッ!! 今何しようとしてたの!!」
「…………え」
突如胸倉をつかまれ頭を揺すられる。強い痛みに耐えながら今目の前にいる人物が誰なのかよく見て、ようやく自分を殴ったであろう相手が分かった。
「紬さん……? どうしてここに」
「どうしてじゃないわ! 大胡さんがずっと菅野さんに連絡してたのに電話でないし、日葵ちゃんにも連絡が取れない! おかしいと思って勇実さんに連絡したら依頼をキャンセルされたって聞いたわよ! それでどうしても嫌な予感したから日葵ちゃんのマンションのオーナーに連絡してマスターキーで開けて貰ったの。それで、貴方はこれで何をしようとしたか自分で分かってるわけッ!?」
そういって紬は先ほどまで自分が持っていた包丁を握って私の目の前に持ってきていた。銀色の鈍い光を放つ凶器。それが目の前にある。しかも他人の手に。いつその刃が自分に向けられるか分からないという恐怖が身体を巡った時、自分が何をしようとしたのか唐突に理解出来てしまった。
「あ゙、あ゙……私はなんてことを……」
「はぁ……もうなんなのよ! 大胡さん! こっちにいたわ。すぐに来てかなりヤバイ事になってるみたいなの! そう! 後オーナーさんとのやり取りも任せていい? 私は今から勇実さんに連絡するから」
勇実という言葉を聞き私の身体がまた震えだした。日葵の事で頭がいっぱいになり自分が何をしたのか今になってその取り返しのつかない事をしたと理解した。
「だ、だめなの。わ、私が勇実さんに……ヒック……酷い事を言って依頼を断っちゃった」
「馬鹿言わないで! あの人がそんな小さい事気にするわけないでしょ! それにどう考えてもコレは普通じゃない!!」
そういうと紬はスマホを操作しすぐに耳に当てた。
「――あ。勇実さん。うん、ごめんなさい。やっぱり拙い事になったみたいなの。そう。素人の私から見ても異常だもの一度勇実さんに診てほしいわ。私からの依頼って事でお願い出来ないかしら――ありがとう、本当に助かる。早速だけどすぐに来てくれない? 住所送るわ。うん、お願いね」
そういうとスマホの通話を切って紬は私に一言呟いた。
「すぐ行くってさ。良かったわね」
私が彼にしたことは最低の行為だ。仕事の邪魔をして、私の一方的な都合であんなに尽力してくれた勇実さんを裏切り傷つけた。もう絶対にこの件には関わらないだろうと思った。ここまで揉めたのだ、しかも一方的にこちらが悪い。普通なら次の仕事なんて絶対に受けて貰えない。だというのに――。
「あんまり私も強く言える立場じゃないけど、ちゃんと謝りなさいよね」
「――ええ。許してくれるとは思わないけど、私にできる事はもうそれだけだもの」
「それで一体何があったの。勇実さんが来るまで時間かかるしとりあえず事情だけでも――」
そう紬が言いかけた瞬間、寝室に日葵の悲鳴が響いた。
「ああああああああああああッ!!!!」
「ッ! 日葵!?」
喉が切れてしまうのではないかという程の絶叫。突然ベッドから上半身を起こし近くの物を投げ日葵が暴れ始めた。すぐに私と紬の二人掛りで身体を押さえつけ無理やり落ち着かせる。
「落ち着いて、もう大丈夫! 大丈夫だからッ! ね? よく見て怖い人なんて誰もいないでしょ!?」
「あ、ああ――もう嫌ッ!!! なんなの!? 私何か悪い事した!? なんで私ばっかりこんな目に遭うの! もうこんな怖い思いするなら死んじゃいた――」
パンッ!!
日葵がそう言いかけた瞬間。紬が両手で日葵の頬を強く叩きそのまま両手で頬を抑えるようにしながら顔を近づける。
「そんなこと言わないで。残された人はもっと悲しい思いをするの。ね。お願いだから死ぬなんて言わないで……」
何かの琴線に触れたのだろうか。紬は涙を流しながら日葵にそう言い続けた。そしてその思いが届いたのだろうか。日葵がゆっくり紬の首に両手を回しそのまま一緒に泣き始めたのだった。
ヴヴヴヴ――。
二人が抱き合ってどれだけ時間が経っただろうか。十数分、いやもしかしたら数分だったかもしれない。スマホのバイブ音がなり紬がポケットからスマホを取り出し画面を見た。
「安心して日葵ちゃん。頼もしい助っ人が来たわ」
「……助っ人?」
「そ。変人だけど魔法使いみたいなすごいやつよ」
Side 勇実礼土
紬から連絡があった時俺はきっと酷い顔をしていただろう。やはり菅野を無視してでも強引にあの時部屋の中に入るべきだったのだと強く後悔した。下手にごねて警備なんかを呼ばれたら面倒だと思いその場を後にしたのはやはり早計だったのだろう。
以前マーキングした日葵への目印は残っている。幸いというか分からないがどうやら以前見張っていたマンションにいるようだ。声色から考えるとかなり急ぎなのだろう。ならば普通の交通機関を使うのは選択肢としてはありえない。まだ昼間だが警戒しつつ姿を消して魔法での移動を行った。俺がいる今の場所から跳躍しながら移動しこの調子なら10分掛からず到着するはずだ。
すぐに目的地の近くに到着したため近くの物陰に着地し周囲を警戒しながら魔法を解除した。特に霊の気配は感じない。やはりここを見張っている何かはいないだろう。では既にかなり深く侵入されているとみるべきか。
「ッ! オートロックか」
どうする? 魔法で転移してもいいんだがこの辺りは防犯カメラが異常に多い。カメラが映らない場所を探しそこからマンション内に転移するかと一瞬思考しその考えを破棄した。あの電話から察するに恐らく紬が同じ場所にいるはずだ。なら中から開けて貰った方がいいだろう。
スマホを操作し紬に到着した旨を伝える。するとすぐに返信がありマンション入り口のオートロックの扉が開いた。中に入りエレベーターを探しメールに書いてあった6階へ移動する。6階を示すランプが光り扉が開くとそこに一人の女性が立っていた。
「……菅野さん」
目が赤く何故か左の頬が異様に腫れている。あの腫れ方から考えるに誰かに殴られたか。
「勇実さん。どうかお願いします」
そういうと菅野はマンションの廊下で膝を付き頭を下げて両手も地面につけた。
「以前の無礼は全面的に謝罪します。どうか日葵を助けて下さい」
「――貴方はもう俺の依頼人じゃありません」
「ッ!」
俺がそういうとビクッと身体が震えている。
「ここには紬の依頼できました。だから日葵のマネージャーである菅野さんに向けて話します」
そういって土下座している菅野の肩に触れた。
「任せて下さい。もう大丈夫です」
「は、はい。どうか、日葵を、助けて」