閑話 転移前 ――陽子編――
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どこにでもいる平凡な女。
それが里見陽子が自身を一言で表す時に、真っ先に挙げる言葉だった。
決して主役になることはなく、脇役のポジションにいて目立つことがない。
陽子自身、昔からそういった自分の立ち位置に不満を持つことはなく納得していたし、そういった立ち位置であろうと行動し続けてきた。
なぜならそういった状態が自分にとって非常に落ち着くからだ。
幸福と不幸の振れ幅が大きい人生よりも、安定した揺り籠のような人生を過ごしたい。
そんな想いを抱き続けていた陽子は、大学在学時の就職戦線に、周りのみんなほど必死になれず、結局就職先が決まらないまま、流れるようにだらだらと卒業してしまう。
しかし当人には焦りがあまり見られず、家事手伝いとなった娘に対してあれこれうるさく言うことのない、のんびりとした……悪く言えば危機感のない家族のせいもあって、未だに定職に就くでも結婚するでもなく自宅で暮らしていた。
しかし何もしていなかったという訳ではない。
昔から趣味で描いていた絵は、素人目に上手だと言える位には上達していた。
またある時期からデッサンや絵の描き方の本などを読んで、勉強しながら絵をかきまくっていたこともあって、その腕前はぐんぐん上達していく。
そして最早趣味の領域を超え始めた「絵を描く」という行為と、友人から勧められた「BL本」が融合することによって、ここにまた一人「BL同人作家」が爆誕してしまうことになる。
以降は何かに取り憑かれたかのようにBL本を書き続け、その業界では名を知られる程の作家になった頃には、外部からのイラストやキャラクターデザインなどの仕事が舞い込むようになっていた。
いや、寧ろ今ではそちらが本業となっており、BL本を息抜きに描いているといった状況だろうか。
趣味を仕事にすると辛い、という人も世の中にはいるかもしれないが、陽子にとって現在の環境は悪くない――締め切りという言葉にビクッとするようになってきたが――ものであった。
「あー、そうそう。このキャラは普段は隠しているんだけど、左の太もも部分に暗殺者組織のトレードマークが刻印されているっていう設定なんで、風呂場のシーンではそこらへん気を付けてください」
「あ、はい。分かりましたー。イラストの指定は以上で宜しいですか?」
「んー、そうだね。他には特にないかな」
「では期日までには仕上げておきますのでお待ちください」
「うん、今回もよろしく頼むよ」
アプリ通話による仕事の確認を終えた陽子は、盛大にため息を吐き出した。
「ううん、仕事の方は問題ないんだけど、このペースだと次の夏フェスまでに原稿を上げられるか厳しくなってきたわね」
先ほど陽子が話していた相手は、小説投稿サイトから書籍化された時に、イラストを依頼されて以来の付き合いがある、小説を書いている作者本人であった。
そしてこの作品が大ヒットしたことが、陽子の生活をも一変させる結果になっている。
小説がヒットしたことによって、陽子の絵が衆目に晒される機会が増えて、外部依頼が次々と舞い込んできたのだ。
これはヒット作に恵まれたという幸運もあっただろうが、陽子自身の絵が多くの人に受け入れられた結果でもあった。
この作品で小説家デビューを果たした作家にとっても、イラスト担当することになった陽子にとっても、ウィンウィンの関係性を築くことに成功していたという訳だ。
その為陽子は、他の仕事より何よりこの仕事に関してだけは力を入れており、趣味のBL本を描く時間が削られているのが、ここの所の悩みの種だった。
「こりゃーヘルプ頼まないとだめよねえ。でも今の時期みんな忙しいしどうしたもんかしら」
イラストの方はともかく、BL本に関しては時折作家仲間に持ちつ持たれつの関係でヘルプを頼むことがあった。
しかし現段階では作品のネームすら切ってない状態で、ほぼ全く手つかずの状態だ。
これではそもそもヘルプを呼んでも、やってもらうことが何もないような状況だった。
半ば現実逃避してる状態の陽子の声音は、普段と変わりない口調であったが、内心はパニック映画で逃げ惑う一般人Aと変わりない。
「まっ、まずはこの仕事から片づけないと……ね」
そうしてエナジードリンクなどを駆使して鬼のように集中力を維持し続けてイラストの仕事をこなす陽子。
その結果、どうにか三日後には提出出来た小説のイラストに、無事オッケーサインをもらうことができた。
しかしそれまでの反動か、そこから三日の間は何もやる気がでず、気の抜けた炭酸の如く、日がな一日をボーッと過ごしていた。
そんな折、四日目になって高校時代からの友人から連絡があって、久々に会うことになった陽子。
初めは余り気乗りしなかったのだが、「気分転換にはいいかな」と会いにいったのは、結果として吉とでた。
「陽子の最近の新作って、確かに年々絵もよくなってきてるし、多くの人に受けそうな内容になってきてるけど、昔みたいなパッションを感じないのよね」
昔からの友人というだけでなく、BLという趣味を同じくしている……というかこの友人からの紹介で嵌ってしまった、いわばBLの師匠のような人からの忌憚のない意見は、今の陽子にとって大きく心に響いた。
「どういうのを描いたら受けるか? じゃなくて自分の描きたいものをただ無心に描いていけばいいんじゃない?」
それは陽子が心の底で思っていた、そして密かに他人から言ってほしかった言葉そのものだった。
仕事として受けているイラストは別として、趣味で描いている同人誌にまで余計なしがらみを絡ませたくはない。
当初は単純に金銭的な都合もあって、大衆に受ける作品を追求していた所もあったが、それで躓いて何も描けなくなっては本末転倒だ。
「うん、そうね! 久々に好きなものをこれでもかっ! って位描いてみるわ」
一度悩み始めるとしばらく悩み続けることが多い陽子だが、本人の中で納得できる答えを見出すと、それまでの悩みが嘘のように前に歩き出せるのが、陽子の長所のひとつだ。
昔からの友人に背を押された陽子は、その後二人で街をぶらついたり、カラオケでアニソン大会をしたりして、すっかり活力を充電することに成功した。
別れ際に友人に礼を述べ、自宅へと帰ってきた陽子は、早速夏フェスに向けての原稿に着手し始めるのだった。
それから五日後。
これまでの倦怠ムードが嘘のように、するするとイメージが頭に浮かび上がってきた陽子は、この五日の間にネームを仕上げるところまでこぎつけた。
ここまでくれば、後はクリエイティブな発想は余り必要ではなく、単純に作業としてスキャンしてパソコンに取り込んで、仕上げていけばいい。
「ふうぅ、んんあああああ。これなら十分どうにかなりそうね」
腕を伸ばして体の凝りをほぐしながら満足気にそう独り言ちる陽子。
このペースでいけば夏フェスの締め切りには十分間に合うはずだ。
一息ついた陽子は、気分転換と買い出しのために、手軽な服装に着替えて家を出た。
「ふーふーふーん。んーんー♪」
ようやく一段落……それも、行き詰っていた初っ端の部分を無事に片づけた陽子は、若干テンションが上がっているようで、気分よく鼻歌を口ずさみながら住宅街を歩いていく。
そして自宅から十分程歩いた場所にあるコンビニで、自分へのご褒美として大好きなチョコレートケーキやお菓子、お茶などを買いつつ帰宅の途につく。
その途中の出来事だった。
ご機嫌な様子で歩いている陽子の前方から、中学生に入るか入らないか位の年ごろの男の子が歩いてくるのが目に入った。
それがまた陽子の好みにピッタリだったこともあって、急に野獣のような視線に変わって少年をガン見しながら歩く陽子。
そう、陽子にはBLという趣味の他に、少年好きという嗜好も持ち合わせていたのだ。
徐々に二人の距離が近づいでいき、あと少しですれ違う、という段階になって陽子の血走った獣のような視線に気づいたのか、少年が何やら陽子に向かって声を掛けてきた。
(え、ちょ……。確かにチラッと見てたけど、こ、声を掛けられる案件じゃないはずよ)
慌てた陽子は今更ながらに少年から視線を外し、たまたまそっち見てたのよーとアピールするかのように今度は別の方向へと視線を動かした。
するとその目に飛び込んできたのは、交差点の左方から今まさに自分へと迫りくるトラックの姿だった。
「え……」
気付くのが遅れた陽子は、そのままトラックに轢かれ即座に意識を失ってしまう。
陽子を轢いたトラックは、停止することなくそのまま逃走を開始し、慌てた様子で携帯を取り出した向かいから歩いていた少年は、逃走する車のナンバープレートを激写していた。
それは咄嗟の動きにしては堂に入ったもので、携帯を取り出してからスムーズにカメラを起動して撮影するまでの流れは見事なものだった。
それから引き続き救急車を呼んだ、迅速で冷静な少年の判断によって、陽子は一命をとりとめた。
今回のひき逃げ事故は、確かに陽子の不注意な点もあったのだが、陽子は優先道路を歩いていたので、圧倒的に非があるのは、一時停止を怠ったひき逃げしたドライバーの方だ。
こうして陽子は、意識を失ったまま病院へと搬送されることとなった。
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そして、あの事故から三日が経過した。
あの時、咄嗟に少年が撮影したナンバープレートがきっかけとなり、その時トラックを運転していた者の氏名まで判明していたのだが、未だに犯人は捕まっていない。
また陽子も事故のショックからか、未だに気を失った状態であり、病院のベッドでスヤスヤと寝息を立てている。
その体はあちこちギプスや包帯が巻かれて痛々しいものであったが、本人は何やら夢を見ているようで、何事か寝言を言っていた。
「んあ……スキルぅ? ふたつ…………。どれに………じかんが……」
事故直後で未だ意識がないということで、個室を宛がわれている陽子のいる病室には、その時他に誰もいなかった。
いや、もし看護士がいたとしても他の事例と同様に異変に気づかれることはなかったかもしれない。
何事か寝言を呟いていた陽子であったが、次の瞬間には病室から跡形もなく消え失せていたのだ。
晴れの日ということもあって、少しだけ開け放たれていた窓からの風が、主のいなくなったベッドへと吹き付ける。
こうして意識を失ったままティルリンティへと導かれた陽子。
始まりの部屋で目覚めた時の第一声は、
「あれ……。トラックに轢かれて転移ってまたベタな展開ね」
であった。
そして、陽子の体には事故によって受けたケガは一切残ってはいなかった……。