第70話 予期せぬ事態
戦闘開始から一時間以上が経過し、既に趨勢は決していた。
後はまだ抵抗を続けているゴブリンチーフと、その周辺のゴブリン達との終盤戦。
それと、逃げ散るゴブリン達の掃討戦へと移り始めていた。
これまで幾度となく魔法を撃ってきた魔法職の者達も、ある程度MP的な疲労を感じ始めていた頃合いだ。
だが前衛としても戦える北条としては、せっかくの機会なんだから槍を使っての戦闘もしたいと思っていた。
そこでこの場の護衛を彼らに任せ、戦場に打って出ようと話を持ちかけたという訳だ。
元々、信也と北条がこちらに配属されて魔法だけを撃ち続けたのも、万が一はぐれたゴブリンが襲ってきた時に対応するためであった。
しかしこの状況でこちらに襲いかかるゴブリンはまずいないだろうし、陽子の結界もあるので心配はほとんどない。
実際、この場所に対してゴブリン側からも弓矢による反撃はされていたのだが、すべて陽子の結界によって防がれていた。
「そこの坊主も、ここの守りを頼まれちゃあくれんか?」
鉱夫の三人だけでなく、ムルーダに対しても護衛を頼む北条。
ムルーダとしてはもうひと暴れしたい所ではあったが、引き留めるようなシィラの視線もあって、仕方なくその申し出を受け入れた。
「よぉし、それじゃあちょっくら行ってくるぜぃ」
「ちょっと待ってくれ」
早速北条が駆けだそうとした所に、待ったを掛けたのは信也だった。
「俺も行かせてもらう。……ここの守りが薄くなるが、四人も護衛が増えたから大丈夫だろう」
「……ほぉう。俺は北東の部隊が侵入した個所からゴブリンチーフの下へ向かうつもりだがぁ、お前さんはどうする。ついてくるか?」
北条の問いに首肯で答える信也。
その答えを見るやいなや、出発の声も上げず、北条は回り込む形で村の北東の方へと走り出した。
慌てて信也もその後を追う。
「ふう、これでどうやら片はつきそうね。というかあの二人、私の"付与魔法"のこと忘れてるのかしら」
そんな二人の様子を見て肩の荷を下ろしたように息をつく陽子。
まだ戦いは終わっていないとはいえ、弛緩した空気が辺りに漂い始めていた。
▽△▽
「チーフはランクの割に強さ自体はそれほどでもないが、油断はするなよ!」
トムの忠告の声が響き渡る。
鉱夫一人一人の力はゴブリンと一対一で戦える程度の力でしかないが、数で押せばホブゴブリンだろうが相手する事もできる。
ゴブリンチーフの周囲にはホブゴブリンとホブゴブリンメイジなどの役職系統が固まっており、中々敵を突き崩すことができなかったのだが、戦場は移り行くもの。
この均衡を崩すキーとなる人物達がこの場に参上していた。
それは、協力をしてもらっていた冒険者の前衛職の者達だった。
中には何故か魔法の援護を頼んでいたはずの二人の姿も見えるが、剣と槍を構えた様子を見る限り、どうやら近接戦闘もそこそこやれるらしい。
「あれ? オッサンとリーダーも結局こっちきたのか」
多少疲れはみえるものの、まだまだやれるぞといった様子の龍之介。
"影術"でも使っているのか、やたらと影が薄い楓は、物陰から様子を窺いながら攻撃の隙を窺っているようだ。
「おう、こっちも少しは使っていきたいからなぁ」
そう言って右手に持つ槍を上下に振る。
「よおーーし。鉱夫達は無理をせず、あいつらが逃げ出せないように周囲を囲ってくれ。後は私と彼らと……腕に自信のある鉱夫であのチーフとその取り巻きを潰すぞ!」
「オオオオォォォッッッ!!」
トムの号令に野太い声を上げて応える鉱夫達。
これまで交代しながら前線を維持していた鉱夫達は、龍之介や由里香らに交代しつつも包囲網を固めていく。
ムルーダの仲間である盗賊のシクルムと、槍士のロゥも後に続き、北条の穿つ槍の穂先が赤い光を瞬かせる。
これまで指揮に徹していたトムも、手勢の衛士二名を引き連れ、自ら槍を手に前線へと踏み出していった。
硬直していた前線は堰を切ったように崩れ始め、次々とホブゴブリンやホブゴブリンプリーストなどが倒れていく。
ゴブリンチーフも焦りを隠せない様子だが、既に周囲はほぼ包囲されており、最早助かる見込みはない。
「NNF’FMXH(#<UH(GM」
最後に何事かを叫びながら特攻を仕掛けてきたゴブリンチーフ。
どうやら捨て身で最後に相手を道連れにしてやろうとしていたようだが、ロゥと北条とトムの三名が持つ槍によって、玉砕覚悟の攻撃も失敗に終わる。
その最後の特攻は、剣などで斬りつけたり突き刺したりした程度では止まらずに、そのまま最後の一撃を放ってきそうな勢いがあった。
ゴブリンチーフにとって不運だったのは、周囲にいたのが中距離武器の槍を持った三人だったことだろう。
「ゴブリンチーフ、討ち取ったぞおおお!」
トムの勝鬨の声に鉱夫達も大きな歓声を持って応える。
味方の士気がこれ以上ないほど高まり、ゴブリン達の士気はすでに駄々下がりで恐慌状態になっている。
後は残党狩りだな、とトムが安心しかけた所に何者かの緊迫した声が聞こえてきた。
「なんか……なんかやべーのがくるぞ」
緊迫した声を発していたのは、ムルーダのパーティーメンバーであるシクルムだった。
シクルムのその言葉に、同じパーティーメンバーであるロゥが、はっとした表情を見せる。
そんな二人の様子に、トムも思い当たる所があったのか、シクルムにとある質問を投げかける。
「もしや、お前は"危険感知"持ちか?」
トムからの質問に短く「そうだ」と答えるシクルムの肌は鳥肌が立っていた。
そんなシクルムの様子を見たトムは、慌ててこの場にいる者達へと呼びかけようとする。
「お前達、どうやら危険な何かが迫ってきてるようだ! 戦闘中の者以外は一先ずその場を離れ――」
『グオオオオオオオオォォォォォッッ!!』
突如村の外れの方から聞こえてきたその声は、雄々しく、猛々しく、そして力強い声だった。
人間などが発する類のものとは別種の……凶暴な魔獣をイメージさせるその凶声は、聞いた者の耳朶を激しく震わし、鼓膜へとその振動を伝える。
と同時に、その"声"自体が包含している魔力のようなものの力によって、体が無意識に竦み上がってしまい、まともに息すら出来なくなってしまう。
「あ……くっ……」
今の一声だけで、あれほどまでに高まっていた士気は一瞬で崩壊し、辺りには持っていた武器を手放した状態で固まっている鉱夫達で溢れかえっていた。
影響の強さの大小はあるにせよ、見渡す限りみんな動こうにも動けないといった有様だ。
その中で動きのある者といえば、衛士長であるトム。そして冒険者組から北条と龍之介だけだった。
しかもトムと北条はともかく、龍之介はかなり気圧された様子で、呼吸も荒くなっている。
「お前達、気をしっかりと持てぇ! 今の声はテイルベアーが発したものだ。じきにこちらにくるぞおおお!」
トムがただ大きな声を上げられるだけ、というスキル"大声"を使って周囲に注意を喚起するも、その声を聞いて動き出す者の数は少ない。
背中から冷や水を浴びせかけられたような……いや、それ以上に強い"恐怖"という感情を、無理やり引きずりだされてしまった彼らは、トムの忠告すら頭に入ってない状態だ。
「だめだ! このままでは被害が大きくなってしまう! そこの……あんたはどうやら大丈夫そうだな。後はそっちの坊主もまだ他の者よりマシなようだ。俺達三人で奴を足止めして、時間を稼ぐぞ!」
大分焦りを隠し切れない様子のトムが、周囲の状況を見て渋い表情をしている北条と、荒い呼吸も少しずつ収まってきている龍之介に指示を出す。
「……まぁ、仕方ないかぁ」
そう言って肯定の意を示す北条と、まだかすかに震えながら頷きを返す龍之介。
こんな状況の中では、僅かな数の味方でも十分心強い。これで多少は敵にも立ち向かえるようにはなるだろう。
とはいえ、トム自身もまだ敵がどちらからやってきているのかまでは、分かっていない。
状況を確認する為に、ゴブリン達が作った粗末な建築物の中で、一番マシな造りの建物の上にのぼり周囲を確かめようか、などと考えていたトムだったが、
「よぉし、じゃあ行くぞぉ。あの声はこっちの方から聞こえてきたぁ」
そう言いながら北条がゴブリン村の北方向に歩き出すのを見て、トムも龍之介もその後に追従していくことになった。
それから、軽い上りの傾斜になっているゴブリン村を、北方向へと進んでいった彼らは、進み始めて間もなくその現場へとたどり着いた。
――幾人もの鉱夫達の死体が転がり、錆臭い独特の匂いが漂うその場所は、まさしく血の海という表現がふさわしい、地獄のような光景であった。