第219話 チェックメイト
北条が悪魔をズタボロに切り裂き、地面へと見事な着地を決めると、周囲はしんとした静けさに包まれた。
一度体を大きく破損した状態から復活した悪魔を見ているとはいえ、流石にあれだけバラバラにされたら、いかに悪魔といえど復活は無理だろう、というのは冒険者たちも理解している。
しかし彼らは、目の前で起こった出来事がどこか遠い出来事のように思えて、現実味が薄く感じていた。
そんな周囲の視線を気にする様子もなく、北条は仲間の下へと歩いていく。
後方で援護をしていた陽子らも、そんな北条の方へ、みんなして駆け寄っていった。
中でも元気よく飛び出していったのは由里香で、まるでそのまま抱き着かんばかりの勢いで北条に向かっていく。
「ほーーーじょーーーーさあああん!」
北条の名を叫びながら飛び込んでいく由里香は、そのままひしっといった感じで北条へと抱き着いてしまう。
「ちょ、由里香ちゃん!」
「わ、わた……しも……」
由里香の西洋的な感情表現を前に、咲良は若干狼狽したように由里香の名を呼び、楓は持ち前の影の薄さを活かして、ちょこんと北条の上着の端を小さく掴む。
「…………。ほらほら由里香ちゃん。北条さんも困ってるから離れようね~」
「えー! もう少しくらいいいよね? だってせっかく無事に再会できたんだしー」
そう言いつつも芽衣の言葉が気になった由里香は、顔を上げて北条の様子を確認する。
確かに芽衣が言う通り、北条は何やら真剣な表情で空を見つめてはいたが、それは困っているというよりかは、何か気になることがあるといったように見える。
「あの、北条さん?」
北条の様子に気づいた咲良も、どこか上の空の北条が気になってそう声を掛けるが、北条からの返事はない。
その代わりに、北条は突然魔法の構築を始めていた。
「……あの辺かぁ? 【シャイニングピラー】」
周囲の人がその意図を掴めぬまま放たれた、上級の"光魔法"【シャイニングピラー】は、直径数メートル、高さ十メートル以上の巨大な光の柱を生み出し、その内部にいるモノに、光属性の強力なダメージを与えた。
「え、今の何したんっすか!?」
「あー、目には見えなかったがぁ、悪魔を倒した場所辺りから何か力のようなものを感じてなぁ。よからぬ気配を感じたんで、とりあえず"光魔法"をぶっぱしてみたんだがぁ」
「う、まさかあの悪魔、まだ生きてるとか言わないわよね?」
話を聞いていた陽子が、心底嫌そうな声で会話に加わってくる。
「いや、今の魔法で大分ソレも掻き消えて――」
そこまで言った北条は、話の途中で突如走り出した。向かう先は、今しがた魔法を撃った方向だ。
「なにっ!? どうしたの?」
陽子の誰何の声にも耳を傾けることもなく、北条はあっという間に遠くへと走り去っていく。
北条の突然のダッシュには、冒険者たちも何事かとざわつき始めている。
高速で移動していった北条は、途中で一度止まり、何かを確認するかのように一度集中をすると、再び高速での移動を再開する。
最早陽子達の目には追えない森の先の方まで、そのまま北条は駆け抜けていってしまった。
「一体何があったんでしょうか……」
困惑したメアリーの疑問の声に、答えられる者はこの場には誰もいなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「全滅……か」
長井は一人、アジト周辺の切り開かれた部分と森との境界付近で、一連の戦闘の様子をこっそりと窺っていた。
悪魔にとっても、長井の"魅了の魔眼"のスキルは得難い貴重な能力だったようで、長井に対しては悪魔の所有する魔法道具や魔導具などが、多数貸与されていた。
ボディーガード役に渡された魔法人形もその一つであったし、今こうして遠くの様子を眺めていた筒状の魔法道具も、その一つだった。
本当は戦闘の際に使えるような魔法道具も受け取っていたのだが、結局龍之介たちとの闘いでは先に逃げ去ってしまったので、使う機会を逸していた。
「アイツは一体何なのよっ!!」
苛立たし気に、地面を思いっきり踏みつけながら悪態をつく長井。
その脳裏にはあの冴えない中年男、北条のことで一杯であった。
「あの化け物と互角にやりあうなんて、聞いてないわよ! そもそもなんであんなにピンピンしてるのよ!!」
幾ら魔法が存在する世界とはいえ、あれだけボロボロだった男が即座に治るものか、長井には疑問だった。
戦闘の方も速すぎて長井にも詳細は追えなかったが、あの戦闘の凄さだけは長井にも理解出来た。
軽く打ち合っているように見える両者の攻撃も、自分が一撃でももらってしまったら、死を覚悟するほどのダメージになるだろうということを。
「まさかアレが敗れるとは思ってなかったけど、いっその事これを機に当初の計画を練り直せば……」
次々と予定を変更せざるを得ない出来事が続き、怨嗟の声を上げたくなる長井。だが、へこたれることなく、あくなき自身の欲求の為に、次の計画を考え始める。
そこでふと長井は、自分の所に何かが接近してくるのを感じ取っていた。
反射的にその何かの方向へと視線を向ける長井。
そこには空中に漂う、黒いもやのようなものが、うっすらと遠くに見えていた。
「なによあれ」
接近してきているせいか、徐々に大きくなっていくその黒いもやからは、不快さと歓喜という、相反するような二つの気持ちを感じていた。
二律背反の思いを抱いた長井は、その場から離れることも自分から黒いもやへ向かっていくこともできず、ジッと黒いもやの様子を窺う。
すると、突然強い光を放つ光の柱が、黒いもやのいる辺りで湧き起こる。
詳細は不明だが、何か強力な魔法であろうことは、門外漢の長井でも分かった。
実際この魔法によって、黒いもやは大分その濃度を薄れさせ、たよりなくそのまま空気中に分散して消えてしまうのではないか。
そう思わせる程に、その勢いは一気に弱まっていた。
それでも、深い絆で結ばれた二人が、遠く離れた場所に引き裂かれても互いが互いを求めるかのように。
そのかすかに残された黒いもやは、長井の方へと必死に向かっていく。
見た目的には、煙が風によって運ばれるのと同じように見えるかもしれないが、長井は何故かそこに感傷的な何か……というよりは執念のようなものを感じ取っていた。
そのせいだろうか。
普段は人がどんな目に遭おうが、自分さえ良ければいいと思っている長井が、大分接近してきていた黒いもやに、自分から迎えに行くように足を前に進めたのは。
「…………」
そして至近距離にまで迫った黒いもやを、右手で触れる長井。
ソレがキケンだという発想は、長井の中には全くなかった。ただ触れても大丈夫、触れた方がいい、触れなければいけない。
そのように無意識の一瞬で思考が流動し、本人としてはほとんど意識することなくソレに触れた。
その直後、力の奔流が長井を駆け巡る。
それは長井の右上腕部に刻まれていた、すでに消えかけていた悪魔の紋様を中心に体全体へと広がっていく。
かつて悪魔と契約した時とは逆に、心地よさすら感じながら、長井はその力の奔流に身を任せていく。
ただ微かに存在する澱のようなものが、長井の心の中の何かに、ねっとりと絡みつくのだけは不快であった。
長井はソレを流れてきた力の奔流を利用して押し流し、更に小さく細かく分断させていく。
やがてその黒い力の奔流が収まり始めると、長井は自身の異常に気付く。
まず、右上腕部のみであった紋様が、右前腕にも広がり、更には右肩を経由して右の乳房辺りにまで紋様が拡大されていた。
そして、体の内からあふれるような力と魔力。
これまで魔法など全く使えなかった長井だが、今は昔から知っていたかのように、魔法を使うことができると確信していた。
「これは……」
突然湧き起こった自身の変化だが、どうしてこのようになったのかについては、既に答えを得ていた。
「あの悪魔の力……の一部ね、これは」
本来であれば、契約元の悪魔が滅ぼされた場合、契約者側も何かしらの影響を受けるものであった。それが特に、悪魔との結び付きが強いほどその傾向は顕著だ。
それが長井の場合は、完全に悪魔の契約紋が消える前に、悪魔本体――悪魔の魂というか核のようなもの――を受け入れてしまっていた。
勿論これも、通常なら意識を悪魔に完全に喰われてしまい、元の長井の人格など残りはしない。
長井の魂は悪魔への供物となり、残るのは長井の肉体を借りた悪魔となる筈であった。
ところが肉体を失い、むき出しの裸のような状態の所に強力な魔法攻撃を受けてしまった悪魔は、自我が保てぬほどに致命的なダメージをもらってしまった。
それによって長井が得られる悪魔の力も大分目減りしてはしまったが、その代わりに長井は消え入りそうになっていた悪魔の自我を、どうにか抑え込むことに成功する。
そうして自分本来の意識を保ちながら、悪魔の力の一部だけを手に入れることに成功した長井。
これまでにないその力に、ようやく自分にもツキが回ってきたのかとほくそ笑む。
…………だがそれも長くは続かなかった。
「チッ、あの芋男ッ!」
内から湧き上がる力に溺れ、愉悦の表情を浮かべていた長井であったが、すぐ近くまで迫ってきた北条を確認したことで、冷や水を浴びせられた気分に陥る。
長井はすぐさま腰の〈魔法の小袋〉からマジックアイテムを一つ手に取ると、強化された身体能力と"機敏"のスキルによって、即座にその場を離脱し始める。
その動きは、悪魔合体前に比べると段違いな素早い動きであったが、それでも元の悪魔には到底及ぶものではない。
対して北条の方は、その元の悪魔ともやりあえるほどの身体能力を持っているのだ。
「おおっとお、どこへ行こうというんだぁ? 長井道子さんよぉ」
まるで悪役のような物言いで声を掛けてくる北条。
悪魔の力を一部得たとはいえ、北条から逃げ切るには、デーモン長井の力でも遠く及ばなかったのだった。