第199話 悪魔の契約
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はぁ……。どうしたものかしら」
朝食を終え、一人所在なく村を散歩していたメアリーは、昨日北条に告げられた内容について考え、ため息を漏らしていた。
確かに思い返してみれば、ここ最近のパーティーの雰囲気は妙な所が多かった。
実際そういった不安を慶介も抱いていたようだったが、まさかこのような事態になっているとは、メアリーとしては想定外の出来事であった。
「私も彼女と距離を取ろうとしないで、もっと親身になって話をしていれば……」
ついついそうした仮定の話を考えてしまっているメアリーは、出口のない思考の迷路を漂っていた。
そんなメアリーに話しかけてくる者がいた。
それは同胞の者でもなく、冒険者関連の人でもない……この《ジャガー村》の村民の一人だった。
「あっ、め、メアリーどん。お、おはようごぜえますだ」
その男は身長百九十センチ程もある巨漢の男で、麻の服の上に動物の皮を鞣して作ったチョッキ姿という、シンプルな衣服を身にまとっている。
「……あら、ゴラッサさんおはようございます」
このゴラッサという男は、異邦人達が初めてこの《ジャガー村》に訪れた際に、ビッグボアの討伐戦で重傷を負って臥せっていた、狩人の一人だった。
その後、村人の治療の依頼を受けたメアリーと咲良が、まず重傷の者からということで村長に案内されたのが、ゴラッサの家だった。
そして"回復魔法"でゴラッサの負傷を治したメアリーは、それ以来ゴラッサに好意を抱かれてしまい、普段は接触を避けるようになっていた。
メアリーが幾ら「私はすでに結婚しているので……」といっても、ゴラッサは納得できず……いや、想いが強すぎて諦めることができない様子だった。
その様子を見ていた当初は、咲良も軽くメアリーにひやかしを入れてきたものだが、その度にメアリーが懇切丁寧に諭したお陰で、今ではそういったことはまったく口にしないようになってもらえていた。
「あ、あの、その……」
メアリーに対する想いは強いのだが、素朴でシャイなゴラッサは、強引に迫ったりすることはなく、その点だけはメアリーもほっとしていた部分でもあった。
しかし、今朝のゴラッサは何か神妙な顔つきである。何か嫌な予感を感じたメアリーは、このまま挨拶だけで通り過ぎようと思い口を開きかける。
「あの、私これから家に戻る所な――」
「こ、これっ! 受け取って欲しいだ」
しかしメアリーが言い終わる前に、ゴラッサが話に割り込んでしまう。
頭を下げ、両手で持った手紙らしきものを差し出しながら……。
「あの、ゴラッサさん。何度も言ってますけど、このようなことは困ります……」
「あ、え、いやっ! 違うだ! おいどんからの手紙じゃなくて、これはメアリーどんに渡してくれと頼まれたもんだっ」
てっきり状況的に、ラブなレター的なものだと誤解していたメアリーは、己の勘違いに恥じ入った。
思えば、識字率がそう高くない世界、それも農村に暮らしている者が、手紙のやり取りをする習慣などはないと、冷静に考えれば分かることだった。
「そうでしたか。それでは、受け取っておきますね」
そう言って、ゴラッサの差し出した手紙を受け取るメアリーであったが、差出人が誰なのかまったく見当がつかなかった。
「そ、それじゃあ、おいどんはこれで失礼するだ」
そう言って、ゴラッサは肩で風を切らせて走り去っていってしまった。
ゴラッサの後ろ姿を見送っていたメアリーは、何とはなしに周囲を見回した後に、ゴラッサから受け取った手紙に目を通しはじめる。
会話だけでなく、この世界の文字の情報まで転移時にインプットされているので、彼ら異邦人は全員が『ヌーナ語』で読み書きが可能だ。
しかし、メアリーが受け取った手紙は、そういった知識が必要ない内容であった……。
▽△▽△▽
その日の夜遅く。
こっそりと部屋を抜け出したメアリーは、そのまま家を出て外へと向かう。
ダンジョンに行く訳でもないのに完全装備をしたメアリーは、村の北門から続く丘陵地帯を登っていき、やがて一本の大木がある低い崖の場所に辿り着く。
すると、メアリーの到着を察したのか、大木の裏から人影がひとつ躍り出てくる。
今日は雲のせいで月明かりもほとんど届かず、周囲は薄暗い。
ほのかに雲の隙間から差す微かな光だけが、辺りを照らしていた。
「どうやらちゃんと一人できたようね」
「……長井、さん」
そこで待っていたのは、現在進行している事件の大本である長井であった。
彼女もメアリーと同様に、完全武装スタイルでこの場に訪れていた。
手紙に書いてあった通り、この場には長井の他には誰もいなかった。……少なくとも、メアリーの感知できる範囲に人の気配は感じられなかった。
そう、あの手紙は長井から送られたものであり、日本語で記されていたものだった。
大まかな内容は、話があるから夜この場所に来てくれ。危害を加えるつもりはないし、一人で会いにいく、というようなことが記されてあった。
「やっぱ、その様子だと状況は大体掴めてるようね」
「ええ。北条さんが説明してくれました」
「……そう」
北条の名を聞いた時、ほんの一瞬だけ長井の顔に苦虫を噛み潰したような表情が浮かんだが、この暗い中、少し離れた場所に立っているメアリーには、気づくことが出来なかった。
「ちなみに興味本位なんだけど、私の能力のことはどうやって知ったの?」
「それは……」
一瞬言いよどむも、あの時北条が語っていた根拠を語り出すメアリー。
メアリーの話を黙って聞いていた長井は、ふとあることに気づく。
(これは……、いけそうね)
「なるほど、ね。あの坊やにはまったく効果がないと思ってたけど、そんな裏があったと」
ダンジョンを探索する時以外に、パーティーメンバーと行動することの少なかった長井は、慶介の耐性スキルについてはきちんと把握していなかったようだ。或いは単に興味がなかっただけかもしれない。
攻撃スキルならダンジョンの中で使う場面も出てこようが、耐性スキルとなるとわざわざ申告するなり話題に出るなりしないと、知る機会がないものだ。
「長井さん。あなたは何をしようと……何を考えてこのようなことをしているのですか?」
一頻り長井の能力の根拠について話し終えたメアリーは、次に私の番とばかりに質問を返してくる。
その質問を聞いた長井は、ここがチャンス! とばかりに大仰に語り始めた。
「別に……最初はただ、気に食わない奴を私のいいなりに出来たらいいなって位だったのよ。でも、あの時『アイツ』に出会ってしまってからは…………」
そこで一旦意味深に言葉を止める長井。
こっそりメアリーの反応を確認しながら、眼に力を籠めて感情的に話し出す長井。
それは名演と呼ぶ程ではないかもしれないが、素人目線では十分通用する演技だった。
「『アイツ』、ですか?」
「そうよ。あの悪魔のような……いえ、違うわね。『アイツ』は悪魔そのものだった。聞いたことない? この世界には実際に悪魔と呼ばれる存在が跋扈しているって」
その話はメアリーも聞いたことはあった。
なんでもとても恐ろしい存在で、昔から悪魔に関する物語や言い伝えなどは、どこの地域にも伝わっている、だとか他にも色々と話を耳にしたことはあった。
長井の問いかけに首をコクンと振って答えるメアリー。
この暗い夜では見落としがちになりそうな仕草であったが、長井はしっかり見えていたようで、そのまま話の続きを進める。
「その悪魔に執拗に耳元で囁かれたのよ。勿論初めは聞く耳なんて持ってなかったんだけど……。フッ、それで無事で済むならここまで恐れられてもいないわよね」
そう話しつつ、自嘲気味に笑いながら長井が一歩ずつ距離を詰めてくる。
その長井の動きにメアリーも警戒を高めていく。
「そう、構えないでいいわよ。……ホラ、見て。この右腕のところ」
ある程度の距離で停止した長井は、そう言って腕をまくり、右上腕部に刻まれた紋様なものを見せる。
距離が縮まったせいで、微かにだがメアリーにもその紋様のようなものが確認できた。
「これは、いわば……悪魔との契約の印、ね。これがあるから、私はもうアイツに逆らいようがないのよ。逆らえばその時は私の魂ごとアイツに奪われるだけ」
「それは、もうどうしようもないのですか? 魔法か何かで契約を解除するだとか……」
「無理ね。少なくとも奴はそう言っていたし、私も調べた限りでは契約の解除に成功した例は見つからなかったわ。あるとしたら契約に逆らって魂を奪われ、契約から解放されるくらいよ」
「そう、ですか……」
「そうよ。だから、私はこうせざるを得ない訳なのよ」
話をしている最中、更に徐々に距離を詰めていた長井は、そこで一気に"魅了の魔眼"に力を注ぎこむ。
確かに少しずつ使用時の負担は減ってきてはいるが、それでもこうした場面では全力で扱わないといけなくなるので、結局負担に関しては変化がない。
絶対に慣れることのない苦しみを味わいながら、少し呆けているメアリーの下にさっと近寄り、その顎に指を当ててクイッと自分と目線を合わせるようにする長井。
そしてしばし見つめ合う二人。
「……はぁ、はぁ。私もね、本当はこんなことはしたくはないんだけど、仕方がないのよ。今回は和泉が人質に取られているからね」
話しかける長井に対し、メアリーは反応をほとんど見せていない。
聞いていない訳ではないようだが、"魅了"のかかり始めで少し意識がボーッとしてるようだ。
「だからね。あなたも仕方ないことなのよ」
そう言いつつ〈魔法の小袋〉から何か取り出す長井。
「いい? 明日の昼、この場所に北条を連れてきて。そして、これをこっそりとあいつの腕に着けてもらえる? そうすれば和泉も無事で済むわ」
長井が手渡したのは、金属の腕輪状の装飾具で、表面には何か文字らしきものが刻まれている。
しかし、刻まれている文字は『ヌーナ語』ではないようで、読むことはできなかった。
「これを……北条さんに…………」
心神喪失のような状態に陥っていたメアリーは、夢遊病者のようにそう何度か呟いた。
「大丈夫。これも危険のあるものではないわ。あなたが気に病むことはないのよ。これしかあなたも北条も和泉も、助かる方法はないのよ」
そうメアリーの耳元で囁く長井の口元は、歪に歪んでいた。