閑話 転移前 ――慶介編――
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「むうぅ、慶介よ。上達したものだなあ」
参った! とばかりに、すっかり黒髪より白髪の割合が多くなっていた好々爺が降参の声を上げた。
「え! ほんとっ?」
それに対して嬉しそうな声を上げる少年――慶介。
ここは都内にある、大きな古い日本庭園を持つお屋敷の一角。
縁側で祖父と将棋を指していた慶介は喜びの声を上げた。
「えっとね、菅井さんに将棋の本を買ってもらって勉強したんだよ!」
嬉しそうに報告をしてくる慶介に、しかし老人の顔は表向き「そうか、そうか」と嬉しそうにしてはいるが、内心は穏やかではなかった。
(菅井さんに……か)
一部上場企業に名を連ねる会社において、社長というポストに就いている慶介の父は、めったに慶介の暮らす自宅へと戻って来ることはない。
同じく慶介の母である依子も父親以上に家へと寄り付くことはなかった。
代わりに慶介が幼い頃から通いの家政婦を雇っており、菅井恵子はそういった家政婦の中でも古株であり慶介にも隔たりなく接してくれる数少ない人物の一人だった。
「でね、おじーちゃん。僕がこの本を買ってって菅井さんに頼んだら『あら、私も将棋をやってみようかしら』なんて言ってね。それから本当に菅井さんとも対戦していって、ぐんぐん強くなったんだよ!」
慶介の語る話題に"両親"の話題は少ない。
同じ家族でありながら接点そのものがほとんど存在しないのだ。
母親の依子は一流のピアニストとして、最近ではテレビによく出演するようになっていた。
テレビの画面を通して、という一方的な接点はあったりするのだが、画面の中ではなく実際に母を前に見たのは何時だっただろうか。
しかしそういったことをおくびにも出さず、楽しそうに菅井さんとの話をしている慶介。
だがさみしく思っていないはずはないのだ。
実際、慶介の心の中では未だに親に対する愛情を求めている。
母親がテレビで時折語っている、「実際に直に見てはいない想像上の息子」は大人視点から見た「非常に良い子ちゃん」であり、そのテレビを見た慶介が母の言葉に応えようと、必死に勉強を頑張りお行儀よくしようとしているのを祖父――慶喜――は知っていた。
「なるほどのお。菅井さんには礼を言っておかねばならんな」
「うん! 菅井さんにはいつも助けてもらってるからね!」
「そうだな……。ところで、最近和慶の様子はどうだ?」
余り刺激を与えないよう、さりげなく息子の名前――慶介の父にあたる人物――を口にした慶喜は、慶介が一瞬沈んだ表情を見せるのを見逃さなかった。
「あ、うん。父さんはお仕事頑張ってるみたいだよ。タイのプーケット島のリゾート開発がひと段落したみたいで、航空チケットと宿泊券が送られてきたんだ。でも最近成績がちょっと心配で勉強に集中したいから、今回は遠慮したんだ」
「――そうかあ。私もプーケットには行ったことはあるが、中々良い場所だったぞ。今度はおじーちゃんと一緒にいってみるか、慶介」
「え、ほんとに? うわあああ……実はちょっと僕も興味あったから行ってみたかったんだ」
今度は本当に嬉しさだけを感じているようで、先ほど覗かせた沈鬱な表情は一切見当たらない。
(はあ……。あのバカ息子め)
▽△▽△▽
それは先日の話だった。
常日頃から孫の慶介のことを気にかけていた慶喜は、実の息子である和慶に連絡を取っていた。
「なあ和慶。私が強く言えるものではないことは承知しているが、もう少し何とかならんのか?」
「何とか、とは何のことでしょう? 父さん」
「……分かっているだろう。孫の慶介のことだよ。アレは素直に周りの言うことを聞いてはいるが、元からの性質でそうしているというよりは、親の関心を惹きたいが為の必死のアピールなのだ」
父に言われるまでもなく、和慶はそのことを重々に承知していた。
それはかつての自分も今の慶介と同じような立場だったからだ。
いや、寧ろそれ以上に和慶の少年時代は厳しいものだった。
代々続く良家の宗家として、慶喜も和慶も幼いころより勉学に習い事にと友人を作る暇すらなく、幼いころからエリートコースを歩んできた。
友達を作るとしてもそれは人脈作りの一環であり、対等の友人などというものを持つことはありえなかった。
そして二人はそのまま一族経営の会社を引き継いでいき、現在では和慶が社長として、慶喜が会長として巨大な企業を動かしている。
しかし時代も変わり価値観も変わっていく中、孫の慶介を得た慶喜はそれまでの古い因習を断ち切る判断に踏み入った。
社長の座を息子である和慶へと明け渡し、自らは会長として最低限の仕事をこなすのみとなったのだ。
また社内改革の一環として、社長や役員など上の者の働きを補佐する人事の調整を行った。
それまでは分家が台頭してくるのを防ぐために、大事な役職は宗家縁の者達によって占められていたのだが、そこに強烈な横風を吹きかけたのだ。
当然社内では大きな混乱や反発もあったが、元より優秀でカリスマに溢れていた慶喜によって、大きな破綻をきたすことなく改革は実行された。
そうした嵐のような改革が終わり、大企業の社長である和慶の負担も大分減っていた。
しかし空いた時間を孫の為に使う慶喜とは違い、和慶は相変わらず仕事一筋に打ち込んでいた。
「慶介には……優秀な家政婦も付けておりますし、最低限の習い事以外は強要しておりません。私達がなしえなかった打算の為ではない友人作りだって幾らでも出来るでしょう」
「そうではない……そうではないのだ。子供にとってまず大切なのは親の愛情なのだ」
二人のこうした話し合いは慶介が物心ついてからは度々行われていた。
しかし両者の話し合いは平行線のまま交わることはなかった。
「……それを貴方が言うんですか」
そう言われてしまうと、慶喜も何も言い返すことは出来なかった。
今思い返してみても、あの頃の自分には人情味に欠けていたという自覚がある。
結局の所、親の愛情というものを知らずに育ったこの二人には、子供を愛することが出来ない……いや、愛情の向け方が分からないのだ。
「そうだな。私が強く言えることではないかもしれん。だが、それは私とお前の間の問題であって、慶介には関係がない。……そろそろプーケットの件、プレオープンが間近だったな?」
突然話の方向が変わったことに訝しむ和慶。
「たまには家族サービスというのもいいんじゃないのか? 海外には既に何度か行ってはいるが、父親と一緒の旅行というのは慶介にとって初めての機会になる。きっと喜ぶはずだ。予定が合うならあの女も連れていくといい」
最後に仕方なくといった気持ちで依子についても触れたが、例え予定が空いていたとしてもあの女が参加することはないだろうな、と慶喜は判断していた。
「…………」
慶喜の提案に思いのほか沈黙を生み出し続ける和慶。
お湯を注いだカップ麺が完成する位の時間が経過した後、和慶はようやく答えの言葉を発した。
「その件については考慮しておきます。では、仕事が立て込んでおりますのでこの辺で失礼します」
「な、ちょっと待て。まだ話したいことは――」
プーッ、プーッ。
そこで通話は途切れた。
「はぁ……一体どうしたもんだか」
これまで大企業の社長として長年勤めてきた慶喜は、今までにも大きな問題にぶつかることは何度もあった。
それら全てを、とまではいかないが、より大きな問題に発展しないように尽力し舵を取ってきた実績がある。
しかし、こと家族問題に関しては未だ解決の糸口が見出せずにいた。
▽△▽△▽
あれから一か月。
結局和慶への忠言むなしくたった一度の家族旅行すら実現させることが出来なかった慶喜は、空港のロビーで一人寂寥感を感じていた。
「っと。いかんいかん、こんな様子ではまた慶介に気を使わせてしまうわ」
他人の態度に敏感に育ってしまった慶介には、プーケットへの旅行を眼前に控えている時にこんな暗い顔をみせてはいけない、と自らを戒める慶喜。
余裕を持って空港には到着していたので、まだまだ予定の時間まで余裕はある。
その間に何か飲み物でも飲みながら落ち着こうか、と有料のラウンジへと移動する慶喜。
三十分ほどラウンジで緩やかな時を過ごす頃には慶喜もすっかりいつも通りの気分を取り戻していた。
だが、一時間……一時間半と時間が経過する度に今度は言いようのない不安感が押し寄せてくる。
「予定の便まではまだ三十分はあるが……」
流石に不安に耐えきれずに連絡を取ろうとした矢先、慶喜の携帯電話に着信があった。
見てみると菅井からの連絡のようだった。
「はい、もしもし。私だが……どうしたんだ? 慶介もまだ空港についていないようだし、今頃何処に――」
慶喜が最後の言葉を言い終わる前に、息を切らせた菅井の声が慶喜の耳に飛び込んできた。
「はぁ……はぁ……。よ、慶喜様、申し訳ありません。その、実は慶介ぼっちゃんの姿が見当たらなくなりまして……」
「な、なんだとっ!」
この時二人は知る由もなかった。
今頃慶介が遠い異世界の地に飛ばされてしまったということを……。