第146話 ダンジョンの洗礼
その魔物は機会を窺っていた。
用を足している時というのは気が緩みがちだが、由里香は未探索の場所に少し足を踏み入れていたことで、いつも以上に周囲を警戒しながら用を足していた。
そのことに気づいた魔物は、あえて最中ではなく用も終わって帰り始めようとした瞬間に仕掛けることにした。
完全に気配を消していた魔物――隠密猿は、パッシブスキル"木隠森"と特殊スキル"隠密"によって、気配を消すことに長けた魔物だ。
体長は一メートル半近くあるというのに、その隠密能力の高さのせいですぐ目と鼻の先にいた由里香らにも気づかれなかった。
そこに、攻撃を察知されにくい闘技スキルである"隠拳"と、相手に気づかれずに攻撃に成功した場合、ダメージが大きく跳ね上がる"フイダマ"というスキルの併用でもって、先制大ダメージを与えてくるコンボが凶悪だ。
完全に不意を食らった由里香は、アゴの部分を人より少し大きい隠密猿の拳によって強打され、あごの部分の骨が砕けてしまう。
しかし、アゴを強打されたことで軽い脳震盪を起こした由里香は、苦痛の声を上げることもなくそのまま地面へと倒れていく。
その様子を見守っていたかのように、由里香が倒れると同時に奥の方から更にワラワラと猿系の魔物が姿を現し始めた。
どうやらこのT字路の横道の少し先には、部屋状の空間と繋がっている場所があったらしく、その中に待機していた魔物達が一斉に出てきたようだ。
それらの魔物達の中には先ほどの隠密猿の姿も二、三見受けられたが、大抵は別種の猿系の魔物だった。
その大部分が体長二メートル程もある剛力猿であり、これらの魔物は冒険者ギルドによってDランクに指定されている魔物だ。
そして、僅か二匹しかいないが剛力猿とは体格が同じながらも、体毛の色が異なる猿系の魔物も混じっている。
淡藤色の体毛をしたその魔物は狡猾猿というCランクの魔物で、猿系の魔物の中でも指揮官系統の能力を持つ。
もし狡猾猿がいなかったら、不意を突いて攻撃をしかけるだとか、規律的に一斉に襲い掛かるといったことはできなかっただろう。
フィールドの場合はともかく、ダンジョンの魔物の場合は侵入者に対する敵対心が強いのだ。
「ウィヒイイ! ウキキイィー!」
今も狡猾猿の鳴き声に従ってか、一先ず意識を失った由里香を放置し、すぐ近くにいた陽子へと剛力猿達が群がっていく。
「ちょ、ちょっ……」
剛力猿はその自慢の腕力で陽子に殴りかかろうとするも、常時張っていた陽子の【物理結界】によって防がれてしまう。
しかし、その後はタコ殴りの状態になっており、全力で結界の補強に魔力を費やしている陽子であったが、補強が間に合わず遂に結界が完全に破れてしまう。
近くにいた隠密猿は、愉悦の表情を浮かべながらその様子を観察していた。
最初の方は、結界で防げるだろうという安心感からまだ余裕のあった陽子。しかし結界が持たなくなると悟って、陽子の顔色が悪くなっていく。
そうした一連の表情の移り変わりは、隠密猿の嗜虐心を満足させる。
そして、今。
まだ完全に絶望した様子ではない陽子に対し、狡猾猿は闘技スキル"指突"でもって、陽子の頭部に向けて凶器と化した、指を立てた状態の拳を打ち込む。
「キィア"ア"アァァッ!」
狡猾猿の打ち込んだ拳は、慌てて回避行動を取っていた陽子の右目部分に当たり、眼球がギュウゥっと押しつぶされてしまう。
余りの痛みに吐き気を催して吐瀉物をまき散らす陽子。
そんな陽子に更に絶望を与えるため、狡猾猿が今度は反対の目に同じように"指突"を仕掛けようとしていると――
「いくわっ! 【エアーハンマー】」
「っ! っとぉ。【エアーハンマー】」
咲良と北条の"風魔法"が放たれる。
"風魔法"は"火魔法"に比べると比較的発動時間が短いものが多いので、一刻を争う時などに咄嗟に使うには便利だ。
そのため二人とも同じ魔法を使うことになったのだが、北条は咲良の【エアーハンマー】が陽子に攻撃しようとしている狡猾猿を狙っていることに気づくと、咄嗟に別の近くにいた魔物へとターゲットを器用に変える。
こういった魔法が被った場合には、上手くタイミングを合わしたりしないと、魔法が上手く発動しないこともあるのだ。
「由里香ちゃん! 【ライトニングボルト】」
少し遅れて発動が遅めの芽衣の"雷魔法"が飛んでいく。
それは陽子のいる場所の更に奥で、未だ倒れたままの由里香の近くにいた魔物へと命中する。
しかし、Eランク程度の魔物なら一撃でかなりダメージを与えられる芽衣のこの魔法でも、そこまで効果がなかったようだ。
猿の魔物たちは、魔法を放った芽衣に向けて威嚇の叫び声を上げる。
更に先ほどの魔法攻撃に対する意趣返しだろうか。
奥の方にいたもう一体の狡猾猿は、床に倒れ伏していた由里香の右腕を無造作に掴んで持ち上げる。
そして、上腕部と前腕部を徐に掴むと、曲がってはいけない方向に力づくで腕を曲げる。
「ッッ!?」
その余りの痛みに失神していた由里香は意識を取り戻す。
だが同時に襲い掛かって来た痛みによって、事態がつかめずに混乱状態に陥る。
見れば、自分の右腕が反対方向に折れ曲がっており、皮膚の一部からは骨が飛び出していて白日の下に晒されていた。
「あ、あ、アアアアアァァァァッ!」
実際に目で見たことによって、自分がどういう状況に置かれているか理解した途端、ようやく由里香は激痛の原因が右腕にあることを認識した。
同時に、恐怖という感情が心の奥から徐々に形を成して、由里香の精神へと襲い掛かる。
壮絶な表情を浮かべる由里香に満足げな様子の狡猾猿は、更に折れた方の腕を掴み、無造作に壁や床などに小柄な由里香の体ごと叩きつける。
まるでツルハシのように扱われる由里香は、体のあちこちに打撲や骨折などが生まれていく。
親友の余りの凄絶なさまに、咄嗟に"雷魔法"を放とうとした芽衣だったが、それを察した狡猾猿は盾にするように由里香を自分の前に翳す。
「このッ、クソッがあああぁぁッ!!」
普段の間延びした口調とは正反対のドスの効いた声が、芽衣の口から洩れる。
歯ぎしりをして、血走るような眼で盾にされている由里香を見ることしかできない芽衣。
そんなご主人様の気持ちを察したマンジュウが、魔物の群れへと突っ込んでいく。
そこでは先ほど魔法を放った後に走り出していた北条が、先行して魔物達と戦闘を繰り広げているが、多勢に無勢といった状態だった。
「もう! お願いっ! 発動して……」
後衛としての適正な距離まで近づいていた咲良は、この状態での魔法攻撃は危険と判断し、"神聖魔法"による回復を発動しようとしていた。
しかし、"神聖魔法"の初歩である【キュア】では遠く離れた相手に使うことはできない。
その為、咲良は必死にパーティー治癒魔法である【キュアオール】を発動しようとしていた。
「キュアオール! ……キュアオールっ!」
だがそう簡単に魔法が発動することはなかった。
焦燥からか、髪をワシワシと撫でながらやはり攻撃魔法に切り替えるべきかという考えが浮かんでくる。
その時、咲良の迷いを見越したかのような北条の声が聞こえてきた。
「咲良ぁ! そのまま、そのままチャレンジしてくれぃ。想いを……成功するイメージを!」
戦闘を行いながらの途切れ途切れの北条の声は、咲良を激烈に後押しした。
「想い……イメージ! 【キュアオール】」
咲良が先ほどまでと同じく『キュアオール』と唱えた瞬間、自身の体に訪れるあたたかな感覚と共に、薄っすらと体全体が光り輝くのを咲良は知覚した。