瞬間
高木はビルの屋上から周りを見渡した。見上げれば青空が広がり、遠く山の方は秋の訪れを知らせる紅葉が、緑を少しだけ赤く浸し始めていた。そのまま目線を下げてみると、大都会の其れには程遠いものの、似たような灰色ビルが群生しており、自動車は蟻のように道を外れず蠢く。自分も日頃はあの中のさらに小さな小蟻でしかないのだと思うと、あまり気分の良い物ではなかった。天気が良くて、下界に辟易して、まさに自殺日和というやつだと高木は思うのだった。こんなにも自分は薄っぺらいのだと知らずに生きていた。自分は実の処、“平気な人間”だと思っていた。いわゆる無関心というやつだからだ。
友人だと思っていた人間が裏で自分を陥れようと画策していた。「ま、そんなこともあるだろう」と直面した瞬間はそう開き直った、筈、だった。しかし時間が経つほどに吐き気が増していく。大して食事もしていなかったのに嘔吐、へたりこんで床のタイルを眺めるもまた嘔吐。胃液が枯れそうになっても、身体は容赦なく嘔吐を欲する。自分よりも身体の方がずっと正直に逃げたいと叫んでいるようだった。此処に至って薄々勘付いていた自分の実像は確信に変わった。自分は図太いから無関心なのではない、無関心という仮面を被らないと持たない程の打たれ弱さに気付きたくなかっただけだと。気付いてしまったら後は簡単な話だ。自分の周りには違和感が数々浮かんでくる。何故恋人の口数が減ってきたのだろう。早く帰る日が増えたのだろう。急な用事が増えたのだろう。新しい趣味を始めたのだろう。その件に触れないのだろう。無関心な自分が全て「ま、そんなこともあるだろう」と気にも留めなかった事柄は一つの理由につながる。
目の錯覚ならどれほど良かったことか、彼女と例の友人との逢引きを目撃してしまったのだ。いつからそのような関係だったのだろうか。今から思い返しても、もう見過ごしてきたことが多すぎて何が何だか分からなくなっていた。何が無関心なものか。本当は誰よりも欲深い。友情も愛情も欲してやまないクセに偽の孤高で己を飾っていただけではないか。
高木はそれでも今日までは己の生にしがみついていた。死ぬのは怖い。その本能との間にも苦しんだ。しかし、疲れの方が上回った。そしてふらふらと屋上に上がったのだ。フェンスに手をかける。遺書くらい書けばよかっただろうか、当てつけの一つくらい遺しても罰は当たるまい、などと考えもしたが、もうペンを取りにいくのも億劫だった。そんなことよりもあと少しだけ身を乗り出してコンクリートを蹴とばすことの方がよっぽど楽なことに思えた。フェンスは肩の高さより少し低く、今の高木の障壁にはなりえなかった。乗り越えて手すりを握りながら、身を翻して十二階下の景色に目線を移した。
だが、足の震えは止まらない。それは高木の肉体の最後の抵抗のようにも思えた。そうだろう、実際に参っているのは折れた心なのであって、肉体は五体満足なのだ。真の意味で必死に、自死を止めさせようという肉体の働きが、もう一度高木の決意を揺るがすべく、やがて全身に震えを伝播させていく。
その働きはもう効果を出しつつあった。震えている自分に気づいた高木は、目を潤ませながら唇をかみしめた。「いやだ」音になったかは定かではないが、そう口にした。自分の卑小さをもう認めてしまおう。今からは誤魔化さず自分と向き合って…それはとても苦しいことだろうが、何もやらないうちに終わってしまうことに比べれば、どれだけマシか。少なくとも、こんなに惨めたらしく怯えながら死のうとすることよりも。そう思い直した。瞬間。
屋上の入り口に人が駆け付け、高木に「おおい」と声をかけた。高木を止めに来た誰かだろうか。だがそれを確認することは叶わなかった。予期せぬ声に驚いた高木は足を滑らせて真下へと落下したからだ。
高木はそのわずかな瞬間に今までの人生の数々を思い出していた。幼い頃の幸せな時間、思春期の苦い思い出、我ながら空っぽだと思っていたのだが、それなりに意味はあったじゃないかと。妙に落ち着いて感謝しているのが何て自分らしくないのだろうと違和感を覚えたが、悪くないものだと。
「君、君、大丈夫か。」
高木は薄い意識の中、強い口調で呼びかけられる声に気付いた。
「今、救急車を呼んだから。しっかりするんだぞ。」
自分はどうやら生き残ったらしい。麻痺しているのだろうか、不思議と痛みは感じなかった。何の涙かはわからないが、高木は次々にあふれてくる熱い雫をどうすることもできなかった。泣き止むことも、腕を動かして拭うことも。だが、それよりも、まだやり直せるかも知れないという気持ちで胸がいっぱいになった。
幸いにも後遺症の類は無く、半年後にはリハビリも終え、社会復帰となった。高木はまず、仕事を辞めて旅に出た。正直、自分を裏切った二人に復讐を考えないではなかったが、強がりではなく、馬鹿馬鹿しくて仕方がないという心持で。何か憑きものが落ちたかのようでもあった。あんなに執着していたのにさと自分を笑いながら、でも卑屈な気持ちは微塵もなく、晴れやかだった。今までの自分に無かったものがこの先に広がっている。大した貯金を持ち合わせているわけではなかったが、船で島国を離れ、大陸へと向かった。
その旅路は、高木が散々素通りして見過ごしてきたものを取り返すものになった。温かい出会い、雄大な自然、ぼったくり、見たことのない料理、想像を絶する貧困、羨望の眼差し、異なる道徳、夢、うっとうしい虫、変な音楽。どれをとってもそこには無意味なものなど何一つなく、高木の人生観に全て影響を与えた。
帰国した高木は少ない元手で小さな店を開いた。旅先で得た経験を生かして、訪れた誰もが世界を旅した気分になれるような食事と雑貨を提供した。大繁盛はしないが、隠れた名店との評判で隠居するまで遠方からも人が訪れるような、愛される店として続けることができた。客の中には、高木の放浪談に救われたと感謝する者もいた。その中の一人と恋仲となって結婚し、息子一人、娘二人を授かった。家族とは喧嘩したり、仲直りしたりと忙しかったが、無事に成人してやがて孫の顔を見せに来てくれた。店を開いて四、五十年の頃、体の衰えを感じた高木は、かつての自分のように後悔の末自棄しかけた若者を拾って、跡取りとした。
身軽になった高木は妻とともに海の見える田舎へ越して、支えてくれた妻をいたわりながら過ごしていたが、いよいよ先に高木の方にお迎えが来てしまったようだ。病の床に伏しながら、高木は何かを思い出そうとしていた。何か違和感を覚えたからだ。この人生には満足している。ただ、何かの途中だったような、何かを忘
ぐしゃ
大きな音がした。
ビルの下に人が落ちたと、その周囲で騒ぐ声。
落ちていく最中、高木が走馬灯の代わりに見た光景はそこで途切れた。