夏色の恋
プロローグ
12歳になったばかりの由美は七夕の飾りつけに熱中していた。
先ほどから願い事に迷っている。
来年には中学にあがる。算数が数学に変わる。部活にも入ることになりそうだ。
その部活を何にしようかと思いあぐねていた。
縁側に座り込んで、父親が裏山から取ってきた由美の背丈よりも少しばかり大きい笹の枝に短冊をくくりつけるのだ。
庭先からまじかに武甲山が見える。すぐ横には下影森中学校の校舎がそびえてる。
母屋のほかに庭には納屋と耕うん機などを納める車庫が据えられている。
玄関から門までの間は置き石が敷かれ脇には石造りの燈篭が二基ばかり設置されている。
門はというと屋根がついて立派だが、かなり古びていて扉はいつも開けっ放しになっているといった具合だ。
「うん」
由美は思いっ切って筆ペンをとった。
縦に合唱部と書いた。脇に小さく、歌うまくなると続けた。
すると由美は、なにか大きな仕事でもしたような顔で満足げにうなづいた。
「えっとー」と言いながら笹の葉に短冊をつけようと真ん中より少し上側の笹を引っ張った。
枝はしなやかに曲がり、由美の視界をふさぐように顔を覆った。
モンペに割烹着の母親がひょいと庭先に出てきた。麦わら帽子に手には小さな鎌を持っている。
「由美」と声をかけてくる。
「あのな、弘おじさんが夏休みに療養でこっちにしばらく泊まりにくるよ」
「はーん」と母親のほうに顔を向けた。
水玉のワンピースで縁側に腰かけていた由美は、ちょうど靴脱ぎ石の上につっかけのサンダルが置いてあるところをぶらんと素足を投げ出していた。
母親は庭の隅に小さく作ってあるナスやトマトが植えてある畑にしゃがみ込んだ。
草むしりを始めたのだ。
由美はそんな母の背中をぼんやり眺めていた。
「弘おじさん・・・」
といってもにわかに記憶によみがえらない。
たしか由美がまだ幼稚園ぐらいまで近くに住んでいたおじさん夫婦の子供のことなのだろう。
父親の兄になるおじさん一家は、由美が小学校にあがるころに東京に引っ越していた。
由美は一生懸命に記憶の回路をたどってみた。
白いシャツとのぞきこむように近づいてくる笑顔が浮かんできた。
「おじさんって呼んでいいよ」
笑いながら幼い由美にはなしかけてくれたことを思い出した。
すでに大学生になっていたその人を、お兄ちゃんと呼びにくそうにしていた由美にそんな風に笑いながら頭をなぜてくれたのだ。
「ああ」
由美は記憶が鮮明になってきた。ほっそりとした体つきに、少し長めの髪が柔らかくカールしていた弘おじさんの顔がくっきりと浮かんできた。
なんとなくあこがれるような思いを由美は、幼いながらも感じていたものだった。
その弘おじさんが夏休みに療養で帰ってくる。
ぱっと明るくなったような嬉しさが込み上げてきた。なにかよくわからない楽しみが胸の中から湧いてくるようだ。
「療養・・・」
どこか具合が悪いのだろうか。都会ではなく病院なんかも少ない田舎に来るということはどんなことなんだろう。と由美は考えてみた。なかなかそれらしい病気を思いつけない。
由美は考えるのをやめた。
それよりもあのやさしいおじさんが戻ってくる。そう思うだけでなんだかウキウキしてしまうからだ。
なつイロのこい
一学期の修了式が終わったころに弘おじさんはやって来た。
お昼に父親が車で駅まで迎えに行った。
由美は何となく落ち着かなかった。朝の早いうちからまだかまだかといった気分だった。
それを見た母親がからかって声をかけてきた。
「お昼の電車だからね。それまでの辛抱だよ」
由美は返事をしないでしらんぷりを決め込んだ。ただ耳たぶは真っ赤になっていた。
お昼を食べ終えたころ、父親の軽トラックが庭に戻ってきた。ドアをパタンと閉める音が聞こえた。
「こんちわー」と若々しい声が玄関を開ける音とともに響いた。
「ハイハイ」と母親が、返事をしながら迎えに出た。
「お久しぶりです。お世話になります」
「いらっしゃーい。よう来られたねー」
笑い声が起きて、土間に人が上がる気配だ。
由美はちゃぶ台のそばに突ったっている。
「やぁー由美ちゃん。へぇー大きくなって」
玄関からの明るい光をバックにその人は近づいてきた。
由美はドキドキして緊張のため硬直してしまっていた。
小柄で、色白の由美は黄色の花柄模様のツーピースを着ていた。
弘おじさんはそのショートヘアのうつむき顔を覗き込むように笑いかけてくれた。
「しばらく厄介になるね。また一緒に遊ぼうね」
由美は声を出せないでいた。ただ小さくうなづくのが精一杯だった。
その夜は神津家の歓迎の宴だった。親戚や近所の親しい人たちが集まった。お寿司がとられ肉や野菜の炒め物が並んだ。大人たちの思い出話や、近況の話題でにぎやかだ。
由美はそんな大人たちの会話から、弘おじさんがどうやら身体的な病気ではなく精神的な悩みごとでしばらく休暇をとったということをなんとなく理解した。
とはいえ精神的な悩みというものがどういうものなのかは想像しがたかった。
ただうれしかったのは弘おじさんと昔のように屈託なく会話ができるようになったことだ。
弘おじさんが「来年は中学生なんだね。英語を勉強するようだね」
こう声をかけてくれたのをきっかけに由美は音楽が好きと答えることができた。合唱部に入ろうと思うとか、まだ親に言ってないことも話すことが出来たりしたのだ。
「由美ちゃんいい声しているものね」
「いろんな歌唄えるよ」
「へぇー、今度聞かせてね」
実際に交わした会話はこの程度だ。後はまた大人同士の話にもどって盛り上がっていた。
翌日からは由美はもう弘おじさんにべったりだった。
おじさんが、自室で書物など読んでる時間以外は、由美がねだるようにして外へ連れ立った。
主に近くの神社の境内に出かけた。
神社までは由美の足でもゆっくり歩いて小一時間ぐらいで行ける場所なので、ちょうどいい距離感と言えた。
東京の暮らしぶりや、由美の学校生活のことなど、次から次へと話題には事欠かなかった。
ただ一緒に歩いて話をするだけのことなのだが、由美には不思議なくらい楽しくて仕方なかった。
この楽しさはなんだろう。と考えてみても由美にはまったくわからないものだった。
弘おじさんも楽しげにごく自然に話し相手になってくれた。
「弘おじさんの悩みってなんなの」
由美はついにどうしても聞きたかったことを口に出した。
あの宴会の時に大人たちが言っていた「誰でもつまずくことだよ」とか「こればっかりはお医者さんでも治せんなぁ」とかのことだ。
一瞬驚いたような表情を見せた弘おじさんだったが、すぐに苦笑いしながら頭をかいた。
「そっか由美ちゃんはけっこう大人の話わかってるんだね」
鳥居をくくぐると、目の前の石段まで石畳が二列に並んでいる。ちょうど人がすれ違えられるような按配で配置してある。
その脇にはお手水用のやぐらが組んである。さらにその周りのあいた空間には花崗岩が人の座りやすいように四角く加工され点々と置いてある。
そのひとつに弘おじさんは腰かけた。由美も並んで座った。
弘おじさんが、ゆっくりと言葉を選びながら語ってくれた話によると、学生時代にあまり女の子とのお付き合いがなかったおじさんが、会社勤めをしてからほとんど初めてに近い恋愛を経験をしたという。(そんな言葉を聞くだけで由美はドギマギした)
弘おじさんは大学院の経済博士の称号を取得し、大手商社に入社してすぐにマーケティングの仕事を任された。
弘おじさんは大いにはりきり実績をあげて評価も高かった。
そんな折にヘッドハンティングの形で、外資系の会社からその彼女はやってきた。
有能な二人はたちまち仕事に大きな成果をもたらし脚光を浴びた。お互い年も近く、気持もあうため自然な流れで付き合うようになった。
しかし、しばらくして嫌な噂が流れた。
彼女、桂木かえでさんに取締役の一人が自分の息子の縁談を持ちかけたというのだ。
まさかと思った弘おじさんが本人に問いただすと、彼女はあっさりとその事実を認めた。
しかも驚いたことに見合いまで済んでいて話はまとまりかけているという。
衝撃を受けたおじさんがその裏切りを批難した。彼女は泣いて詫びたが、すでに後戻りできないほどに彼女の心は動いていた。
弘おじさんはかえでさんを許せなかった。結果二人は決別した。
次の日から弘おじさんは引きこもってしまった。
有能な研究員だったおじさんのことを会社も見捨てておけず、またプライベートのこととはいえある程度同情すべき点もあったので、半年間の有給休暇という格別の処遇で対処してくれた。
中野の実家に戻ってもふさぎこんでいるおじさんをみかねて、両親から生まれ育った秩父で療養することを勧められた。
秩父での思い出は楽しいことばかりだ。弘おじさんは喜んで戻ってきたという。
かいつまんで話してくれた弘おじさんは、少し苦しそうに見えた。幼い姪に辛い思いを吐露することは躊躇するところもあった。
それでも誰にも話せない胸の内を声に出せたことで弘おじさんはほっとしたように見えた。
自分を裏切った彼女にも怒りを覚えたが、人の恋人を奪おうとする会社の上役への悔しさがこみ上げる。
弘おじさんが、出勤を拒否したのもそのことが一番だった。
由美は全部を理解できたわけではなかった。
しかし、このとき驚いたことに由美はずいぶんと大人びた受けこたえをしたのだ。
「弘おじさんが人としてとても純粋なのよ。だからそんなに傷ついたんだわ。おじさんがかわいそう」
そう言ってまじまじと弘おじさんの顔を見つめた。
弘おじさんは少し驚いたように由美を見返した。
「ふーん、由美ちゃんありがとう。そんな風にいってもらえるとなんか助かるよ」
由美は嬉しくてたまらくなった。弘おじさんの胸の内を話してもらえただけでなく、感謝の言葉まで言ってもらえたのだ。
「由美は来年、中学生だよ。もう大人になるのよ」
声は自然にはずんでくる。少しばかり唇をとがらかして弘おじさんの顔を見上げるようにした。
邪気のない幼い表情ながら大人っぽさものぞかせるかわいらしさに、弘おじさんもたじたじになってしまう。
「うふふ」
由美はおじさんの手を持って立ち上がった。
「おじさん行こう」
17歳も年下の由美がリードするように連れ立って歩きだした。
手水で口をすずき本殿につながる階段に向かった。由美は再び手をつないで先に立って登ってゆく。
弘おじさんは内心驚いていた。まるで大人の女性と歩いているような面持になってしまう。
子供だとばかり思っていた由美が美しく育った少女に変身していたのだ。思わず知れずドキドキしてしまった。
男の子とは違う女の子の成長の神秘を、つないだその手から実感させられた。
白いTシャツと青のキュロットに包まれている弾けるように動く色白の肉体が育ち盛りの健康美をより鮮やかに見せてくれている。
五十段は超えるだろう急な階段を登ると、さすがに二人とも息があがった。ハァハァといいながら顔を見合わせた。
「しんどい」
由美が笑いながら言うと、弘おじさんも笑いながらうなづいた。
階段の上は広場になっているがすぐに酒船石が目につく。昔々、薬や酒を造るのに使われた名残といわれているものだ。
本殿の前には花崗岩の狛犬が二匹、阿吽の呼吸で向かい合うように設置してある。
その間を進むと右手に踊りなどを奉納すための舞台がつくられている。
位置としては本殿の正面になっている。神様からよく見える形になっていた。
由美の背丈と同じくらいの高さに演舞の舞台がしつらえてある。祭りの日には夜中まで御神楽が演じられる。由美も物語の内容はわからないまま、その踊りの面白さや雅楽独特の音楽に魅了されて夜遅くまで見ていたりしたものだった。
本殿の周りは木材で格子の塀が組んである。その入口から二人は連れ添って足を踏み入れた。
昨日だってそうやって入っていったのだが、今日はいつもと違う。由美が弘おじさんの腕に体を寄せているのだ。
弘おじさんは戸惑いながらも、由美の無邪気な甘えぶりを心地よく受け入れていた。
本殿の庭は小石が敷き詰めてある。そこを踏みしめて歩くと気持ちが良い。
だからここを歩くのはいつものことだ。馴れた感じで表から裏手にまわりこもうとして二人の足がいきなり止まった。
思いもよらず人がいたのだ。それも一人でなく三人の中年男たちだった。
相手の男たちもぎょっとした顔つきでこちらを睨んできた。
由美はその男たちの中で一人だけ見覚えのある顔を見つけた。たぶん神主さんだ。
しばしの沈黙の後、弘おじさんが由美をうながして後ずさりするような恰好でその場を離れた。
男たちは無言で見送っていた。その表情は異様に険しかった。
階段を降りるところで、二人の緊張が解けた。
「ふう、驚いた」
「ほんと、人がいると思わなかった」
二人は顔を見合せて小さく声を出して笑い合った。
階段を降り切ると、どちらともなく手をとりあった。
「あはは」
「あはは」
楽しさがはじけるようだ。笑いながら家のほうに小走りで向かった。
翌日から毎日、由美は弘おじさんの部屋に入り浸りで過ごすことが増えていた。
弘おじさんは、やはり資料を読んでいろんな分析をしたりしてる。パソコンに向かっていることが多い。
由美はそのそばでごろんとしながら、本を読んで時間を過ごしている。とにかく弘おじさんのそばにいたいだけだった。
母親はちゃっかり昼ごはんの用意を由美にやらせたりして、弘おじさんの面倒を見させたりしていた。
弘おじさんが時折パソコンから顔を離して由美に話しかけてくる。
「どうだろう、由美ちゃん。学校で自分の好きな学科をたくさん勉強して、不得意な科目は少なめにできたらうれしいかい」
「好きな科目をたくさん・・・」
「うん、うちの会社で私立の小中学校向けの教育プログラムを考案しようと思うんだ」
「ふーん」
「文科省って国の機関で学習方針は決まっているんだけど、私立校はある程度自由にプログラムを組めるので、一人ひとりの個性を伸ばせるシステムを考えてみたいんだ」
「ふーん。由美は賛成。音楽だったらもっとやりたいもん。それに弘おじさんがすることは由美はいいと思う」
「そう、ありがとう。算数の好きな子と国語の好きな子がいつもおんなじという方が変だと思うんだ」
「うんうん、そう思う」
「よーし、この案をまとめてみよう。由美ちゃんサンキュウ」
「えへへ、弘おじちゃんがんばって」
パソコンに向かう弘おじさんの背中をみながら由美は満足げに本をひろげて寝そべっていた。
祭りが近づいている。太鼓を練習する音が遠く小さく聞こえてくるようになってきた。
由美の母親も婦人会で盆踊りの練習に出たりし始めてた。と言っても神社の祭りとは別で、地元主催の下影森中学校の校庭をかりての盆踊り大会の準備のほうだ。
そんなある日暑い日差しがようやく和らいだ六時頃来客があった。
母親はまだ戻っていなかった。父親も出ていた。
「ごめんくださぁーい」と二度声があった。
由美が「はぁーい」と返事をして玄関の土間に立った。
玄関の外に大きめの帽子をおしゃれな感じで着こなした、白いワンピースのすらりとした女性が立っていた。
「桂木と申します。突然で申し訳ありません。あのー、神津弘さんこちらにおられるでしょうか」
由美はいつものごとく硬直してしまった。桂木と名乗った女性は、突っ立たままの女の子の姿に戸惑ってしまった。
しばらく気まづい沈黙の間が空いた。
その女の子の後ろに続く廊下の暗がりからお目当ての弘おじさんがスッと姿を現した。今度は訪ねてきたかえでの方が硬直する。
「・・・」
「・・・」
二人は由美を挟んで顔を見つめ合い声が出ない。
由美を含めて三人の無言の時が流れた。
「あ、あのうごめんなさい。ご実家にお聞きしたらこちらだと教えてもらって」
かえでがやっとの思いで声を出した。
「そっ、そおー」
弘おじさんもやっとこ返事をしてる。
「どうしてもお会いしたくて・・・」
「う、うん。あー、そうなんだぁ」
由美はこの人がかえでって人なんだとあらためて思った。
(うあ~どうしよう)
由美の心は千々に乱れる。体は固まったままだ。
弘おじさんも由美のことを気にした。
「あの、ちょっと外に行こうか」
「あっ、はい」
「あの由美ちゃん、ちょっと外行ってくる」
「・・・」
弘おじさんは由美をやり過ごして土間でつっかけを履いて玄関口に向かった。
なにげにノースリーブのかえでの肩に触れて外の方に彼女を促した。
そのしぐさに、一瞬由美は胸にナイフを刺されたような痛みを覚えた。
二人が出て行ったあと、由美はそのまま立っていた。一人取り残された思いだ。
だんだんとあたりの暗さが増してきた。明かりをつけないでいつまでもじっとただずんでいる。
それでも弘おじさんは戻ってこない。それどころか誰も戻ってこない。一人ぽっちで突っ立ている。
はっとした時には一時間は過ぎていた。仕方なく由美は奥の自分の部屋に戻ろうとした。
ふと母親の部屋が目についた。
いつものことだが、本人はほとんど部屋にいることがないのでふすまは開けっぱなしだ。
部屋の壁際に鏡台の置いてあるのが目にとまった。
幼いころ、勝手に鏡台をさわってよく叱られたものだった。
由美は惹かれるようにふらふらとその部屋に入った。そのまま鏡台の前まで行ってペタンと座り込んだ。
なにすることなくぼーっとしていたが、おもむろに引き出しを開けて中を探った。
口紅を取り出すと鏡を見ながらゆっくりと紅をさしてみた。手を止めて自分の顔をみつめる。
「きれいな人・・・」
呟いてとても悲しくなっていた。
「イーだ」
鏡に向かってふくれっ面を見せた。
玄関口で音がした。父親と母親がほとんど同時に戻ってきた。
「遅くなったー。由美、弘さーんすぐに夕飯作るからね」と母の声だ。
作り置きのおかずをそそくさと用意してすぐに夕飯は始まった。
父と母はなにやら怒っていた。
「まったくあの神主にはあきれたは」
「ほんと、あの鎮守の山は町みんなのものなのにねぇ」
「勝手にブローカーと手を組みやがって」
「あの人も騙されたのよ。欲に目がくらんで。まったく」
二人は集会で神主が勝手に神社の裏山を売ろうとしている噂を聞いて憤慨しているのだ。
おかげで由美がいつになく元気がないことに気がつかない。
由美は何日か前、弘おじさんと神社の裏で神主さんたちと遭遇したことをなんとなく思い出していた。
あの時険悪な雰囲気がしていたのをおぼえている。
「ごちそうさま」と由美がおかわりもせず席を立っても、「由美、弘さんは」と聞いただけだった。
「お客さんがきて出かけたよ」
「あら、そう」
「ふーん。じゃあ外で食べてくるかなぁ」
由美は親の会話を無視して自分の部屋に戻った。とにかく早く一人になりたかった。
七月も最後の日。待望の祭りの日を迎えた。午前中から花火が打ち上げられた。
なんだか町全体がウキウキしてるようだ。小さな子どもたちが浴衣を着せられてはしゃぎまわっている。
由美も背丈が伸びたこともあって大人用の浴衣をあつらえてもらっていた。
由美はひそかに弘おじさんにその浴衣姿を披露するのを楽しみにしていた。
あの夜、弘おじさんは遅く帰ってきた。特に何かを語ることはなかった。翌日顔を合わせたとき弘おじさんのほうからにこりと笑ってくれた。
由美はよくわからなかったが、弘おじさんがどこにも行かないことにホッとしていた。
だから由美の方からいろいろ聞こうとはしないでいた。
そうして今まで通りの日々に戻った。ただ前のように頻繁に弘おじさんの部屋に出入りすることはなかった。
かえでという人が会いに来て以来、なんとなく遠慮するような気持ちが由美の中にうまれていたのは隠しようもない事実だった。
それだから、今日は久々に弘おじさんと連れだって歩くことになる。
お祭りがどれほど由美にとって待ち遠しかったことか。
この神社の祭りには盆踊りがない。夕方から夜中まで催される神楽が呼びものになっている。
そのこともあって、人々は日が落ちる頃に三々五々と集まってくる。
由美も五時ごろになって新調の浴衣を身につけた。
青地に赤紫で桔梗の柄があしらってある。帯も濃い紫でシックに纏めてある。
由美によく似合っていた。
庭先にじっとただずんでいると、なにやら大人びた色気のようなものさえ感じさせる。
弘おじさんも最初見たとき「おっ」といった表情を見せた。
由美は気持ちが弾んだ。神社までの道は大勢の人が歩いていた。老いも若きも年に一度の夏の風物詩を華やいだ気分で楽しもうとしている。そんな中を二人して歩いていること自体が由美にはとても幸せなことに思えた。
遠雷が聞こえる。
この地方ではこの時期決まって激しい夕立に見舞われる。
昼間の暑さを一気に冷やすかのような土砂降りだ。しかし三十分もすればおさまってしまう。地元の人はそのことをわかっているので、雷が聞こえても慌てることはない。
境内の中はいろいろな屋台がところ狭しと並んでいる。
たこ焼きや焼きそば、焼きトウモロコシなど、食べ物系。お面や金魚すくい射的など遊び系などと様々だ。
由美も綿菓子を片手に水玉すくいに興じたりしていた。
弘おじさんと浴衣姿で歩くことの楽しさにすっかり酔いしれていた。
弘おじさんも白地に青の格子模様の浴衣だ。すらりとした弘おじさんには下駄を履いて歩く姿がお似合いだ。
途中何人かの同級生にあったが、皆一様に驚いた顔で二人を見比べながら挨拶してくれていた。
そのことも由美にとってうれしいことだった。
雷は相変わらずゴロゴロと夕暮れの空に鳴り響いている。しかし、いつものように夕立ちはやってこない。低く雲が垂れこめているばかりだ。
階段の上の広場も屋台でひしめいていた。例の酒船石や狛犬の周りも人でいっぱいだ。
本殿へのお参りも多くの老若男女で賑わっている。
やがて舞台の上で雅楽が独特の調べを奏で始めた。
皆が舞台のまわりに集まりはじめてきた。いよいよ御神楽の始まりだ。
由美もいい場所をとろうと、その人ごみの中にはいっていった。弘おじさんもやや遅れて、由美のあとを追った。
雷鳴はときおり鳴り響いているのだが一向に夕立ちはやってこない。いつもと少し違うが気にする人はいない。
人々の熱気が徐々に会場をおおい始めている。暗闇がようやくあたりをつつみこんできた。祭りはこれからが本番だ。人ごみに押され弘おじさんは由美を見失っていた。
トントンと肩を叩かれた。振り向くと見知らぬ男が顔を寄せてきた。
「兄さんちょっとついてきてくれませんか」
弘おじさんは驚いたが、その男はさっさと背中を向けた。何の用だろうと首をかしげた。
由美を探したがやはり見当たらない。弘おじさんは仕方なくその男のあとに続いた。
本殿の裏手に向かう。ますますなんだろうと疑問が深まる。男はさらに山の奥に向かう。
もう祭りの賑やかさは遠のいて喧騒は聞こえなくなった。
小さな沼があった。あたりは明かりもなくかすかに遠く提灯のオレンジ色がのぞめるくらいだ。
「あのー、何の御用ですか」
たまらず弘おじさんが訪ねた。
「なんの御用もねぇーもんだ」
背後からいきなり別の男の声がした。振り向くと小柄な男が近づいてきた。暗くて顔はよくわからない。
「あんたのおかげで大事な商売邪魔されたんだよ」
「えっ」
「ふん、とぼけやがって」
先ほどの男だ。もうそっちの顔もよく見えない。
また雷の音が低く響いた。かなり近くに感じる。
「あんたが俺たちと神主の話を盗み聞ぎして、いいふらしたおかげで儲け話がふっとんじまったじゃねえか」
弘おじさんには何のことか意味がわからない。
例の神社の裏山をリゾート開発業者に売る払う計画のことだ。
本決まりになる寸前に氏子たちの猛烈な反対にあって話は頓挫してしまった。神主を買収するのに多額の金をつかったブローカーは相当に痛手を食った。
きっとあの本殿の裏手であった若いカップルが洩らしたに違いないと悔しがっていたのだ。
そこにあの時の若い男を祭りの場で見つけた。復讐のつもりで痛い目にあわせてやろうと呼びだしたのだ。
ゴロゴロと雷の音が大きく響き渡ってきた。
男二人は弘おじさんを挟むように近づいてきた。弘おじさんは後ずさりしながら身構えた。
ジリジリと迫ってくる。多勢に無勢、弘おじさんは沼の方に追い詰められた。
「やめて」女の子の声だ。
ぎょっとして二人の男は振り返った。
由美が立っていた。由美は弘おじさんがいつのまにか見えなくなったのであわてて探した。
本殿の脇を通ろうとする弘おじさんの後ろ姿を見つけた。すぐに駆け寄ろうとしたが、人ごみでなかなか近づけない。必死に追ったが見失いかけた。それでもかすかに聞こえた足音をたよりにこの場にたどり着いたのだ。
暗闇の中、見知らぬ男二人が弘おじさんに詰め寄っていた。由美は怖いと思う前に、弘おじさんが大変と直感して夢中で叫んだのだった。
雷鳴はさらに大きく近く鳴り響いている。
「あっこいつはあの時の連れだ」
「おう、そうだ」
二人の男は由美の方に体を向けてきた。
弘おじさんは由美の前に体を寄せた。
「ふん」
男たちは威嚇するようなそぶりで二人に迫ってきた。
「やめなさい」
女の声が暗がりの中から聞こえた。
そのせつな真昼のような明るさであたり一面が照らし出された。
稲光が音もなく光ったのだ。
その眩しい光の中、髪の長い女性のシルエットが浮かび上がった。
由美は「なぜ」と心の中で叫んだ。
弘おじさんが小さく「かえで・・・」とつぶやいた。
由美はその声を聞いて唇をかんだ。眼には怒りの色さえ浮かんでいるように見えた。
二人の男は立ちすくんでいた。
稲光に照らされて現れたこの女性が、この世のものに見えなかったからだ。
「あわわ」
二人とも腰を抜かした。後ろ手に這うように沼の方に後ずさりした。
その瞬間、耳をつんざくような大音響が響き渡った。あたり一面眩しいほどに閃光につつまれた。
落雷だ。沼に雷が直撃したのだ。一瞬の出来事だった。そしてすぐに元の暗闇に戻った。
それでも空気を震わせるような音がしばらく続いていた。
もはや誰もたってはいなかった。そこにいた全員が倒れていた。感電したのだ。
あたりはなにもなかったようないつもの静寂につつまれた。
エピローグ
神社の裏手に落雷があったということで、消防団がみまわりにやってきた。
地元で万年沼よばれているため池で5人の男女が倒れているのが発見された。
大騒ぎになり、祭りは中断された。救急車が出動し病院に運ばれた。
由美は救急車のなかで息を吹き返した。かえでも病院ですぐに目を覚ました。
男3人は簡単には戻らなかった。それでも1時間ぐらいで意識が戻った。
ブローカーの二人は警察の聴取を受け、恐喝の疑いで収監された。
弘おじさんは症状が一番重く大事をとって翌日に退院した。
かえではどうしても弘おじさんの許しが欲しいと、場合によっては婚約を破棄してでもと思い詰めてきたのだ。
まだ弘おじさんと付き合い始めのころ、秩父のお祭りの御神楽が好きだとなんども話してくれたことを思い出しこの日を選んで会いに来たのだ。
祭りの会場で弘おじさんを探していると、由美が急いで本殿の裏手に向かう姿を見つけた。
「あ、あの子」
ついて行こうとしたのだが、不慣れな暗い道ですぐに見失ってしまった。それでもうろうろしていると人の声が聞こえてきた。
行ってみると、二人の男が弘おじさんと女の子に襲いかかろうとしていた。
かえでは無我夢中でやめなさいと叫んだ。その瞬間に落雷にあったのだ。
弘おじさんは回復して何日かすると実家の中野に帰ることにした。
由美は見送りはしなかった。部屋で机に向ってじっとしていた。弘おじさんが挨拶に来ても振り返らずただうなづいただけだった。
玄関を閉める音がして、母親の見送りの声が聞こえる。軽トラのドアが閉じられエンジンの始動する音が響いた。車が遠のきやがて静かになった。
由美は机の上に並べてある本の背表紙を見つめながらいつまでも動かずにいた。
今年もいつものように旧のお盆がやってきた。
庭に迎え火が焚かれお供物が仏壇に供えられた。
由美は縁側に素足を投げ出して座っていた。靴脱ぎ石にはサンダルが一つ置いてある。
目の前に武甲山がそびえ、下影森中学校の校舎がすぐそばに建っている。
屋根越しに見える青空と白い雲が美しく輝いている。
足をぶらんとさせながら、由美は来年は中学生、大人になるんだとぼんやり考えながら遠くを見つめていた。
完
石森章太郎先生の短編「龍神沼」へのオマージュとしてこの作品を掲載いたします。