えん
音がしている。
高い音だ。
鈴の音に似た、澄んだ音色がする。
目を凝らしても、辺りは漆黒の闇。
音の発現どころか、己の掌すら見えない。
そんな中で、
誰かが、呼んだような、気がした。
早朝。
ぱたぱたと、女房達の走り回る足音がする。
朝は何かと忙しい。それでも、女子と言う生き物は、口を動かさずにはおれぬようだ。
「九郎様は今日は遅うございますね」
「珍しいことにございます」
そう言う彼女たちは、どこか嬉しそうだった。
女房達にとって、見目麗しい九郎は何かと噂の的だった。何かの折に一目その姿を見ようと、僅かな隙を伺う者も少なくない。
「やれやれ、女子と言う物はどこでも姦しいものよ」
弁慶は弁慶でそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。自分の主が慕われるということは自分のことのように嬉しい。彼は、主の目覚めが遅いのを心配して様子を見に来たのだ。
「しかし、九郎様がこれほど遅いのは珍しい。お体の具合でも悪く無ければよいのだが」
「まこと、これほど遅いのはそうありませぬな」
弁慶の独り言に応えた声があった。
弁慶はぎょっとして辺りを見回した。
「下にござりまする」
弁慶は急いで視線を下げた。
いつの間にそこに在ったのか、一人の少女がそこにあった。
真白の肌と髪。ゆきのかであった。
「お初にお目にかかりまする。九郎殿の従者の弁慶殿でござりまするな。私はゆきのか。藤原様のご縁で巫女の真似事をしておりまする」
弁慶はゆきのかをじっと見た。
(やはり、この男……)
ゆきのかも見返しながら思うところがあった。
ゆきのかは弁慶が居るのは知っていたが直接会おうとはしなかった。様子を伺っていたのだ。
ゆきのかには一見愚鈍に見える弁慶の神経が、人並み外れて強いように思えていたのだ。だが、それを表に出さない男でもあった。
「巫女殿にございますか。拙僧のことは既にご存知の様子。さすがにございますな」
弁慶は人懐こい笑顔を見せた。だが、ゆきのかには自分がただの巫女ではないことを、弁慶が察知していると気づいた。同時に、だからと言って、弁慶が自分を拒絶することが無いということも知っていた。
(見かけによらず、柔らかい心を持っている)
それが、ゆきのかの弁慶に対する評価だった。剛にして柔、柔にして剛。稀有な存在であると見えた。
「それはさておき、今は」
「九郎様ですな」
察するのも早い。そして、優先順位もきちんと把握している。中々に頭が回る。弁慶に強い興味を持ちつつ、やはりゆきのかも九郎の安否を優先した。
「九郎殿、入りまする」
ゆきのかはそう言って御簾を上げた。九郎は床にあった。
半身は起こしている。しかし、その目は虚ろで、どこか目に見えないものを見ているようだった。
二人が近寄ろうとした、その時、九郎の身体の下に、真っ黒い円が浮き出た。
「九郎様!」
「九郎殿!」
二人の呼びかけは同時だった。
しかし、それも空しく、九郎の身体は穴に落ちるようにその黒い円の中に消えた。
「九郎殿!九郎殿!」
ゆきのかが錯乱して何度も九郎を呼ぶ。
(また、何かの御魂が?否、先触れは無かった。大天狗様からも、何も……これは、)
ゆきのかの震える肩に弁慶が触れた。ふっと意識が安定した。目線を合わせて頷く。もう伝わっている。分かっている。
「凶兆である!誰か!誰かあるか!」
弁慶は大音声で叫んだ。
その声を聞いて、慌てて秀衡が飛んできた。
「弁慶、ゆきのか殿!何事ぞ!」
ゆきのかは秀衡の腕に飛び込んで泣き出した。
目の前には空になった義経の床がある。
弁慶はまだ体温の残るそれを撫ぜ、静かに秀衡に視線を向けた。




