うた
九郎は空を飛んでいた。
先ほどとは違い、姫蝶は傍にいない。九郎一人だ。それでも跳べる。それは、姫蝶から借りた羽の力だった。
姫蝶は自分の羽を一枚、九郎に持たせた。それは物理的な羽では無く、姫蝶の力の象徴である。一枚の大きな羽は、別れて小さな幾枚もの羽となり、九郎の周りに点在し、その身体を運ぶ風になった。
その風に導かれて、九郎は焔岩の住むというあの山へ向かっていた。
ほどなくしてその山へ到着した。山は高く、九郎が降り立った頂には樹が生えていなかった。大きな岩のゴロゴロと点在する場所だった。それでもいくつかの草が生えている。中には小さな花をつけているものもあった。
生命の息吹が希薄なその地に在って、九郎は恐ろしいよりも、寂しいよりも、どこか神聖な気配をも感じていた。
神聖さと、命の息吹は相反するものなのだろうかと、九郎は思った。それもどこかおかしいような気もするが、仏門に身を置いていた時、命の営みに必要なものを、なぜか穢れと称する時があった。そんな時、九郎はよくその疑問にぶつかったものだ。
命とは何か、穢れとは何か、そして、神とは、仏とは、御魂とは。九郎の中に突然いくつもの疑問が浮かんだ。答えのない疑問だ。何故かそれだけは分かる。徳の高い僧にでも聞けば、何かしらの答えは得られるのかもしれない。しかし、九郎が欲しいのはそんな答えでは無い気がした。
(頭が……)
色んな疑問に対峙した所為か、九郎は頭に痛みを感じた。何故か息苦しい。何が起きたのかと思えば思うほど、思うように息ができなくなるようだった。
(このままではいけない)
直感でそう思った時、声が聞こえた。
「人の子が何用だ」
九郎が振り返るとそこには真っ黒な狼がいた。
九郎は痛む頭を押さえつつ、身構えた。
「ほぅ、逃げぬとはな。主は我と争うつもりか」
またも声が聞こえた九郎は注意深く辺りを伺った。しかし、他には誰もいない。
そんな九郎の様子を見て、狼は
「他には誰もおらん。我だ」
と、白い息に乗せて言った。口は動いていない。恐らくは、今までの御魂達と同じように、口では無い所で話をしているのだろうと思った。
九郎は体を戻すと、静かに一礼した。恐らくは、この狼が焔岩だろうと思った。姫蝶が雉の姿を取ったように、焔岩も、動物の姿を取るのかもしれないと。
「迷ったのなら帰り道を教えてやる、と、言いたいところだが、こんなところで迷う奴はおらぬ。何の企みを持って此の地に入り込んだか、返答次第では容赦はせん」
そう言って、狼は低く唸った。
何を以って、そこまで心を乱したのか、九郎には分からない。確かに、断りなく縄張りに入った事が不興を買ったとすれば、それまで。しかし、それだけの理由にしては怒りの念が強いように思えた。
今の段階では、焔岩の心は推し量れない。ただ、深い不信の念が伝わる。しかし、その根底にあるものは、違うような気がした。いたずらに全てを拒絶し、誰もかれも彼の地に入れまいとしているわけではない、そんな気がした。
(それでは、本心はどこに。焔岩殿の真意は)
自分はどうだったか。母の元から離され、兄弟と会う事も出来ず、不便な寺で何を思ったか。
恨みがあったか。
怒りがあったか。
無いとは言えまい。だが、その根底にあったのは、姫蝶と同じもの。
そしておそらく、焔岩もまた。
「……蝶」
九郎は囁くように言った。
その言葉に狼はぴくりと耳を動かした。そして、あからさまに動揺し、せわしなく四肢を動かした。
「に、導かれました」
九郎はごくりと唾をのみ込んだ。
何にせよ、今はまだ焔岩の真意は分からないのだ。とにかく相手の出方を見るしかない。そもそも、この狼が焔岩である確信も無いのだ。だからこそ、最初にそれを見極めようと、九郎は姫蝶の気配を見せた。そして、それに反応するところを見ると、この狼は少なくとも焔岩の現身であるは間違いないと思った。
「……雉を?」
狼が訊く。九郎は確信を持った。やはり、と心の中で呟いた。そうなれば、今一歩を踏み込まねばと思った。
「はい」
九郎は頷いた。踏み込むにしても注意深く行かねばならない。かみ殺されてしまえば、元も子もないのだから。
「我の既知と」
「は、」
「それ以上とは」
「……仰せのままの」
お互いの心を探り合うように、短い言葉が連なる。お互いにはっきりは物を言わない。警戒はある。それは致し方ない。それでも行かねばならない死地もある。
沈黙が二人を包んだ。九郎の心臓は相反して早鐘を打っている。
(どう、出る?)
焔岩は目線を下げ、そして、くるりと背を向けた。
その事で、九郎は少しほっとしていた。まずは、いきなり攻撃を仕掛けてくるという事は無くなったという事。そして、背中を向けてもいいと、思ってもらえるくらいには、警戒を解いてもらえたという事。
(後は、姫蝶殿のお心を伝えねば)
そう思って、九郎が口を開きかけた時、
古の 焔の咎を押し抱く 風の腕の 今も哀しき
焔岩の声が聞こえた。九郎は咄嗟に返した。
風運ぶ 詩にも見ゆる御心に 岩をも開かぬ 哀しかれども
その詩に、焔岩がゆっくりと振り返る。その姿が、静かに人の男に変わっていった。
姫蝶と、同じ年代の男の衣装。髪はみずらに結っている。姫蝶も、焔岩も、古い御魂であることが、それで分かる。
「我が名は焔岩。この山に眠る、火の御魂」
漸く、九郎は公然と焔岩に出会った。
少しずつではあるが、焔岩は九郎に対して信頼を寄せているのが分かる。それに安堵しつつ、九郎は本来の目的を噛みしめた。
「改めまして、源九郎義経と申しまする」
思えば、自分が初めて何の先触れも無しに御魂に会うのは初めてだった。そう思うと余計に自分のしていることの重大さが身に染みた。
「九郎殿。其方は我らのことをどこまで知っている。姫蝶からどのような話を聞いたのだ」
焔岩は静かに問いかけた。
九郎は自分が聞いた、そのままの話をした。すると、
「あれは、我を許してくれるだろうか。其方を寄越したということは、まだ我を必要としてくれておるのだろうか」
ぽつり、と、焔岩は零した。
九郎は驚いた。必要とされていないのではと思っているのは、姫蝶の方であると思っていた。まさか、同じ思いを持っているとは。これならば分かってくれる。二人はまた、共に過ごせる。そう、九郎が感じ、姫蝶がそう願っていることを焔岩に伝えようとした。だが、
「否、あれは我を許すまい。命を失いかけたのだ。其方に託されたのは、別れの言葉では?」
焔岩は、哀し気な顔を九郎に向けた。九郎は静かに首を横に振った。
「同じにござりまする」
「と、言うと?」
焔岩は即座に問うた。それは、心に隠しきれない、必死さを垣間見せていた。
「姫蝶殿も、焔岩殿に必要とされていないのではと、お心を痛めておりまする」
九郎が言うと、焔岩は、おお、と声をあげて片手で顔を覆った。
「しかし、我は……、我の罪は……」
焔岩は苦しそうに声を詰まらせた。
深い、罪の意識が、焔岩が姫蝶に会うこと、共に生きることを妨げている。
(どうすれば)
九郎は思案した。何か言わねばと思った。しかし、それこそ自分が、若輩者である自分が何かを言える立場ではないような気がした。
九郎は、せめて焔岩に寄り添えないかと一歩を踏み出した。
その時だった。




