主従
「逃げずについてきた事は誉めてやろう」
「話は聞こう。だが、他の人間に災禍が及ばぬように」
「よかろう」
男は意外にも素直に頷いた。
二人がいるのはかの名高き清水の舞台の上である。その高さに命がけの願をかける者が現れるほどの高さがあった。怖いもの見たさの見物人が、幾人か居る。その中でも二人は違う意味で目立っていた。
「我が名は武蔵坊弁慶。そなたの腰の物、頂戴する」
かの大男、弁慶は今度はきちんと名乗りを上げた。
「我が名は源九郎義経。過日も申した通り、この刀を渡すわけにはいかぬ」
「故あって、刀千本を目指して居る。それが最後の一振り」
「いかような訳があろうとも、容れられぬ」
「されば、尋常に勝負!」
弁慶は長刀を抜いた。
周りの見物人がどよめいて一気に後ろへ下がった。二人の周りにまたしても奇妙な空間が出来た。
「周りに災禍の及ばぬようにと申したであろう!」
九郎が叫ぶ。
「其方がその刀を置いていけば、何も起こらぬ!」
弁慶が返した。自分がそれを諦めるという頭は無いらしい。九郎は小さく息を吐いた。
刀を抜こうかとも思ったが、寺院の床を血で汚すのは躊躇われた。しかし、相手は武器を持っている。
(やれるか?)
九郎は刀の柄に手をかけたままで牽制した。じりじりと間が詰まっていく。と、弁慶がしびれを切らして長刀を大きく振り下ろした。九郎は避けようとしたが、それを避ければ舞台を傷つけることになる。
(仮にも僧と名の付く者が寺の建造物を傷つけようとは)
咄嗟に九郎は一歩を踏み込み、体勢を低くして柄の部分を鞘ごとの刀で受けた。
その音が、大きく境内に響き渡った。ぶつかったのは木であるはずが、金属音のような、高い音が。
「な、」
その音が響くや否や、弁慶は眩暈を起こして倒れてしまった。九郎はそれを逃さず、長刀を取り上げ、弁慶に跨り、奪った長刀をその顔に突きつける。
「私の勝ちだ。もう文句はあるまい?」
(両者、それまで)
聞き覚えのある声に見上げると、そこには白乙の姿があった。薄く向こうが透けて見える。実体ではあるまい。写身だろう。洞穴を抜けた後でも写身を使うのは距離の所為だろうか。
「白乙殿、何故ここに?」
(大天狗様の指示にございますれば。その男を殺してはなりませぬ)
「そのようなつもりは最初からござりませぬ」
九郎はそう言って弁慶の上から退けた。弁慶は白乙を見上げて口を開けていた。
(弁慶にも見えているのか?)
九郎は少し驚いた。他の者にも見えているのかと周りを見回したが周囲の者は皆、九郎か弁慶を見ていた。
(それならば良きこと。九郎殿、京でのお勤めはこれにて終わりとなりまする。奥州に戻られませ)
「それが大天狗様の言伝にございましょうか」
(九郎殿の様子を見ることも私の務めにございますれば)
そう言って白乙は目を細めた。
(奥州にて、お待ちしておりますよ)
白乙はそう言い残してすぅっと大気に消えた。何故か最後に、弁慶を見て。
白乙の姿が消えると、突然周りの喧騒が耳に入って来た。見回すと、周りの人々は何も無かったかのように談笑している。
(白乙殿が何かしたのか?)
九郎はそう思う事にした。
「……九郎殿」
弁慶がその場に座して九郎を呼んだ。どうやら弁慶には白乙が見えていたようだったが、どうだ?と、思った。そのことが、この大男にどのような変化をもたらしたのか、九郎は興味があった。
「九郎殿には……あの声は……」
「声?」
九郎は敢えてしらばっくれた。まだどうするのが一番いいのか決めかねていた。少し様子を見たかった。
「否、忘れてくれ」
弁慶はすぐにそう言って首を横に振った。そして、しばらく何かを考えた後、九郎に向き直った。じっと九郎の目を見つめ、そしてゆっくりとその厚ぼったい唇を開いた。
「九郎殿。拙者、九郎殿に仕えたく思う」
九郎は驚きに声も出なかった。
「何故」
ほとんど反射的にそれだけが口から零れ落ちた。
「九郎殿には龍の守りが付いておる。そして、恐らくそれ以外にも多くの者に守られて居よう。拙者、九郎殿がただ人でないと感じ申した。是非、お仕え致したく」
そう言って弁慶はその場に平伏してしまった。
九郎は慌てた。自分も庇護してもらっている身分で、仕えるものなど増やせようか。秀衡や大天狗が何というか。
そう思ってふと、九郎は白乙の言葉を思い出した。
(京での務めは終わりにござりまする)
言われた通り、五條天神宮に詣でただけでは終わらなかった。弁慶と出会い、決着が付いた所で終わりと言われた。そして、龍の守りが付いていると弁慶は言った。白乙の姿を見ていたと思って間違いなさそうだった。
(もしや……)
「弁慶」
「は」
弁慶は既に九郎に仕えた気になっているようだった。
「其方、五條天神宮と何か縁があるのか?」
「あれは私が生まれた場所にございますれば」
そう、応えた。それが、意味のあることなのか、あるいはまったくの偶然かは分からない。しかし、その時九郎は、自分がこの男を迎えに来たのではないかと思った。
「私は今、奥州は藤原秀衡様のお預かりの身。秀衡様が其方をも受け入れて下さるかどうかは分からぬ。それでも着いて参るか?」
九郎はそう言って手を差し出した。
「何処までも参りましょう」
弁慶はその、自分より小さな手を取った。
(小さな手。武人というには華奢な手じゃ。しかし、その奥に持つものは恐らく、儂よりもずっと大きい)
弁慶はその手を殊更強く握った。
それが、この何とも奇妙な主従の始まりだった。




