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白乙

数日後、同じ庭で、九郎と秀衡は、毛氈を敷き、名残の桜を眺めていた。奥州の春は短い。桜が終われば、すぐに夏の香りがしてくるだろう。目まぐるしく変わる季節を惜しみつつ、二人は盃を交わしていた。

「九郎殿、馬術の稽古は如何ですかな?」

秀衡がにこやかに問う。

 九郎は最近馬に乗るようになっていた。最初は興味本位で厩を訪れた九郎であったが、やはり武士の血なのか、乗る事を望み、屋敷の者から習い覚えるようになっていった。

「なかなかに難しいものと。しかし、不思議と止めようとは思えませぬ。次はもっと、もっと上手くと、思うばかりで」

「あまり気負わぬがよい。馬もそれを感じてしまう。まずは馬と心を通わせ、互いに信じあえる間柄を築くがよろしかろう」

「馬との間柄、ですか」

九郎が難しそうな顔をすると、秀衡は笑って九郎の杯に酒を注いだ。

「人と人との間柄も、信頼が肝要。馬にも人に接するように接すれば、必ず応える。野生の馬は群れを作って生きるもの。群れを作って生きるものは、群れの他のものをよく見ている。人間とてそうであろう。周りに対する気遣いが、人と人との信頼を生む。人も同じ、馬も同じ」

「信頼……」

「然り」

「承知いたしました。次に厩を訪れる時は、心に留めておきまする」

九郎は素直に頷いた。それを見て秀衡は満足気に杯を空けた。

「しかし、さすがは名馬と名高い奥州の馬。それを見れただけでも嬉しゅうございました。それを乗せて頂けるのはますます喜びの至り」

九郎は初めて奥州の馬を見た時の事を思い出していた。手の中でくるくると盃の酒を弄ぶ。その中に、美しい馬の姿を見るようであった。

 しなやかな筋肉。しっかりとした体。伸びやかな動き。そして、美しい瞳。

 寺育ちである九郎はそう多くの馬を見てきたわけでは無い。まして馬の価値など分からないが、素直に美しいと思った。馬に対してそう思ったのは初めてだった。それまではただの乗り物としか思っていなかった。しかし、実際に触れ、その背に乗って駆ければ、それがただの乗り物でないことが分かる。血の通う肉体がそこにあり、その肉体に魂が宿る。駆けた時の震え、筋肉の躍動、嘶き、息遣いまでもが、その命がそこで燃えていることを感じさせる。

 秀衡の言ったように、人に接するように接すれば、もっとその繋がりを深めることが出来るのかもしれない。かの、美しい生き物と。

「神の使いとされるのも、分かる気がします」

九郎の興奮した様子に秀衡はふっと笑った。

 そういう顔を見れば、まだ子供のようにも見える。実際、大人にはなり切れない年頃だ。自分はどうであったか、と、ふと思い出す。そう思えば、今までの道のりが決して独りで歩いてきたわけでは無いことを改めて感じる。

 自らも子供であった。幼子であった。それを慈しみ育ててくれた誰かがいる。寄り添い歩んだ誰かがいる。そして、自らの使命を引き継ぐものも。

 秀衡は一際ゆっくりと息をした。穏やかな、何とも得難い時間であると思えた。

 と、さあっと風が吹いて、桜の枝を揺らした。桜はその根元の池にひらひらと花弁を散らした。水面に幾枚もの薄紅色の花弁が浮かぶ。それがいくつもの波紋を作っている。それらは調和して、一つの大きな文様を作っているようだった。

「……なんとも美しい」

「まこと、」

二人は同じものに目を止め、ため息交じりに言った。

 花弁が落ちるたび、新たな波紋が次々と生まれた。それが、元の文様を新たに作り替えていく。全てを壊すわけでは無く、少しずつ変化させながら。

 それを見つめていると、急にそれらを圧倒する、大きな波紋が起きた。それは池の中央から広がっていく。既にそれは波紋では無く、波と言ってもいい大きさだった。

「何が、」

と、言うが間もなく、九郎は身構えた。

(ただならぬ気配)

即座に秀衡を庇うように身を乗り出す。当の秀衡はといえば、静かに状況を見守っていた。確かにただならぬ気配を感じる。しかし、危険なものには思えなかった。

「九郎殿。焦らずとも良い。恐らくは、」

秀衡がそう言うと、九郎も頷いて僅かに体勢を緩めた。

(もしや、)

秀衡の言葉に、九郎はゆきのかを思い出した。更にこの状況で主である秀衡が危険ではないと判断している。それを考えれば、思い当たることは一つ。

 九郎は立ち位置は変えず、足を揃えた。臨戦態勢を解いて、様子を伺う事に決めたのだ。

 すると、波は大きく盛り上がり、その中から一人の女が姿を現した。

「女子?」

氷の重のような、白い着物に白の着物を重ねた、真っ白な十二単である。そして、彼女の髪もまた、真っ白だった。着物の袖で顔を隠しているが、端から見える肌も、やはり白い。ゆきのかに会った時もその肌の白さに驚いたものだが、彼女の肌はもっと白いように見えた。

 九郎は。その変わった外見に気を取られて、そこが池の真ん中であることを、忘れていた。それを思い出し、慌てて池に入ろうとした。

「そのような所で何を。そのままでは溺れてしまいまする」

本人に泳ぎの心得があるとしても、十二単を着て泳ぐことはできない。入水自殺を図るわけでは無いのならその形で水に在ってはいけない。

「その心配はござりませぬ」

直後、後ろから声をかけて来たのはゆきのかだった。

「おお、やはりゆきのか殿の既知であったか」

秀衡がぽんと手を叩いた。

「既知と申しますか、先触れがございました故」

「先触れ?」

「ゆきのか殿、気づいて頂けて、嬉し」

真白の女が涼やかな声を出した。

「大天狗様より、先にお聞きしておりました故、気づき申した」

ゆきのかがそう言うと、袖で隠した顔から覗く目が、笑みを見せた。ゆきのかも微笑みで返している。そうしていると、まるで姉妹のようであった。そう思って眺めていると、真白の女が九郎の方へ向き直った。

「そなたが九郎殿ですね。お初にお目にかかりまする。私は白乙。大天狗様より九郎殿の事を聞き及び、参りました」

白乙は小さく頭を下げた。九郎も居住まいを正して一礼した。

「して、大天狗様は何をなされるおつもりじゃ」

秀衡が九郎の横に移動し、共に白乙の前に立った。九郎が秀衡を見ると、秀衡は微笑みで返した。

(私が守られるわけにはいかない)

九郎は心だけで構えた。恐らくは、秀衡は何かあれば自分を守ってくれるだろう。しかし、それに甘えてはいけない。大天狗が寄越したのであれば、何をか為さねばならないのは九郎であった。

 白乙は秀衡に深く頭を下げた。

「こちらが藤原の大殿にございますね。お初にお目にかかりまする」

「お初にお目にかかる、が、どうにも、初めてではない気がするのだが」

「これは、さすがと申しましょう。確かに我等、初めて触れ合うわけではござりませぬ。しかし、直に言葉を交わすのは初めて。どうぞこれからもお見知り置かれまして、よろしゅう」

「何、こちらこそ」

秀衡はそう言って同じように頭を下げた。

 女はじっと秀衡を見て、艶に微笑んだ。その微笑みに秀衡も笑みで返す。何か、形にならない言葉がそこでやり取りされているように見えた。

 そして女は一度目を閉じ、開くと同時にくるりと九郎へ向き直った。

「本題を申しましょう。本日私がこちらに参りましたのは、九郎殿をお借り受け致したく」

「そうであろうとは思うておりましたが、やはりですか。奥の大天狗殿の既知とあれば、我には身内同様、否、それ以上にござりますれば、異を唱える必要はありますまい。ただ、」

そう言って秀衡は九郎に視線を向けた。

 九郎は静かに頷いた。九郎もまた、大まかな話はゆきのかから聞いている。そして、大天狗からも以前に聞いていた話だ。それが動き出した。それまでの事だろうと思った。

 恐ろしくないと言えば嘘になる。だが、やはり心が浮き立つのもまた、偽りでは無い。

「秀衡様、奥の大天狗様の縁とあれば、私には恩人の筋。私とても否やは唱えませぬ。お言葉に従いましょう。何か、支度が必要でしょうか」

九郎の問いかけに、白乙は首を横に振った。

「御身、ひとつ、ございますれば」

「されば、参りましょう」

そう言うと、九郎は手を差し伸べた。その仕草には、やはり、京の都に一時でも、身を置いたものの優雅さが垣間見えた。

「これはこれは、九郎殿は光君の具現と見える。あるいは在原君の再来か」

ゆきのかがころころと笑った。秀衡も然り然りと上機嫌で頷いた。それは、九郎の緊張を解すためであったのかもしれない。そして、白乙の警戒を解くためにも有効であった。何をか言え、白乙にとっては、まだまだ九郎は外の者に違いないのだから。

「さ、されば、暫しお借り受け致します」

白乙は着物の袖で顔を隠してそう言った。不機嫌そうには聞こえるが、怒っているのではない。暫しの後、目だけ見せた、その下の頬は、僅かに赤く染まっていた。

 そこで笑っては本当に機嫌を損ねかねないと、九郎は笑うのを堪えた。

(人でないように見える者も、人と同じように心を動かし、頬を染める)

それが何とも親しみを感じさせた。奥の大天狗や鞍馬の天狗と同じ世界の者であるはずだが、やはり、どこか違って見えた。

 白乙は小さく咳ばらいをして気持ちを立て直し、九郎へ手を伸ばした。

「瞬きの間、息を止められよ」

そう言うと、彼女の真白の指が九郎の手に僅かに触れた。

 その瞬間、九郎は水の中に入っていた。


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