4 黒猫、隠密スキル『七化(1歳児)』発動
耳学問の豆知識:七化。
忍者が情報収集に役立てるための変装術で、諸国に遍在する虚無僧、出家、山伏、商人、放下師、猿楽、常の形(農民等)の姿をしていたらしいです。
※引用:Wikipedia
次に目が覚めたのは、周りが騒がしかったからでした。
すみません、私の所為ですね……。
「はぁぁ……あんな高い所から落ちたから、もう駄目かと思ったぞ」
「ふゆちゃん、どこか痛いところはない?」
「ふゆ、僕が分かる?」
「うあ~」
「これなら大丈夫ですな。どこも痛がってはおられないようですし」
私が気絶したものだから、慌てた家族はお医者様を呼んでいたようです。そのお医者様の白髪交じりの髪が緑青色なことに、まだ夢の中だと現実逃避をしたくなったのですが、腹を括るしかありません。
家族のこんな心配げな顔を見ていると、私は大丈夫だと元気な声で返事をして、手足をバタバタと動かしていました。
「見たところ外傷もないようですし、問題ないでしょう」
「そうか。それはなによりだ」
「本当によかったわ」
「では、私はこれで失礼しますな」
「ありがとうございました」
白衣を着たお医者様が帰って行きます。もう陽が暮れて、外は真っ暗。
時間外にお騒がせして申し訳ないです……。
お医者様を見送っていた家族が、再び私を覗き込んできました。その表情は誰もがほっとしています。
「ふゆは、お転婆かもしれません」
「あら、どうして?」
「だって、ひとりでいつの間にかベッドから降りていたし」
「ひとりでなのか?」
「はい、父上。自分で枕を落として降りたみたいで」
「おお、そうか。私たちに似て賢い子のようだな!」
「あらあら。お転婆は誰に似たのかしら」
「それに、どうやればベビーカーから落ちるのか不思議です」
なんだかマズい雰囲気です……。
「ふふふ。身を乗り出してしまうくらい、父様が帰ってきたことが嬉しかったのかしら」
「そうかそうか、ふゆ。父様が好きか!」
嬉しそうに笑み崩れた父の逞しい腕に抱きかかえられると、大きな手が私の頭を優しく撫でてくれます。
それはともかく。
――ここが異世界という事実は変えられません。
だったら、それなりに人生を謳歌するしかありません。この先どんな未来が待っているか不安の方が大きいですが、この歳から先のことを考えすぎると身体によくないので、まずは赤ちゃんになりきることを決意したのです!
※ ※ ※
記憶が蘇ったあの日から、想像の範囲で赤ちゃんっぽさを心掛けています。
その頑張りが功を奏し、赤ちゃん業も板についてきたようで、家族から訝しがられずに済んでいるようです。
別世界の前世の記憶を持つ大人な思考の赤ちゃんなんてバレたら、自分の人生が終わりそうですから。
で、目下の目標なのですが、とにかく早く歩けるようにとトレーニングをこっそり始めました。歩けるようになれば一気に行動範囲が広がりますから。
今のままでは部屋さえも自由に出入りさせてもらえません。ベッドばかりでは退屈なのです。
このトレーニングは、母の居ぬ間を狙っての秘密特訓なのです。寝室でも居間にいる時でも、お昼寝後が狙い目の隙間時間を見つけては頑張っています。
ちなみに、兄は秋頃から跡継ぎとしての勉強が始まったらしく、一緒にいる時間が少なくなったので特訓時間を見つけやすくなりました。
足、腰、腕、体幹を鍛えるため、メニューは腹筋運動や背筋運動、ベッドの柵に掴まりながらのスクワット、腕立て伏せはまだ厳しいので、肘とつま先で身体を支えながら姿勢を保つという運動に挑戦しています。
さあ、今日も人目を盗んでトレーニング開始です。
「ふんっ、ふんっ、ふん!」
+++
『母上』
『なあに?』
『最近、ふゆがいる部屋から妙な声が聞こえてくるから覗いてみたのです』
『あら、何かあったの?』
『はい。なにやらふんふん言いながら、上を向いたり下を向いたり寝そべったまま手と足でばんざいを繰り返していたのです。かと思えば、ベッドの柵にしがみつきながら、う~ん、立ち上がろうとしているようにも見えますが、頭だけがぴくぴく動いていて、一体何をしたいのかさっぱりなのです』
『まあ、そうなの。あの時みたいに落ちたら大変だけど、あの柵の高さなら大丈夫だわ』
『そうですね』
『でも、母様は見たことがないわねぇ。こっそり見てみようかしら』
『面白いですよ』
『あらあら。うふふ』
+++
※ ※ ※
十二月も中旬に差しかかった先日、家族が私の一歳の誕生日をお祝いしてくれました。前世の記憶が蘇って、早五か月が経ちました。
ちなみに、どうやら暦は地球のそれと変わらないようです。ただ、休日とかは全く違うようです。時折視界に入るカレンダーを見る限り、日曜日以外に赤い日付がないのです。
それともう一つ気になっているのは、テレビを見たことがありません。空調や電気スタンド、ドライヤーなどはあるのに、電話やパソコンなどの通信機器系も見当たらないのです。
それに、馬車を使うくらいだから、きっと自動車も無いのでしょう。
プラスチック製品があるので原油はあるのでしょうが、そんなところの文明は遅れているなんて首を傾げるしかありません。
まぁ、そんなちぐはぐさに慣れるしかないのですが。
今はまだ片言ですが、言葉が話せるようになったら迂闊なことを言わないように気を付けないとですね。言語が日本語なだけに、この世界に存在しないものをうっかり口走ったら後が大変です。
――そして本日、いよいよ準備が整いました。
誕生日を迎える少し前に、ようやく歩けるようになったのです。トレーニングが功を奏したのか、掴まり立ちから歩けるようになるまでそれほど時間は掛かりませんでした。
歩けるようになって最初にやってみたかった事。
それは、この広すぎる我が家を探検することです!
居間でも寝室でもひとりになる時は、決まっていつもベビーベッドの中に入れられるので、高すぎるそれから自由に乗り降りができません。
で、今日は千載一遇のチャンスが巡ってきました。
居間で離乳食のおやつを食べさせてくれていた母が、私をひとりソファに残して部屋から出て行ったのです。私は食べていたマシュマロの残りを頬張り、傍らに置いていたリュックを手にしました。
これは先日、誕生日のお祝いに両親がプレゼントしてくれたもので、黒猫の頭の形をモチーフにした可愛いリュックです。これが、今から探検に行くための重要なアイテムになるのです。
というのは、まだまだ身長が低い私ではドアノブに手が届きません。
なので、これを足場の代わりにしようと考えたわけです。手近なところに持ち歩けるものがなく、椅子などでは重たくて動かせないから丁度よかったのです。
ベビーベッドに置いてあった赤ちゃん用タオルケットを柵の間から抜き取って、リュックに詰め込めば仕込みはバッチリ。
貰った可愛い黒猫リュックを踏みつけるのは心苦しいですが、欠かせない必須アイテムなのでそこは目を瞑って。
よ~っし、レッツゴー!
居間の扉を開けるために、早速黒猫リュックの出番です。私の背中を覆い隠すほどの大きさがあるので安定性は十分。無様に転んでしまう心配は無し。
目論見通りドアノブに手が届きました。
黒猫リュックを背負い直して、さぁ、探検のはじまりです!
廊下に出てみたら誰もいませんでした。ではでは、さくさく参ります。
居間がある東側エリアは、家族の自室や空き部屋が並んでいました。
他には水回り、図書館かと叫びたくなるほどの本が収納された部屋があったりと、家族のプライベート空間でした。
兄は今勉強中のはずなので、その部屋は飛ばして。
ひとつ気になる部屋があったのですが、きっとそこが将来、私の部屋になるのかもしれません。まだきちんとした家具類が揃っていなかったのです。成長したら私の好みに揃えてくれるのかもしれません。
このエリアはこれくらいにして、反対の西側エリアに来てみました。
う~ん。
どこもかしこも似たような部屋でした。来客用の部屋なのか、その部屋ごとにバスルームやトイレが完備されてホテル並みなのです。なんて贅沢な……。
二階建ての二階部分は行き尽くしたので、今度は一階へ行ってみます。
階段は慎重に一段一段、後ろを向いてずり落ちながら降りていきます。
でなければ、まだまだ脚の長さが足りませんし、手すりの位置が高く、側面は壁になっているので掴む場所が無く危険なのです。
一階に無事到着しました。
玄関の向かいには両開きのおしゃれな扉があります。
その扉を開けてみたら応接室でした。
うわぁ、なんだか高そうな大きな絵画が飾られ、磨き上げられたグラスやティーカップなんかがディスプレーされた棚があるし、中央には黒塗りの脚に天板が磨りガラス製のテーブルが置かれ、もこもこのミンク毛のようなカバーが掛けられた、ふっかふかそうな黒革のソファが並べられています。
二階の部屋はどこも落ち着いた焦茶色のフローリングですが、応接室は通路と一緒で大理石でした。
この部屋の入り口近くにある別の扉を開けてみれば、父の書斎と思われる部屋へと繋がっていました。ここにも沢山の本があり、鏡面塗装された黒塗りの立派な机が鎮座しています。
応接室に戻って一面ガラス張りの北側へ行ってみれば、タイル張りの広いテラスから中庭へ出ることができます。
応接室の探検はこれで終わりにして、今度は東側エリアへ行ってみます。
そこには、私がまだ行ったことがない食堂がありました。
広っ!
これって何人用の食卓なのでしょうか?
もしかして、もしかしなくても、ここで晩餐会があったりするんじゃ……。
気を取り直して。
この食堂と繋がる扉の向こうには、うはぁ……これまた広い厨房がありました。
そうでしょうね。あの人数の食事を作るために必要ですよね。
へぇ、ガスコンロがあるのですね。あ、オーブンレンジもありました。
業務用のような冷蔵庫には、きちんと整理された食材が詰まっています。几帳面な専属料理人さんのようです。
一人前の食事ができるようになったら、どんな料理が食べられるか楽しみです。
今は誰もいない閑散とした厨房を出て、向かい側の部屋を覗いてみました。
ここは執事さんのお部屋みたいです。ここにも机があるのでそうなのでしょう。
その隣には広めの部屋があり、食卓セットが置かれ、壁際の棚には掃除道具が置かれているのでメイドさんたちの休憩スペースかもしれません。
そこからもっと奥のエリアへと来てみました。渡り廊下を通り過ぎると。
お?
ここはまた扉の数が多い建物です。中ほどに階段もあります。近くの扉を開けてみようとしましたが鍵が掛かっていました。
――もしかしたら、使用人さんたちの居住区かもしれません。
ここは止めておきます。他人の家も同然ですから。
では、反対の西側エリアへ行ってみたいと思います。
応接室前を横切って、またまた大きな両開きの扉を開けてみれば、別の応接室がありました。ただし、そこには大きなテーブルはなく、壁際に結構な数の椅子が並んでいて、小さなサイドテーブルがいくつか設置してありました。
壁には肖像画が飾られています。御先祖様たちでしょう。みんな黒髪の男性ばかりなのに、隣の女性たちの髪色は様々です。
肖像画が飾られた壁の向かい側には、これまた一際大きな扉がありました。
縦長の長方形をしたドアノブに触れてみれば、カチャっと音がしたかと思うと簡単に開いてくれました。重たそうな扉だったのですが、ちょっと驚きです。
で、室内を覗いてみれば――。
……しばらく呆然としてしまいました……。
これってもしかして……ダンスホールというものでしょうか?
これまた、広っ! 何平米あるのですか‼
見上げるほど高い天井には豪華なシャンデリアが設置され、壁だけでなく天井の柱にも彫刻が施され、花を飾るための大きな花瓶が数か所、ひとつひとつ違った彫刻が施された白い台座の上に置かれています。ここは、ヨーロッパの古城の大広間を現代建築風にアレンジした様にしか見えません……。
沢山のお客様を招待して、パーティーとかするのでしょうか?
あぁ、我が家の家柄が更に気になってきました……。
それはそうと、歩き回ってちょっと疲れました。足も痛くなってきたし、そろそろ戻ったほうがよさそうです。
よっこいしょ。この身体では階段を上るにも一苦労ですね。
ぜぃ、はぁ……。
よじ登るのに全身を使うので、まるで登山でもしたかのようです……。
二階の居間に戻ってみたら、母はまだいませんでした。
私は初めての探検で疲れ切ってしまい、ソファによじ登って腰掛けるなり、お昼寝を始めていました――。
こういった機会を見つけては敷地内の散歩を楽しむ平穏な日々を送って、一歳児業をそつなくこなしながらすくすくと成長していきました。