37 噂の二人
「蒼真、噂は知っているだろう?」
「こんな手段に出るとは思わなかったがな」
「――あの時の女は、あの家に間違いないだろうね。あの脅迫も」
「はっ。忌まわしい輩だ」
蒼真と絢音が六歳の折、一度だけ公爵家の交流会に招待したことで苦い思い出の原因となった令嬢が動き出していた。
冬瑠より一つ年上のその令嬢が、今回の頭痛の種となっていた。
当時はまだ、誰もが幼いが故の可愛い過ちとして流されたのだが、その状況は見苦しいの一言だった。
招待された令嬢たちが、蒼真を引っ張り合って取り合いを始めてしまったのだ。
特に酷い状態だったのがパウルス公爵家とマクニコル侯爵家。他に伯爵家も招待していたのだが、この二人が端を発したばかりに、どの家も同じ状況だった。
絢音や一緒に招待されていた夏翔や子息たちの家は目を点にしているしかなく、共に来ていた公爵夫人と侯爵夫人も火花が散っていたので始末に負えなかった。
それに加え、伯爵夫人たちはおろおろするばかりで口を挟めないでいた。
その状況を見兼ねたクロイツヴァルト公爵夫人が早々にお開きとしたのだ。
騒動となった交流会後も令嬢たちの迷惑行動が続いていた。パウルス公爵家とマクニコル侯爵家からしつこく茶会の招待状や手紙が届くようになったのだ。
だがそれも、クロイツヴァルト公爵家に玖郎王子が滞在することになったのがきっかけで、頭痛の種は収束していたのだった。
そして、ある日を境に頭痛の種が再発していた。
公爵家の別荘へ旅行に行ってから暫くした頃、侯爵家に悍ましい郵便物が届くようになっていた。
最初は警告文と一緒に刃物が忍ばされていた差出人不明の郵便物だった。
警告の内容は、クロイツヴァルト公爵家の次期女主人の座に冬瑠は相応しくないと、速やかに手を引けとの脅迫であった。
冬瑠宛に届くその嫌がらせの郵便物は、日を追うごとにエスカレートしていた。
刃物が同封されたものが続いていたのだが、ネズミやヘビ、カラスやらの動物の死骸に変わり、さらには生きた毒蜘蛛や毒蛙といった危険生物、魚の内臓とお頭の詰め合わせ、冬瑠の名が血文字で書かれた紙きれごと短剣で串刺しにし焼け焦げた鷲の死骸――。
首謀者の特定は困難であったが、可能性の一つとして学園の生徒と当たりをつけていた。
その理由の一つとして、脅迫が日に日にエスカレートしたのは冬瑠が学園で怯える素振りなど微塵も見せなかったためだと推測されたからだ。
怯えれば助長させてしまう場合もあるが、そのまた逆も然り。首謀者が冬瑠の態度を気に食わなかったのだろう。
そもそも、これらの嫌がらせは一切冬瑠の目に触れていない。家族が全て処分していたから当たり前だが。
秋口から始まっていたこの脅迫は春頃まで続いていたのだが、冬瑠が春休みを迎えると、ぱったりと止んでいた。
これらが届くようになってから、蒼真が侯爵家を訪れるのを一切止めていたことが功を奏したのは明らかだ。公爵家の家紋の馬車を見張られていたのだろう。交流が完全に途絶えれば、脅迫が成功したと踏んだに違いなかった――。
「噂か。そんなもの勝手に言わせておけばいいさ」
「それもそうだね。後先考えない策に出たものだよ。恥を晒すのはあちらだけだ」
蒼真はある一点を見つめて冷笑を浮かべていた――。
この春頃から社交界ではある噂が流れ始めていた。
蒼真が嘲笑うその噂とは。
「お、噂の蒼真殿のお出ましだ。水臭いな。同僚の俺たちにも内緒だったとはな」
「パウルス公爵令嬢と婚約するそうだな。おめでとう」
「貴殿が婚約するなら、ようやく俺たちにも春が来たようだ」
「そうそう。社交界の貴公子は誰の手にって話題になってたんだぞ」
「そのお陰で、誰も彼もが貴殿目当てでちっとも機会がなかったものな」
財務省の同僚たちが口々に語るが、蒼真は何を語るでもなく、ひとり無表情で席を外していった。
そんな様子に同僚たちは面食らっていたが、照れているのだと誤解釈していた。
※ ※
『早く婚約の申し入れをしてくださいまし。悠長にしている時間はありませんわ』
『そうですわ。この子の婚約がこんなに遅くては笑いものになりましてよ』
『……もう少し待ちなさい』
『もう十分待ちましたわ! 私も十八になりましたのよ! ぐずぐずしていてはデヴュタントに間に合いませんわ!』
『噂を利用して、なし崩しに婚約すればこっちのものですのに』
『何を余計な事をしてくれたのだ!』
『何を仰るの! それではまるで婚約させる気が無いように聞こえましてよ!』
顔を合わせれば婚約の申し入れをと妻と娘からせっつかれるパウルス公爵は、頭を悩ませながら王宮を歩いていた。
件のクロイツヴァルト公爵が前方から歩いて来る姿を視界に捉えた。
だが、貴宗は一瞥もせずに脇をすれ違って行く。
気弱な公爵はそんな貴宗に声を掛けることなく、胃のあたりを押さえて蒼い顔のまま執務室へと戻っていた。
一方学園では、四年生となった冬瑠のクラスメイトたちは気が気ではなかった。
「馬鹿げた話ですわ。どうしてこんな根も葉もない嘘が真しやかに流れているのかしら。信じられませんわ」
「ひょっとしたら、周りの連中が流したのかもな」
「きっとそうですわ。社交界中の噂になれば下手に動けませんもの」
「相手は公爵家だからな。迂闊に反論すれば不敬罪を持ち出してくるだろうな」
「在学中は大人しかったくせに、卒業したら即だよ」
「絶対、冬瑠様の耳に入れてはなりませんわ。唯でさえ微妙な関係なのですから」
婚約の噂が冬瑠の耳に入れば、きっと手放しでおめでとうと言うに違いないと清花は思う。そうなれば、長年大切にしてきた蒼真が気の毒でならない。
夏翔から聞いていたあの嫌がらせの数々も然りだが、見苦しい交流会の噂のことを知っていた清花は、マクニコル侯爵家の可能性がなくなった今、パウルス公爵家の仕業ではないかと以前から予測を立てていたのだ。それが的中したに違いないと確信していた。
相手は公爵令嬢。下手に手を出せない相手なだけにもどかしい。
清花を筆頭に、クラスメイトたちは不思議な連帯感で冬瑠を悪意ある噂から守ろうと奮起していた――。
※ ※ ※
社交シーズンが到来し、そこかしこで夜会が開かれ始めた頃、王宮舞踏会が近づいていた。春頃から噂されていた公爵家同士の婚約話だが、未だに発表される気配がない。
これはきっと、今年デヴュタントとなる公爵令嬢に配慮して、王宮舞踏会で華々しく発表するつもりなのだろうと噂されていた。
――王宮舞踏会当日。
会場入り口でクロイツヴァルト公爵家の名前が読み上げられると、会場に集まっている貴族たちの視線が集中していた。だが、その傍らに噂の令嬢の姿がない事にざわめきが起こっていた。
パウルス公爵家が入場すると、噂の二家に視線が集中しているが、全く接点を持とうとしないクロイツヴァルト家の態度に首を傾げる貴族たち。
蒼真にとって三度目となる舞踏会だが、ファーストダンスを姉弟で踊ってから、まだ一度たりとも別の令嬢と踊っていないのだ。
フリーの令嬢たちは自分が誘われないかと期待をして待ち望んでいたが、当の蒼真は夏翔たちと立ち話をするばかりで全くその気配がないまま終了していた。
今年もその態度を貫き通す蒼真に、周りの貴族たちは内心で首を傾げている。
パウルス公爵家の方も、自ら接触を図ろうとする気配がない。公爵令嬢はにこにこと意味深な笑顔を浮かべるばかりであった。
この二つの家の態度から噂は変化していった。
今年の十一月には、建国八百年記念式典が控えている。国と王家の威信をかけた式典なだけに、婚約の発表を控えているのだろうと憶測され始めたのだ。
※※
「お父様! 何故ですの! 恥をかきそうになりましたわ!」
「あなた! 娘を晒しものにする気ですの! しっかりしてくださいまし!」
「どうして何も言ってくれませんの!」
「我が公爵家は、建国より脈々と受け継がれてきた大公爵ですのよ。その誇り高き血を受け継ぐ奏香を公爵家以外に嫁がせる気などありませんわ。クロイツヴァルト家の夫人の座に相応しいのは奏香しかおりませんもの。それは誰もが納得している事。なのに何故あちらからも婚約の打診がありませんの!」
「そうですわ! 私が一番相応しいのに何故ですのっ! まさかお父様、何か隠し事をしていますの! はっきり仰ってくださいまし!」
舞踏会から帰宅するなり始まった妻と娘のヒステリーに何も言わず、公爵は眉根を押さえて俯いている。
「こうなったら、私があちらに打診いたしましてよ」
「本当ですの! 早く、早くお願いしますわ!」
「待て――それはならん」
「何故ですの!」
「待てと言っている。勝手に動くことは許さん――」
そう言い残した公爵は、食堂をひとり出て行った。
「心配ありませんわ。あの娘との交流が無いのは間違いないのよ」
「でもっ」
「この母に任せておきなさい。腰抜けの言うことなど聞く必要はありませんわ。母が早速お手紙を送りましてよ」
「はい! お母様!」
※ ※
クロイツヴァルト公爵家の居間にはシラけた空気が流れている。テーブルに置かれた一通の手紙に興醒めしていた。
「――不快で堪りませんわね。婚約の打診なんて虫唾が走りますわ」
「ふ。公爵殿は良識ある御仁だが、伴侶に恵まれなかったようだな」
「歴史ある家柄とはいえ、放っておけばいいのですよ。我が公爵家がそんな輩共に阿る理由もありませんし」
「我が家も見くびられたものね」
貴宗と蒼真は冷笑を浮かべている。その口元は親子でよく似た弧を描いていた。
「あっちは己の愚行に気づいただけでもまともだったわけですね」
「マクニコル侯爵家の事かしら?」
「ええ」
「社交シーズン前に伯爵家の嫡男と婚儀を挙げたようですわね。ご夫人方の集まりでも、よろしくない評判など聞きませんわ」
貴宗は手紙など視界に入らないと言わんばかりに視線を離し、カランと氷の音を響かせながらグラスを傾けた。
「因果応報とはよく言ったものだ。この輩共にはいずれ報いが来るだけだな」
「ええ、本当に」
蒼真の瞳の奥に、瞋恚の炎が燃え上がっていた――。




