2 転生しました
べちゃっ⁉
慌てて助け起こしに来た母たちを横目に、私の視線は眼前の景色に釘付けになっていました。
は?
え?
何でしょうか、“あれも”……。
――意識が遠のいていく前に、時は数時間前に遡ります。
べちんっ!
痛ぁっ!
――え?
ぷぅ~んと鬱陶しい羽音を立てながら飛んできた物体をぷくぷくの腕を持ち上げて、まだまだ紅葉に例えられる小さな手で追い払おうと振り回し、おでこを平手で叩いたようです。
――叩き逃した蚊の行方を追いながら。
自分の意思で手をぐっぱぐっぱやってみます。
動きますね。
更に意思で足を持ち上げてみます。
動きましたね……。
どうしてこんなに短くなった⁈
それに、ここはどこですか⁈
パニックになった私は、首を巡らせて辺りを見回しました。
う、動きづらいにも程があるこの身体は何ですか‼
「あぅあーー!」
口から出てきた言葉ともいえない音に、私は更に吃驚眼……。
ばたばたと身体を動かしていた弾みで、肌触りのよいシーツの上へころんとひっくり返ってしまいました。
視界が暗くなり、少し冷静さが戻ってきたようです。
恐らく、今の姿を誰かに目撃されたら、間違いなく蛙と称することでしょう。
が、しかし、今はそんなことよりも頭の整理が必要なようです。
ん? 口元が冷たい?
……ふ。
そろりと頭を上げて、見て見ぬフリをしながら、もう一度ころんと寝返りを打ちました。
見知らぬ天井。
見知らぬ部屋。
頭をフル回転させ、この状況を最も相応しく表現する言葉を思い出しました。
”転生”。
そうなのです。この言葉が一番しっくりくるのです!
絶対そうとしか思えません!
そして、どこかで聞きかじった、”前世の記憶が蘇る”体験をしているようです。
でも、どうやらここは前世と同じ日本ですね。
ファンタジー小説みたいな異世界か! と、ちょっとビビりましたが、部屋の雰囲気からしても、身に着けているベビー服からしても、異世界異国感はゼロ。
ただ、ちょっと裕福そうではあります。
この部屋だけでも結構な広さがあるのです。茶と黒を基調とした、洗練されたインテリアで統一されています。
今生の私の名前は――分からないですね。
今の私は生後何か月なのでしょうか?
はいはいができるなら、早くても七か月は経っているはずです。
前世、姉夫婦が授かった甥っ子の育児話から得た知識が生かされました。
可愛かったですね、甥っ子。もう……会えない甥っ子です。
いいえ、待ってください。今は西暦何年なのでしょうか?
ひょっとしたらひょっとすると、前世の家族がまだ生きている可能性も。
遠目からでも、また会えるのではと期待してもいいですよね。
今が何年なのかカレンダーで確かめてみようと思い立ち、うんしょと身体を起こしてみました。
はい。起き上がれました。
首を巡らせて探してみましたが、残念ながら見当たりません。
別の部屋へ行ったら確かめてみましょう。
そして気づいたのですが、私が座っているベッドはベビーベッドではなく、普通仕様でした。部屋を見渡してもベビーベッドはありません。
この部屋に赤ちゃんの私がひとり。
何故でしょうか?
まぁ、答えが出ない事を考えても仕方ありません。
ぼ~っと座っているのも退屈なので、この寝室を探索してみようと思います。
という事で、早速はいはいができるかトライしてみました。
お。できました。
では、ベッドの端まで行ってみます。床を覗いてみると、落ちたらきっと痛いくらいの高さがありました。確実に顔面強打コースですね。
これが普通の赤ちゃんならそのまま怖いもの知らずに飛び込むのでしょうが、大人な頭脳の今の私にかかれば問題なし。
一旦ベッドの上部に戻って枕を掴みました。前世ホテルで見かけたような、ふわふわ枕と弾力のある枕が二つ。
私の身体よりも大きいそれを、赤ちゃんの腕力を総動員して床に落としました。
よし。これで下準備はバッチリ。
躊躇うことなくそこへ短い脚を伸ばして、マットレスの端に掴まりながら枕の山にぼふんと着地しました。見事成功です。
枕の山から滑り落ちて、フローリングさんこんにちは。
エアコンで涼しくされている部屋の中は快適です。
ん~。ベッドの上にいた時よりも視線が低くて不便ですね。
ダブルサイズのベッドを回り込むと、クローゼットと一体型になっている縦長の鏡を見つけたので、今生の自分の姿を観察してみます。
前世と変わらず、黒髪黒目の女の子。前世は癖毛でしたが、今生は憧れのさらさらストレートになりそうな予感です。
自分観察はこれくらいにして、今度は扉の所へ行ってみます。部屋の隅から隅まで行ってしまうと体力的にアウトになりそうなので程々で。
次は、部屋を出てみたいという好奇心がむくむくと。
さて、第二関門の扉をどうやって開けるか、ですね。
床に座って、はるか上部にあるドアノブを見上げてみます。
はい。さすがに高い。どうしたものか。
立ち上がれないので、枕に乗っても届きそうにありません。
カチャ。
どうやってあの高さに挑もうかと熟考していると、唐突に別のものが視界に飛び込んできました。
目の前の扉を開けて私を凝視してくる人物。
ドアノブの位置くらいの身長で、黒髪黒目の可愛い男の子。
今生の兄ではないでしょうか。
その兄が扉の隙間から私を凝視しているのです。どうしたのでしょうか?
「ふゆ、どうやってここまで来たんだ?」
そっか。ベッドにいたはずの妹が突然ドアの前に居座っていたものだから驚いたようです。
が、しかし、そんな事よりも、兄の言葉は”日本語”でした!
やっぱり今生も日本で間違いありませんでした!
それと、私の名前は『ふゆ』というみたいですね。
おっと、感動している場合ではありません。赤ちゃんのフリをしないと。
「あぅぁ」
「……答えるわけないか」
気を取り直したように部屋へと足を踏み入れて来た兄はベッド付近の状況を見て合点がいったのか、なるほどと頷いた後、今度は私とベッドの脇に落ちている枕へと交互にちらちらと視線を送っています。
「もしかして、自分で落とした?」
――マズかった……はい、マズかったです……。
調子に乗り過ぎた感がっ。
下手に神童と言われるような事態になれば、今後の人生に危険臭がぷんぷんと!
ここはひとつ誤魔化すために、兄へ向かって腕を伸ばして甘えてみました。
考えるのを止めたのか、笑顔になった兄が私を抱っこしようとしています。
が、まだまだ幼子の腕力では無理だったようで、私を抱えたままごろんと背後にひっくり返ってしまいました。
ぷぷぷ。
兄の顔が赤くなっています。赤ちゃんが分かるはずないのに、照れ隠しで寝っ転がったまま私をあやし始めました。
いじらしい兄ですね。それに優しそうな兄です。
その兄に報いるように、きゃっきゃと喜んでみました。
「おでこを刺されてるよ。それに……手の形に真っ赤だ」
……はい。
その衝撃がきっかけで、前世の記憶が蘇ったようなんですけどね。
加減など知らない赤ちゃんの手の衝撃を受け、摩訶不思議現象をこの身で体験してしまったわけです。
指摘されたのがきっかけで、刺されたところが痒くなってきました。
か、痒い……。
ぽりぽりとかこうと思って手を伸ばしたら、兄が手を掴んで阻んできます。
「かくな。あとが残るよ」
うぅ……痒いですが、確かに我慢です。かきむしった痕なんか残したくないですからね。
すると、兄が爪の先で刺された部分をきゅっと押してくれました。
お。
徐々に痒みが引いていきました。ありがとう、お兄ちゃん。
「眠ってたと思ったのに、そのせいで起きたんだね」
そっか。だからひとりだったのですね。
遊び疲れたか何かで私が転寝している間に、兄は用事を済ませてきたと。もしかしたらここは兄の部屋なのかもしれません。
「もうすぐ母上がミルクを持って来てくれるよ。お腹が空いただろう?」
言われてみればお腹空いた感が。
それはともかく、兄が私の両手を持って、ばんざいを繰り返して遊んでくれるので身を任せています。
二人して床で戯れていたら、件の母が訪れて来ました。
「まあ。扉の前でどうしたの? 思わずぶつけそうになったわ」
「あ、母上。それが」
「あぅぁ~」
その話題から逸らしましょう。母が手に持つ哺乳瓶に狙いを定めて両腕を伸ばしました。
「あらあら、お腹が空いたのね。はいはい、お食事にしましょうね」
「あう~」
作戦成功です。母が抱きかかえてくれて、ベッドへと運んでくれます。
……上手くいったと思ったのですが。
「あら? この枕どうしたの?」
「ふゆが自分で落として、ベッドから降りたみたいです」
「まあ、ふゆちゃん、そうなの?」
ここで答えるなんて真似はタブー。
迂闊に返事なんてしようものなら私の未来が。
枕の事はともかくと、母はベッドに腰掛けて私に哺乳瓶を与えてくれます。
――その哺乳瓶で栄養を摂取しながら改めて母の顔を観察しているのですが、日本人にしては彫りの深いお顔をしています。ハーフ家系なのでしょうか?
私たち兄妹のような黒髪黒目ではなく、鳶色の髪に銀煤竹色の瞳をしています。
枕を片付けている兄に視線を移してみれば、兄も顔つきはハーフに見えます。
ということは国際結婚なのかもしれません。
赤ちゃんメモリーから記憶を引き出そうとしても、やっぱり父の顔もはっきりしません。父は後で確かめるとして、母は綺麗な容姿をしているし兄も可愛らしいので、私もきっと将来楽しみな容姿に成長するかもしれません。
将来に思いを馳せながら栄養摂取が終わると、眠気が襲ってきました。
子どもは寝ることが仕事のようなもの。母に身体をとんとんされながら、夢の中へと旅立って行きました――。