海にバラ撒かれた自由
校則よりも長めにしてあるスカートが、潮風に揺れる。
深く息を吸い込めば潮風の匂いが肺を埋めた。
波の音は心地よく耳に馴染み、鼓膜を優しく揺らしていく。
海は好き、海が好き。
地平線が見れて、空と海が真っ二つに別れているのを見ていると、何となくホッとする。
空と海で全く違う青を見ながら、足跡一つ存在しない砂浜に一歩、踏み出す。
ワイシャツのボタンは第一までしっかり閉めて、ブレザーのボタンも一つ残らず閉めて、ネクタイも首を絞める勢いで上まで上げて、スカート丈は膝をしっかりと隠す優等生スタイル。
髪も加工なんて言葉を知らずに、顔も同じく化粧なんて言葉を知らない。
そんな私が、学校に行かずに平日の午前中から海にいる。
決して交わることのない領域のような、空と海みたいなものが混ざりあってしまった感覚。
違和感を覚えるはずなのに、私は今開放感を感じて自由を体に染み込ませている。
「うーみーだー」
馬鹿みたいに間延びした声を上げれば、より一層開放感が体を包み込んだ。
ブレザーを脱ぎ捨てて、ネクタイに指を引っ掛けて緩める。
そのままワイシャツの第一ボタンも外してみた。
スカートは、まぁ、濡れてもいいからそのままに、靴もソックスも脱ぎ捨てた。
教科書なんて一冊も入っていない、薄っぺらい鞄と一緒になってぶん投げられている制服達。
人もいないし気にすることは何一つない。
これが初めての無断欠席。
俗に言うサボり。
砂浜に足を取られながらも、砂を少量蹴り上げて海へ突っ込む。
こんな姿クラスメイトにはきっと見せられない。
と言うかこんな私、想像も出来ないだろう。
小さな波が私の足を撫でていく。
心地いい波の音も、体に染み込むような潮の匂いも、足が取られそうになる海水も、ひどく気持ちがいい。
「そこの学生さーん」
大きく海水を蹴り上げた瞬間、声が掛けられた。
低いけれど波の音と一緒で、耳によく馴染むような声に、驚いて目を見開いたまま振り向く。
砂浜の上にカメラを構えて立つ男の人が、口元に笑みを乗せてシャッターを切った。
パシャッ、と思い切りのいい音に我に返った私は、驚き顔から渋顔に変える。
足だけつけていた海から出て、濡れた足も気にせずに砂浜を踏みしめた。
カメラを構えていた男の人は、笑顔を浮かべたままそれを下ろして私を見る。
「いい絵が撮れたよ、有難う」
「どう致しまして。……じゃなくて!」
にっこり、と笑うその人に対して、つい頷いてしまったがそう言う事じゃない。
ノリツッコミのように腕を振ってから、その人に顔を近付ける。
多分二十代半ば。
人の良さそうな顔をしているが、この人のことは知らないし、いきなり了承も得ずに写真を撮る人だ、警戒しても仕方がない。
「了承も得ずに初対面の人を撮るなんて、失礼だとは思わないんですか?」
ネクタイを上げながら問い掛ければ、目の前の人は緩く首を傾けてうーん、と唸る。
口元には相変わらず笑みが乗っていて、余裕を見せているみたいで腹立たしくなった。
胃の辺りがふつふつと沸き立つような感覚に、自然と眉間にシワが寄っていく。
「うん、そうだな。それは俺が悪かった、謝る」
「え、あぁ、はい」
唸るのを止めたと思ったら、意外にもあっさり謝ってくるから拍子抜けしてしまった。
気の抜けたような声で返答をして、かくかくと首を縦に動かす。
ペコッ、と頭を一度下げたその人は「でも」と言葉を続ける。
「体が動くんだよな。いいものを見つけて、絵になる、この瞬間だ、ってそう思ったらシャッターを切らずにはいられないって言うか」
ははっ、と白い歯を見せて笑うその人に、私は肩が揺れるのを感じた。
言い訳まがいなことを、と普段の私なら思ったかも知れないけれど、今はそんなこと欠片も思わない。
太陽に反射する水面みたいに、キラキラした笑顔を見せられて、言い訳だなんて思えなかった。
そもそも二十代半ばで、こんなに少年みたいな笑顔をするんだろうか。
うちのクラスでも見たことがない。
きゅうっ、と見えない手に心臓を掴まれたような気がして、私はワイシャツを握り締めた。
「だから有難う。ごめんね?」
首からぶら下げられているカメラが揺れる。
高そうなカメラ。
一台につき幾らするかとか、レンズの種類とかは全く分からないが、大切にされていそうだな、とは思った。
人のいい笑顔に頷いてしまった私は、小さく息を吐き出す。
息の詰まる学校から、初めてサボると決めて、制服のまま海に来てみただけだった。
普段なら絶対にないこと。
そんなイレギュラーに、イレギュラーな人間と出会った。
何だかなぁ、と潮風にベタつく髪に触れる。
目の前の人はカメラを構えて海を見ていた。
真剣に海を見て、その絵になる瞬間を、これだと思う瞬間を探している。
羨ましい、なんて思ってしまった。
それが何に対するものなのかは、正直な所自分でも分かっていない。
ザラザラする足の裏を意識しながら、その人と同じ方向を見てみた。
「さっき撮った写真、今度あげるよ」
「はぁ、それはどうも」
適当に頷けば、名前も知らないその人が笑う気配がした。
そっと視線を向ければ、口元を三日月にして、目線は海に向けたまま。
ストン、と何かが私の体から落ちる音がした。
それに続けて、別の何かが落ちて収まる音がした。
サボる人達を不良だと思っていたけれど、何となく、癖になるのが分かる気がした。