三
水曜日の講義は午前中だけなので、ほぼ毎週、学校帰りに古本屋と喫茶店に行くようになった。その時間は、他の客が来ることがまれだった。
コーヒーの味なんていうものは水上にはわからない。どう美味しいか説明しろと言われても、できないだろう。それよりも、店の雰囲気が気に入った。
その日は古本屋では何も買わなかった。当初目を付けていた本をあらかた買ってしまい、棚の本が頻繁に入れ替わるわけではないので、欲しい本がないこともある。
なんとなく、何も買わないと店を出づらい。
何度かこの店に来て、三匹の猫を見た。茶色と黒白と白の三匹だが、今日は猫が店の方には出てこなかった。
学校に持って行った本を読もうと思い、喫茶店に入った。
「こんにちは、いつもありがとうございます」
マスターは水上の姿を認めると、そう言った。何とこたえていいかわからず、「いえ」とだけ言って、本棚の本を見てごまかした。
マスターとは店員と客の間で交わされる、機械的な会話しかしていない。そもそも、本当にマスターなのかもわからない。
ああ言われたことに戸惑ったが、嬉しかった。
いつまでも観光ガイドブックを見ているわけにはいかないので、座ることにした。少し逡巡してから、覚悟を決めてカウンター席に座った。きっかけは向こうが作ってくれた。話しかけようと思った。
「えっと、俺のこと覚えてたんですか?」
ぎこちない話し方になってしまった。初めて話す相手なので仕方がないが。
「毎週同じ曜日に来てくれる人なんかは自然に顔を覚えるよ」
「そうなんですか」
「店長の芹沢です。初対面ってわけではないけど」
「水上といいます。大学一年です」
芹沢は市内に一つだけの大学の名前を挙げ、水上に聞いた。
「はい。そうです」
「うちの姪と同じ学年だ」
大学生の姪がいる年齢には見えないが、兄か姉と年が離れているのかもしれない。
聞かれたことに答えたり、この喫茶店について尋ねたりした。水上が出身地を言うと、芹沢も訪れたことがあるそうで、その話で盛り上がった。
水上はこの町に来てから、出身地を教えると「なぜ、ここに来たのか」と言うことを必ず聞かれた。そのたびに水上は曖昧に答えた。実際、はっきりした理由はなかった。他にも受かった大学はあったが、そちらを選ばなかった理由もはっきりしない。だから、うまく説明ができなかった。
芹沢はその質問をしなかった。
「今日は本読まないの?」
水上の出身地の話が一段落してからそう聞かれた。
「今日は買ってないので」
本を持ってきていることは言わなかった。このまま話していようと思ったからだ。
水上はいつものコーヒーとパウンドケーキを注文した。本を買わなかった分ういたお金をパウンドケーキに使った。