一
この辺りの田植えはあらかた終わったようだ。市内を当てもなく自転車で巡り、北側の海まで行った帰りに田園地帯を通ったとき水上はそう思った。
帰りは行きとは違う道を選んで通った。すると、町の中央付近を流れる川沿いに、古い家並みが保存されている地区があり、その一画に古本屋を発見した。
その建物は木造平屋建てで、入り口の左に「古本」と書かれた大きな木の看板が立てかけてあったので、一目で古本屋だとわかった。横開きの入り口には「猫が飛び出さないように注意して開閉してください」と書かれた張り紙がある。その文字の周りには、猫たちが楽しそうに遊んでいる絵が描かれていた。
水上が足下に注意しながらそっと戸を開けると、カランカランと軽い音がした。木製のドアチャイムが吊されていたようだ。音を立てないように慎重に戸を閉めると、店の奥から扉を開ける音が聞こえた。そちらを向くと、カウンターの後ろに還暦ほどの年齢の男性がいて、目が合うと、
「こんにちは」
と言われたので、小さくだが、
「こんにちは」
と、会釈をしながら返した。古本の独特な香りがした。
あまり広くはない店内は、通路以外は本で埋め尽くされていた。彼は一通り本棚を眺めてから、入り口から見て左側にある文芸書の棚をじっくりと見始めた。
カウンターの男性は椅子に座って本を読んでいた。見られていると何となく落ち着かないので、ありがたかった。
高さが二メートルほどある本棚に隙間なく文庫本が並んでいる。彼の後ろの本棚には単行本がぎっしり並んでいる。それだけでなく、本棚の上には入りきらなかったであろう本が、天井との間の狭い空間に詰め込まれていた。
文庫本の背表紙を目で追っていると、こもったような猫の鳴き声とカウンターの後ろの扉を開ける音が聞こえた。その後にチリンチリンという小さな鈴の音がした。
水上からは本棚があってカウンターは見えないが、店の奥の方に目を向けると、本棚の角から茶色い猫が顔を出してこちらを窺っていた。
目が合うと本棚の陰に隠れたが、数秒ほどでまた顔を出した。その猫は水上の足下を通って店の入り口の方に走っていった。警戒しているのなら別の通り道があるだろ、と思ったが何かこだわりがあるのだろうか。
立ち読みが中断され、腕時計を見ると思ったより時間が経っていた。こういう場所では一回見ただけだと見落とすことが多いので、もう一度文芸書の文庫本の棚を入念に見て、そこから一冊を手に取った。
本を持ってカウンターに行った。カウンターの周りにも本が高く積まれていた。
「ありがとうございます」
と代金を払った後に言われ、また会釈でこたえた。
店を出るとき、入り口の横にある棚の上の座布団でさっきの猫がくつろいでいた。高さは水上の肩より少し低いくらいの位置だ。そこにいられると入り口を開けづらい。
猫が外に出るのを警戒して、ゆっくり戸を開け、外に出ながら振り向き、そっと戸を閉めた。その間ずっと猫と目を合わせていた。
妙な緊張感から解放されたことと、本を買ったことによる満足感を携え自転車の鍵を開けると、数件隣の喫茶店が目に入った。
外観は黒塗りの壁の古民家だが、「Cafe」と書かれた木の看板とメニューが入り口の前にあった。入り口は開いていて、混んでいないようなので、コーヒーでも飲みながら買った本を読もうと思い、喫茶店に入った。