五話
夜半、館の皆が寝静まった頃を見計らい、ツァーリはベッドの上で身体を起こした。亜麻布で作られたカーテンの中でごそごそと、あらかじめ衣装部屋から持ってきておいたチュニックとズボンに着替え、それが終わると革紐を編んだスプリングを軋ませないよう静かにベッドから降りた。
闇に慣れた瞳でオイルが入っているランタンを持ち、火打ち石と火打ち金のセットをポーチに入れると廊下に出る。
廊下は真っ暗で足元は全く見えなかった。窓の鎧戸は全て降ろされていて月明かりすら入ってこず、床や天井の梁が時折軋みをあげる。すぐ目の前の闇からいつ何時何かが飛び出してきてもおかしくない怖さがあった。
世の中には不気味な生き物がたくさんいて、ツァーリはそれらのうちのいくつかを見たことがある。
町ですれ違った猟士が連れている獣や、本に絵つきで記録されている錬金術士達が造り出した生き物の中にそれはあった。頭が人間の蛇や、胴体が人間の頭でできている蜘蛛。脚が人間の腕で出来ている牛。四肢が触手の男や、背中がなく後ろ側にも別の人間が張り付いているものなど、絵で見ても恐ろしい生き物達だ。気持ち悪い生き物を大事にする者が少ないように、彼等も大抵は不幸な結末を辿ったが、中には何百年、何千年の時を生きながらえているものもいるかもしれない。
そのような不安が渦を巻いていたせいか、壁に手をつきおっかなびっくり廊下を進み館の外に出たツァーリは、厨房の戸口に着いたとわかった途端思わず安堵の息を漏らす。
「しーっ」
厨房の外に繋いであった家畜に静かにするようジェスチャアし、建物の裏にある大きな石の下から鍵を拾う。厨房に入った後、もういいだろうとしゃがみ込んでカチカチと石を打った。
飛んだ火花がオイルのたっぷり染み込んだ芯に火をつけ、辺りを煌々と浮かび上がらせるがそれも一瞬のことで、素早く掛けられた覆いによって再び闇が勢力を取り戻す。
ツァーリは明るい時に見るのとは全く様相を異にしている厨房をきょろきょろと眺め回した。中央に大きなかまどと端にそれよりも小さなかまどが複数並んでいる。天井からは鍋を吊るすための鈎がぶら下がっていて、明日の朝食に使うのであろう下拵え中の食材が桶の中に用意してあった。
明日の朝ご飯はなにかなーと、ここへきた目的も忘れて桶の中を覗き込む少女。
――その身体が、凍ったように固まった。
「きゅっ、きゅきゅ、きゅうりがこんなに――」
見れば桶の中には大量の胡瓜が液体に漬かっている。なるほど母親はさっそく娘に約束事を実践させようとしているわけであった。
ツァーリの目が、鬼女もかくやという勢いでみるみる吊り上がる。今漬かっている胡瓜に朝摘みしたものを足せばその量は如何程になろうか。明日は胡瓜のフルコースに違いない。
「………」
桶を親の敵でも見るように眺めていたツァーリは、ふと人差し指を入れて味見し、盛大に眉を顰める。とても塩辛く、舌がピリピリした。このような味付けは好みではない。
空の桶を用意し、袖を肘までまくると中の胡瓜を移す。胡瓜を出した後、代わりにたまねぎを入れておいた。
二、三十本ばかりの胡瓜の入った桶を持ち、当初の目的を果たそうとして考え直す。持っていくのはこの胡瓜でいいだろう。できれば肉がよかったが、バランスは大事だし、なにより胡瓜には栄養がある。肉と胡瓜で弱った体も一発で元に戻る筈だ。
目的のものを手に入れ厨房を後にしたツァーリは闇に紛れて中庭を横切った。丸太を積み重ねて築かれた防壁と稜堡付近は篝火が焚かれて明るいが、その内側は暗い。見張りの目を盗んで敷地の一角にある宿舎へと辿り着く。
裏手にある、目標とする鎧戸をコンコンと叩きしばらく待つと、中でがたがたと音がした。
鎧戸が跳ね上がり、人影が姿を現す。
「――お嬢! あんたまた……」
女性の声は、言わずともわかっているだろうと語尾が尻すぼみに消える。
ツァーリは相手の了承もまたずに桶と覆いの被さったランタンを渡し、枠に手をかけた。
「まったく」
部屋の中にいた女性は受け取った荷物を部屋に引き入れた後少女の脇に手を伸ばし、子犬でも持つように軽々と持ち上げて中に入れてやる。そして誰にも見られていないだろうか、と外を見渡した後鎧戸を閉める。
部屋に入ったツァーリはランタンの覆いを外した。
「こら! 夜更かしはするなって奥様に何度も言われてるだろ!」
秋の草原のような、黄金色の毛に覆われた顔をした部屋の主の姿が真っ先に目に入った。碧眼をらんらんと輝かせ、少し突き出た、頂点を下に向けた三角形の鼻の下にある口元には小さいが鋭い牙が剥き出しになっている。首には小さなプレートのついた円環が嵌っていた。
「ごめんなさい、ミミィ」
そう言った少女は机と衣装棚、椅子とベッドと櫛、武器防具一式、蝋燭と燭台、水甕とタオルしかない室内を観察し、いつもと同じ殺風景な部屋に安心する。遠慮なくベッドに腰を下ろすと、どうやら就寝中だったようで温かかった。
「用があってきたの」
「そりゃそうだろうさ。用もないのに夜中に出歩くのは病気だよ」
毛織のガウンから露出している部分全てに毛を生やしているミミィは椅子に座ると荒っぽく息を吐いた。そして大きく息を吸うが、途中、宝石のように艶々と輝く鼻を鳴らし始め、その横に生えたヒゲがピクピクとひくつく。視線は桶に向いていた。
「いい匂いがするね。さし入れかい?」
「全部はだめだよ」
桶から中身を取り出して矯めつ眇めつ眺める。
――水気がとんでしおしおになった胡瓜だった。
「できれば肉か魚がよかったんだけど……」
ポリ、と齧った後、頭の上にある三角の耳をぺたりと伏せる。
「――なっにこれ!? しょっぱっ!」
「だよね。わたしもそう思った」
「なら食べさせないでよ! これ絶対このまま食べるものじゃないでしょ!?」
「そうなの?」
「たぶんね!」
ミミィは水甕まで行くと、水を手で掬って飲む。そして口周りの毛に付着した玉のような水滴をざらついた舌で舐めとった。
「――それで、用って何かな?」
「あのね! お母様とカドケゥスが、新しくきた生き物に夜食を与えるようにって!」
「……ふーん」
「それで護衛にミミィを連れていくように言われたの!」
「ふーん」
「それじゃいこっか」
「やだよ」
にべもない返答に、ツァーリは目を見開いた。
「な、なんで?」
「お嬢、私に嘘ついちゃいけないなぁ」
「う、嘘じゃないよ! 本当に言われたもの!」
「ふーん」
「信じてくれてありがとう! じゃ、いこっか」
「いやいや、信じてないから。どこからどう見ても嘘でしょ、それ」
「ならどこが嘘なのか言ってみて! ちゃんと説明できるから!」
「ちょっと声が大きいんじゃないの? 外にいる見張りに聞こえちゃったかもね」
「え!? 嘘!?」
「うん、嘘」
少女が口に手をやったのを見て、ミミィは口を吊り上げた。
「あれー。おっかしいなぁ。そこのお嬢様はどうして見張りにバレるのを嫌がってるのかなぁ?」
「ししし、仕事のじゃまをしたら悪いからだよ!」
「私の睡眠にもそう思って欲しかったけどね……。もう諦めて本当のことを話しなよ。内容次第じゃ手伝ってあげないこともないよ」
「ほ、ほんとうに!? 実はね――」
「はい私の勝ちー!」
「え……?」
一瞬呆然としたツァーリは、次の瞬間には騙されたことに気づいて猛然と、
「ひ、ひどい! 嘘をつくなんて!」
「どの口が言うかね、こいつは……」
「もういい! わたし一人で会いにいくから!」
「いってらっしゃーい」
言い切って背を向けた少女を、ミミィは手を振って見送る。心配はしていなかった。カドケゥスは馬鹿ではないので、危険な生き物には見張りをつけている筈だ。ツァーリ一人でどうにかできるとは考えづらい。
新入りに興味はあったが、遅かれ早かれお目見えするのは確実なのだ。悪戯の片棒を担いでまで急ぐ必要はないと思えた。
「あーあ。さし入れのきゅうりがこんなに減っちゃった。きっと怒るだろうなぁ」
「………」
とぼとぼと歩きながらツァーリが零す。チラッチラッと後ろを窺い、何も反応がないと知ると、
「あーあ。明日の朝ご飯のきゅうりがこんなに減っちゃった。きっと怒られるだろうなぁ。――ミミィが」
ミミィはツァーリが枠に足をかける前に、
「……ちょっと待ちなよ。話だけは聞いてやってもいいよ」
「話を聞くだけじゃだめだよ。ちゃんと行動してくれないと」
「ちぇっ。しょうがない。約束するよ」
「……怪しいなぁ」
「怪しくなんかないさ。そのかわりこっちにも条件があるんだから」
「ふーん」
「なんかむかつくな……。ま、いい。こっちの条件は全部隠さず話すこと。無理だと思ったら計画を変更すること。動く際は私の指示にはしたがうこと、の三つだ。約束できる?」
「いいよ。でも話が終わったらちゃんと一緒にきてね。約束だよ」
「もちろん。ではこれでツァーリとミミィの間で契約がなされました。もし契約が破られた場合は、破ったほうがこの件に関する責任を負います。――それでいい?」
「うん」
「……ムフ」
ミミィの口元に意地の悪そうな笑みが浮かぶ。罠に獲物を追い立てている猟士が見せるそれだった。
椅子からベッドに移動し、隣をポンポンと叩いて座るよう促す。
「それで、どんな目的を、どんな風にやろうと思ってるんだい?」
少女が隣に腰掛けると、頭頂の旋毛を見下ろしながら訊ねる。
「ちょっと待ってね」
ツァーリはポーチの中をまさぐる。指先に目当ての感触を覚えるとそれを取り出し、小さな指で丁寧に折り目を伸ばした。
「目的は名前を決めることで、いろいろと考えてきました」
高々と掲げられた紙にざっと目を通すミミィ。
「なになに……ジェリバ……テラモン……ペリン……マット……タルウェ……ジーン……ケイン……リチャード……ウルフ……コナン――」
紙には名前らしき文字が書いてあった。規則性などなく、思いついた端から書いていったという感じだ。
「新しくきた奴の名前?」
「うんそう」
「そいつ名前ないの?」
「たぶんね」
「………」
ミミィは首を傾げた。名前がないのはわかる。それをツァーリが決めるのもわかる。だが書き出す意味がわからなかった。
名前がないということは産まれたばかりということだ。もしそうじゃなくて名前が既にあるのなら、知能が低ければ覚えられるかわからないし、知能が高ければ書き出す必要がない。その時は会話すればいいだけだからだ。
つまり新入りは産まれたばかりで、ということは言葉もわからないということである。
「お嬢、あんたもしかして名前を一つ一つ言って、どれがいいか決めさせようと思ってる?」
「そうだよ」
ツァーリは何故そんな当たり前のことを訊くのか、といった顔でミミィを見る。
「……まぁいいけどね」
もしかしたら上手くいく可能性がないわけではない。どういう奴がきたのか知らないし、やる前からケチをつけるのは大人のやることではないだろうと、ミミィは流す。
「それでそいつはどんな奴なんだい? 大きさは? 姿形は?」
「あのね。脚が八本あって、大きな鋏が二本あって、人間の腕が二本あって、尻尾が一本あって、人間の頭が一つあるの」
「ほー。たくさん生えてるんだ」
「そうなの! しかも大きいんだよ! わたしがジャンプしても届かないくらい!」
「へぇ。奥様やカドケゥスはだいぶ奮発したんだ」
と、ミミィ。脚が多いということは安定性があって、腕が多いということは攻防に有利で、大きいということは力が強いということだ。話を聞く限りでは戦闘面では期待できそうな感じである。なにより人間の頭がついているというのが大きい。
頭がいいということは複雑な戦い方を覚えることができるというだけじゃなく、それ以外にもメリットがあるのだ。ミミィがそうであるように――
普段彼女を縛るものは何もない。首輪はついているが、それ自体には何の拘束力もなく、今だって逃げ出そうと思えば逃げ出せる。
だが他の賢獣がそうであるように彼女もまたそういった後先考えないことはしない。逃げたところで待つのは死しかない。
考えることは誰だって同じで、そして逃げた獣の行き着く先は決まっている。
それは、普段人の手の入らぬ山や森の奥深い場所である。そこにいるのは人間に従うことを良しとしなかったものや、自由を求めたもの達だ。そこに行けば確かに自由は手に入るだろう。だが自由とはやることなすこと全部にに責任を追うということでもある。衣食住の全てを己の力でまかなわねばならないのだ。
そしてそこにいるのは頭のいい賢獣や霊獣ばかりではない。運良く逃げ出した魔獣や、力任せに遁走した幻獣、殺すのに猟士の集団や軍隊が必要になる暴獣がいる。知能の低い彼等にとって自分以外は餌か、餌にしようとする敵でしかない。
知能の高い隷獣なら一度は考える。人間の元から逃げて自由の身になることを――
しかし待っているのは今いる場所よりも遥かに過酷な環境だ。日がな一日食べ物を求めて彷徨い、自分よりも強い生き物を警戒する。たしかに誰かに戦うことを強制されることはないが、それだって基本、絶対に勝てないカードは組まれないものである。要は金になる、役に立つと思わせることで、それができる能力さえあれば、外の世界は人間世界よりもいいとは言えないのが実情であった。
それでももし逃げ出すとしたら、それは余程乱雑に扱われている場合だろうが、そういった隷獣は大抵安く、安いということは弱いということなのでやはり長生きはできない。
――つまるところ、本人の能力や飼い主の性根次第では、人間社会で管理されていたほうが安心して暮らせるのだ。
それにミミィは今いる場所が気に入っていた。パヴェッタもカドケゥスも、彼女がここにいるのは論理的に考えた末に出した結論だと知っており、基本的な決まり事さえ守れば後は自由にしていてもいいからだ。彼女自身はパヴェッタやツァーリが外に出るときの護衛であり、闘技場で賭け事の対象になることもない。
飼い主は、裏切る心配がなく、強い手駒が手に入る。
飼われる方は、美味しい食事や程々の自由、温かいベッド、なにより安全な寝床が手に入る。
つまり隷獣の知能の高さは両者にメリットをもたらす。それが世間一般の見方であり、ミミィもまたそう思っていた。だからこそ、新入りも知能が高ければ話し合って落とし所を見つけられる筈である――と考える。
「それでね、まずミミィが見張りの注意を引きつけるでしょ?」
ミミィが考え事をしている間もツァーリは話を進めている。
ミミィはそれにうんうんと相槌を打った。
「その後にね、ミミィがすばやく鍵を開けるでしょ?」
「うんうん」
「そして見張りがいない間に二人で箱の中に入るでしょ?」
「うんうん――て、ちょっと待てやこら」
ミミィは少女の小さな頭をがしっと鷲掴みにした。
「どう考えても無理があるでしょーが。なんで全部私がやんなきゃいけないのよ」
「どこかいけなかった?」
「そうだよ! だいたいどうやって見張りから鍵奪うの! 見張りが二人いたらどうすんの!」
「ミミィ頭いいね。じゃあ計画を変えよっか」
「お? ……ま、それが妥当だろうね。それで、どんな風に変えるんだい?」
「それはミミィが考えることだよ。ケチをつけたのはミミィなんだから。もちろんわたしはちゃんと約束を守って計画をかえるつもりだよ?」
「………」
こいつ――と、ミミィはじとりとした視線を送った。さては最初から全部やらせるつもりだったな。
「……ふーん。じゃあ今からどうやれば上手くいくか考えるけど、気が散るからから少し口を閉じててね。それくらいできるでしょ?」
「よゆうだよ」
「でも、ただ待ってるのもあれだからさぁ」
ミミィはどんとこい、と自分の膝を叩いた。
「少し休んでなよ。いざという時眠くなったら大変だから」
「気がきくね、ミミィ!」
欠片ほどの躊躇いも見せず、少女はとても温かいミミィの膝に飛び込んだ。股の間に顔を埋めてスリスリと動かす。少しザラついた布の向こう側にふわふわとした柔らかい感触があった。
「んー。温かいよぉ……」
「そうかそうか。それは良かったねぇ」
「………」
大人しくなったツァーリを膝の上に載せたまま、ミミィは黙って時が過ぎるのを待った。時折、
「……ミミィ。まだかかりそう?」
と、思い出したようにツァーリが訊いてくるが、そのつど、
「うんうん。まだかかりそうだよー」
似たような返事で引き伸ばす。
それを二度、三度と回数を重ねる度に少女の言葉からは力がなくなっていき、とうとう穏やかな寝息を立て始めた時、ミミィは己の勝利を確信したのだった。
いくら背伸びしようと所詮は子供である。シミ一つない、輝くような髪を撫でながら目を細めてそう思う。
「お嬢、お嬢。具体的な計画が決まったんだけど、起きて」
頭の上で小さく囁くが、少女は全く起きる気配を見せない。完全に夢の中だ。
「あー。寝ちゃったかー。仕方ないなぁ。今日の計画は中止かなー?」
「………」
「ムフフ」
確か約束には起こすことは含まれていなかった。つまりこれは自分のせいではない。ミミィはにんまりと笑みを浮かべた。そして完璧を期すために少し時間を置いた後、うつ伏せで寝てしまっている少女の頭を細心の注意を払って膝から下ろし、履物を脱がせる。
さて――と、立ち上がったミミィは内心で呟いた。ツァーリの悪戯を悪戯で収めるにはやっておかねばならないことがある。
彼女は部屋の隅にある、一本だけ減ってしまった胡瓜の入った桶を持つと鎧戸をあげ、
「ま、これくらいはサービスでやっておいてあげる」
そう言い、音もさせずに闇に身を躍らせたのだった。




