三話
「もう八時よ! 起きなさい!」
「――わかってるっ!」
耳朶を打ったその声に、彼は斜めになっていた上体をがばりと起こすと、いつもと同じく反射的に怒鳴った。ちゃんと目を覚ましている。ただぎりぎりまで布団に入っていただけなのだ。
そして怒鳴った後、夢だと気づいて虚しくなった。自分が今どこにいるのかを思い出して――
「………」
彼は確認するように真っ暗な箱の中を見渡して溜め息をつく。ここには母親はいないのだ。これからは毎朝一人で起きなければならない。二度寝したら会社に遅刻してしまうかもしれない。夜更かしも安心してできなくなるだろう。弁当も作ってもらえなくなるので昼食代もかさんでしまう。
しかし、そこまで考えた彼は重大な事実に思い当たる。
もう仕事にはいかなくていいのだ。朝起きる必要もない。つまり母親がいなくても問題ないということだ。
「それにしてもいい加減腹が減ったんですが」
気が楽になった彼は空腹を意識した。一体どれだけ時間が経過したのかわからないが、一度も外に出してもらえてない。腹が空いたし喉も乾いた。
殺すつもりならとっくにそうしているだろうから、これは誰かの嗜虐心を満たすためか、純粋に与える必要がないと考えられているのだろう。忘れられているとは思いたくなかった。
自分が移動していることには気づいていた。長く続く揺れがその証拠だ。そして揺れが少しの間止まる時は休憩で、長い間止まる時は夜の可能性が高い。
やることもないのでそれをカウントしていた彼は、三日過ぎても身体に異変が起こらなかったのを知って今の身体が長持ちすることを知った。下はともかく上は人間なのだからどうにかなってもよさそうなものだが、外見が繋がっているということは中身もそうであろうし、遺伝子レベルで人とは違っているのだろう。つまり彼は蠍の下半身を持つ人ではなく、そういった生物になったのだ。
問題は、どうして部屋で寝ていた筈の自分がこの場所にいるかであった。姿に対する疑問の答えもそこにあるだろう。
しかし彼はそれを考えるのを止めた。思考停止は愚かなことであるが、食材がなければ料理ができないように、何のとっかかりもない状態では何万時間考えようと答えなどでない。
今考えるべきは自分の置かれた状況とそれにどう対応するか、である。これもまた先の疑問と同じように何の情報もないようであるが違う。この姿になって取った行動は少ないが、寝ている最中にここに来ていたことと比べれば雲泥の差であった。
――まず、彼が目覚めた時、周りには大勢の兵隊がいた。あれは一見気の狂ったコスプレ集団のようにも見えるが、冷静になって考えるとその後の闘技場で使用した武器といい、その野蛮な風習自体といい、それがコスプレではなく大真面目に扱っている武器とわかる。もしかしたら極度に文明が発達しているのに権力者が楽しみでやっている可能性もあるが、彼を気絶させる時には実際に死者が出ているのだ。本当に文明が発達していたら別の方法があった筈である。彼の記憶にはそのような野蛮な国は存在しないので、彼自身の姿と相まってここは元いた世界ではない可能性が高いという結論に達する。
――となると、彼の身の安全も全く保障されていない。元いた世界なら彼のような生物がいたら研究対象として保護される筈であるが、こちらの世界の人間にはそれは望めない。彼を生死のかかった闘技場に放り込んだのがなによりの証拠だ。死んでも構わないと思っているのだ。そしてまた、あの観客達は彼のいる場所が人の支配している領域であると教えている。
「ふぅむ……」
彼は腕組みをして取るべき行動を考える。まずやるべきことは情報集めだが、それには言葉を覚える必要がある。しかし――
彼は眉を寄せて難しい顔になった。言葉を覚えるだけならいいが、別の問題が付随してくるのだ。それには彼の置かれた立場が関係している。
もし彼が言葉が理解できると周りに知れれば、彼の周りで重要な情報を漏らすことは期待できなくなってしまうだろう。今後、闘技場でまた戦いを強要されるかもしれず、それが勝てる相手ならいいが、絶対に勝てない相手とカードを組まれ、嬲られるのを観察されるのはお断りである。そういう時、言葉が理解できないと思わせておけば聞こえないフリができる。全く見当違いのことをやって時間を稼ぎ、逃げ出すのだ。
「うーん……」
だが彼の表情はまだ晴れなかった。顔から滲み出る知性を見て取った相手が、彼に言葉を覚えさせる可能性がある。そうなるといつまで経っても一つも単語を理解できないというのは如何にも怪しい。わざと覚えようとしていないと思われてしまうだろう。
そうならないためには言葉を教えても無駄だと思わせる必要があった。端的な話、犬が言葉で会話できるとは誰も考えないのと同じだ。そんな頭はないのだと思わせるのだ。
「………」
彼は心の中で溜め息をつく。具体策が決まったのだ。しかもそれはあまり嬉しいものではなかった。
「お帰りなさい! カドケゥス!」
カドケゥスが部下達と共に町外れにある館の門をくぐると、仕える主の愛娘であるツァーリが笑顔で出迎えてくれた。その花のような笑顔に彼の冷たい表情が微かに綻ぶ。
「ただいま戻りました」
ツァーリは駆け足でやってきた。母親譲りの、刺繍の入ったタンプレットからこぼれる白銀の髪が後ろに流れ、陽光を反射してきらきらと輝く。ローブの上に絹の上衣を羽織っており、如何にも走りにくそうだったが、彼女はなんとか転ばずにカドケゥスの元へと辿り着くと期待の篭った眼差しで彼を見上げた。
「後ろのがそうなのかしら?」
彼女はまだ九歳だ。その大人びた物言いにカドケゥスの口元は増々綻んだ。
「左様でございます。まだ躾けておりませんので、あまり近づかないようお願いします」
「高かったんでしょう?」
「多少は。しかしこれを逃せば次がいつになるかわかりませぬゆえ」
「それで!? どのような生き物なの!?」
「それはパヴェッタ様と一緒に見られたが宜しかろうと思います」
そして、目を輝かせるツァーリに、カドケゥスは少し困った様子を見せる。
「しかしあまりお嬢様の好むタイプではありませんから、気を落とさないようお願いします」
「――そ、そうなの?」
ツァーリは誕生日に欲しかった物とは違う物をプレゼントされたような顔になった。細い眉が不安そうに下がる。
「で、でも、毛は生えてるんでしょ?」
「……まぁ、頭には」
「……身体には生えていないの?」
「いえ、一部生えている箇所も御座いますが、普通の動物のようには生えておりません」
「じゃ、じゃあ抱きついたりとかは……?」
「……止めておいたほうがよろしいかと」
「……上に乗るのはできるのよね?」
「………」
「そ、そんな……」
カドケゥスが静かに目を逸らしたのを見て、ツァーリの瞳にこんもりと涙が盛り上がる。
「ひどいわ、カドケゥス。わたし楽しみにしてたのに」
「……申し訳ありません」
別にツァーリのために買いに行ったわけではなかったが、カドケゥスは大人しく頭を下げた。彼女が楽しみにしていたことを知っていたからだ。しかし頷くわけにはいかない。あの生き物は贔屓目に見ても少女の愛玩用には見えないし、あれをそうやって可愛がるのは特殊な嗜好に分類されるだろう。
「私はパヴェッタ様に報告してきます。お嬢様はどうなさいますか?」
「わたし? わたしは……そうねぇ」
少女は腕組みをし、考える素振りで、
「あの箱は中庭よね?」
「左様でございます」
「じゃあわたしも中庭で待っているわ。なるべく早くね!」
「はい」
カドケゥスは返事をすると、部下に箱を中庭に運ぶよう言いつけ、自身は主館へと足を向けた。綺麗に並んだ花壇を横目に、石段を昇って直接建物の二階へと上がる。一階の入り口は館の中と裏手にあり、食料や酒などの生活用品を収めるのに使用されている。
卓の天板が片付けられている大広間で、召使いの女性に言付けを頼み、待つ。待っている間に家令のファッツが声をかけてきた。先代から仕えている男で、髪にはだいぶ白いものが混じっている。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。私がいない間何か異変は?」
「いえ。問題ありませんでした。その様子ではそちらも同じだったようですね」
「ああ。何か仕掛けてくるかと思ったが……」
云っているのは隣の国カザクの国主のことであった。常日頃から国境で諍いの火をつけて回っており、今回カドケゥスが国元を離れる際に最も懸念だったことでもある。
「それより、いい商品は手に入りましたかな?」
ファッツが思い出したように訊ねた。
ツァーリに訊かれた時と違い、今度はカドケゥスの頬は緩む。
「選ぶ余地がなかったにしてはいい買い物ができたと思う。なにやら貴重な品を使って造られたそうだ。そう差配人が云っていた」
「それは良かった。いつ戦になるかわかりませんからな。――して、金額は如何程で?」
「金貨千五百枚だ」
「……はて。耳が遠くなりましたかな? 千五百枚と聞こえたのですが……」
「貴方はまだ耄碌はしていないようだ」
「な、な、ななな――」
ファッツはずんぐりとした身体を震わせた。
「ぜっ、全部使ってしまわれたのですか!? 持っていった金貨を全部!」
「これでも危ういところだったのだ」
カドケゥスはそう云ったが、ファッツは信じていないようだった。
「何かあってはと一応持たせましたが、全部使うことはないでしょう! 本当にそんなぎりぎりの競りになったのですか!?」
「……そうだ」
「どうして下を見るんです。私の目を見て返事をしてください」
「そうだ」
カドケゥスが顔を上げて強く云うと、ファッツは疲れたような息を吐いた。
「……まぁいいでしょう。よくはありませんが、パヴェッタ様も許可されていたことですしね。これ以上私から言うことはありません。しかし明日から食事の質と量が少し変わるかもしれません」
「おい!」
「節制して急な入用の際の費用を捻出しておかねばなりませんからね」
「兵達は身体が資本なんだが。無論私もだ」
「貴方の買ってきた生き物が補ってくれるでしょう」
「……仕方ない」
「――お嬢様とはお会いになりましたか?」
ファッツは小言は済んだとばかりに話題を変えた。
「お会いしたが、あまりいい報告はできなんだ」
「そうでしたか。お嬢様が可愛がられるタイプとなると、柔らかい毛がたくさん生えていて、ふわふわでもこもこしている動物になりますが――」
「………」
「……今のは言葉をお借りしたのですぞ」
「そうか……」
「して、買ったのはどのような生き物で?」
「それを今ここで訊くのか?」
「……それもそうですね。私もパヴェッタ様と一緒に見に行くとしましょう」
二人して大広間で待つ。
しばらくすると左手奥の扉から館の主が静かに出てきた。
「お待たせしました」
カドケゥスとファッツは深々と一礼した。
頭に被ったベールを肩まで垂らし、肌着の上にペニョワールを羽織ったパヴェッタは部屋の一番奥に置いてある二つの椅子のうちの一つに腰掛けた。胸元は大きく開いた肌着に縁取られており、腰元からは飾り紐が下がっている。
ツァーリと同じ銀髪で、優しげな目をしており、すっと通った鼻梁と整った口元は娘の将来を明るいものにしていた。
「カドケゥス。ただいま戻りました。お変わりないようで安心致しました」
「お帰りなさい、カドケゥス。あなたの方こそ無事でなによりだったわ。あなたの身にもしものことがあれば私達の未来は真っ暗になりますもの」
「ありがたきお言葉]
「首尾はどうでしたか?」
「一応上々であったと思っております」
「ツァーリは喜びましたか? あなたの帰ってくるのを毎日外で待っていたのですよ」
「お嬢様には申し訳ないことをしました」
「そうなのですか?」
「はい」
カドケゥスは買ってきた生き物を脳裏に思い浮かべる。節のある八本の脚に体、尾、そして二本の鋏。全体的に黒ずんでおり、その体の上に浅黒い人の上半身が載っている。男でも複数人乗れそうな大きさだが、ツァーリを乗せるのは止めておいたほうがいいだろう。
「強そうではあるのですが、若干見た目がよろしくありません。小屋は見えない場所に用意するのがいいと思います」
「まあ」
パヴェッタは童女のように瞳を輝かせた。そうするとますます娘に似ており、一層彼女を若く見せる。
「狂暴なのですか?」
「いえ。最初に捕まえた時は暴れたと聞きましたが、少なくとも旅の途中は静かなものでした」
「では、獰猛なのですか?」
「……は? い、いえ。たぶん違うかと――」
「冗談ですよ、カドケゥス。そんなに真面目に答えを探さなくてもよいのに」
パヴェッタはクスクスと笑い、カドケゥスは困った顔になる。この母娘には自分からその顔を引き出す才能があるに違いない。
「ツァーリは外で待っているの?」
「左様でございます。今頃は、捕らわれの獣が涎を垂らして餌を待つようにパヴェッタ様を待っておられることでしょう」
「その言葉、後であの娘に伝えようかしら」
「……申し訳ありません。今のは冗談でございます」
「私のも冗談よ」
「………」
まだ笑っているパヴェッタに、カドケゥスは諦めたように目を閉じた。
「――あら? 居眠りかしら?」
「い、いえ! 起きております! 少しこれからの予定を考えておりました!」
カドケゥスはファッツよりも一回り年下で、パヴェッタよりは年上だが、年齢など関係なくこの二人に口で勝てた試しがない。外を統括している彼はその役目に比例して思慮深い性格ではあるが、即応的なやり取りでは二人のようにはいかない。たまに機知に富んだ冗談を言えたと思っても、たちまち言い返されてやり込められてしまうのだ。
「今の言い訳は中々良かったわ」
「私もそう思いました」
パヴェッタとファッツは二人でにやりとしながら云った。固いカドケゥスをからかうのはいつもの光景である。
しかし娘を待たせているのに延々と話し続けるわけにはいかない。パヴェッタは立ち上がり、
「可愛そうだからこの辺にしときましょう。それで、私達の救世主は今どちらにいらっしゃるのかしら?」
と、冗談めかして訊ねる。
「とりあえず中庭に運ばせてあります。まだ小屋の用意もできていませんが、とりあえず様子を確認しておかなければいけないと思いまして」
「小屋? ……どうして小屋がいるの? 仲間外れは良くないわ。他の皆と同じ宿舎では駄目なの?」
「大きくて入らないのです」
「まあ。そんなに大きいのを買ってきたの? お金は足りたかしら?」
全く驚いてないような口調で云ったパヴェッタは首を傾げる。
「余裕でした」
カドケゥスはそう答えた。隣にいるファッツが目を丸くする。
「でもそんなに大きいのなら危険ではないの?」
「大丈夫だと思います。闘技場では槍で追い立てて檻に入れておりましたので、それなりに知能は高いかと」
「そうなの」
パヴェッタは槍で突かれたくらいで退散すると聞いて、もしやカドケゥスは騙されたのでは――と不安に駆られたが、ここでだらだらと聞いているよりも見に行ったほうが早いと思い、
「じゃあ行きましょう。いつまでも娘を待たせておくわけにはいきませんもの」
「畏まりました。私は一足先に行って準備をしてまいります」
カドケゥスは一礼すると早足でその場を後にした。外に出て中庭に向かい、兵を集める。闘技場で見た限り、鎧はさほど意味をなさない感じだったので衝撃をやわらげるための鎧下のみとして動きやすさを重視し、武器には槍を持たせ、暴れる気配があればすぐに突くよう言い含めた。
二十人程の部下と共に主の到着を待っていると、用意が済むまで大人しく見ていたツァーリがツツツ、と近づいてきた。
「暴れたらそれで殺しちゃうの?」
「いえ。さすがにそこまでは。槍で突いて箱の中に追いたてます」
「暴れるの?」
「わかりませぬ。ですのでその時のための用意です」
「わたしも見ていていいって?」
「パヴェッタ様はそのことについては何も仰いませんでしたよ」
「そう」
ツァーリは馬車の荷台に載せられたままの箱を見上げて、
「これはなにを食べるの?」
「……さあ」
カドケゥスが首を捻って返事をすると、少女はえ、という顔で彼に視線を移した。
「なにも食べさせてないの?」
「それで大丈夫だと太鼓判を押されております」
「水は?」
「やらなくても大丈夫だと――」
「それを信じたの?」
「……まずかったでしょうか?」
「………」
ツァーリはペットを虐待する大人を見るようにカドケゥスを見ている。餌をやらなければ動物は死ぬ。そんなこともわからないのかと、その瞳が非難している。
それに気づいたカドケゥスは今更ながらに不安になった。言われてみれば、食べ物はともかく水すら与えなかったのは失敗だったかもしれない。しかし売り主側の人間が平気だと力説したのだ。普通の生き物ではないし、あそこでそれを否定する材料はなかった。
「お待たせしました」
パヴェッタとファッツがやってきた。二人はくるなりツァーリと同じように箱を見上げる。
「……大きいですね」
「さすが金貨千五百枚だけのことはありますな」
ファッツが金額を言うと、その場の全ての者――カドケゥス以外――がぎょっとした顔になる。子供であるツァーリですら驚いていた。
「金貨千五百枚ですか。それは頼りになりそうです」
「そういう問題ではありません。この大きさなら相当食費が嵩みそうです」
「………」
「それなら心配ないよ」
ファッツの言葉を、何故かツァーリが受けた。カドケゥスは黙って口を閉じている。
「食べ物と水はいらないんだって」
「あら。それは経済的ね」
「まさかそのような」
パヴェッタとファッツは信じていない顔だ。それを見たカドケゥスはますます不安が募った。皆食べ物を与えるのが当たり前だと考えるようだ。そして今では彼自身もそう思っている。一生に一度あるかないかの大買い物だったので緊張していたのだろうか。
「旅の途中は何も与えなくていいと向こうに言われました」
とりあえずこれは言っておかねばなるまい。そう思ったカドケゥスは、
「旅の間くらいなら問題ないそうです」
と、念を押した。
「なんと! 旅の間中ずっと与えていないのですか!?」
「そうだ。ちゃんと生きているから心配はない」
ファッツに断言し、三人を安全圏に下がらせる。
「暴れた場合は私達が押さえている間に避難を。それも間に合わなかった時は覚悟を決めてください」
危険かもしれないから館の中に、とは思わない。もしカドケゥス達で抑えきれなければどうしようもないからだ。その場合、扱いきれなかった生き物を買った彼等が愚かだったということになり、愚か者は長生きできないのが世の常である。
パヴェッタは勿論、家令のファッツも、子供であるツァーリすらそれはわかっているようだった。今の時期にそのような不祥事を起こせば隣が黙ってはいない。他国であるにも関わらず、民草のためなどと宣言して兵を送り込んでくるだろう。そうなればこの家は終わりだ。
「扉を開け!」
そう命令すると、兵士達がおっかなびっくり錠を外した。扉がゆっくりと開かれる。
兵士達はさっと飛び退き、箱から距離をとった。
「………」
皆固唾を飲んで見守る。彼等は箱の中から金貨千五百枚もする生き物がのそりと姿を現すのを期待しており、各々の脳裏にはその高額な値段に相応しき格好の生き物が描かれていた。
「………」
「………」
いきなり飛び出てくる可能性もある。まだ姿を現さないが、兵士達に油断はなかった。固く槍の柄握り締め、何かあればすぐに飛び出せるよう腰を落として構えている。しかし――
「………」
「………」
「……出ませんね」
パヴェッタがぽつりと呟く。箱の中からはなんの物音もせず、鼠でもいたほうがまだ煩かったであろう。
「中を覗き込んでみろ」
痺れを切らしたカドケゥスが一番前にいる兵士にそう命令すると、言われた兵士は嫌な顔ひとつせず、箱に近づいた。
荷馬車の上に載ったままの箱は高い位置にあり、近づいた兵士は首を伸ばして奥を見る。
「――ああっ!?」
いきなり兵士が驚きの声をあげた。
「どうしたっ!?」
「……あ、あ」
カドケゥスが訊ねるが、兵士は答えられないようだった。
「一体どうしたというのだ!」
カドケゥスは声を荒らげて兵士の横に並んだ。同じようにそっと中を覗き込む。
「――っ!?」
そしてこれまた同じく固まった。こちらは声も出ない驚きようで、口をぱくぱくと開閉させて呆然と箱の中に視線を送っている。
二人の様子から危険はないと判断したのか、パヴェッタ、ツァーリ、ファッツを含めた数人が箱に近づく。そしてまた、先の二人と同じように中を覗き込んだ。
「あっ!」
「――なあっ!? ななな、なんという……!」
まるで石化したように次々と硬直する面々。
「お母様! わたしも見たい!」
と、背の届かないツァーリが言うものの、誰も相手をしようとしない。仕方なく、彼女は両手を荷台につくと肘を突っ張って身体を持ち上げた。脚を大きく開いて上に載せ、ごろりと乗っかる。
これはさすがに看過できない行為だったが、大人達は誰一人注意をしようとしない。意味がないとわかっているからであった。
ツァーリはどきどきしながら扉に近づく。大人全てが変になるくらいの生き物だ。見たこともないような姿をしているに違いない、と思いながら――
「――あ」
覗き込んだツァーリはぽかんとその小さな口を開けた。驚きで丸くなっていた瞳が徐々に細まり、次には垂れ下がる。
彼女の前にいるのは大きな虫のような生き物だった。ゴツゴツとした節くれだったが脚が複雑に折り畳まれ、床に投げ出されている。体に匹敵するくらい長そうな尾は力なく伸びており、強そうな鋏もぴったりと閉じたままだ。体の前の方からは裸の男が生えており、頭が床についている。肘の曲げられた腕がこの生き物に立ち上がろうとする意志のないことを教えていた。
「……死んでる」
そう言ったツァーリの声は震えている。大きな生き物の死骸はただそれだけで想像力を掻き立て、これほどの生き物が死ぬのだから余程のことがあったに違いないと思わせるのだ。
「餌をあげなかったから、死んでる」
子供の出した答えだが、それが間違いだと指摘するものはこの場にはいなかった。
完(嘘




