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二話

 彼が突進してくるのを見た男は正面を避けて剣を突き出した。その顔は死を恐れる者のそれであり、表情や行動から戦意は高いと思っていた彼は内心で首を傾げる。しかし男に対する強い殺意を消すことはしない。ここで情けをかけるほど馬鹿でないつもりだ。

 動くといってもそれは大まかな意味であり、人の手足のように自在に制御できないとわかっていた彼は男の目の前でいきなり停止した。

 これは非常にきつかった。なにしろ下半身は本能に忠実だ。彼にとって殺そうとする覚悟を決めるのは生半可な気持ちではできないことだが、それを一旦は霧散させなければいけなかったのだ。そして男の虚を突いて再び殺意を盛り上げる。

 男がへっぴり腰で剣を振り直すその前に、彼の身体は暴走バスのように突っ込んだ。

 二本の触肢が両側から男を挟み込み、持ち上げる。横からは他の男達が走ってきているので、彼はその状態でそそくさとその場を後にする。

 その、野生を彷彿とさせる光景に観客達は大いに湧き立つ。歓声と罵声が飛び交い、ゴミや食いかけの食べ物、コップや服などが投げ入れられる。そして鎧を着た男達がそれを注意した。

 彼は走り始めてすぐ男を捨てた。投げ出された身体はごろごろと転がり起き上がる気配がない。胸と腰は平たく潰れており、口や肛門から中身が飛び出ている。挟まれた時点で絶命していたのだ。

 ――残りは三人だ。彼は大きく円を描くように走った。ゴキブリになった気分だ。

 一対一では危険だと悟ったのだろう。男達は固まって彼に追随してくる。

 彼は男達に対する殺意を消す。死に対する恐怖も打ち消し、精神を凪にして純粋に移動することを願う。そうしなければ下半身はまともに突っ込もうとするのである。彼の身体は闘技場の縁にそって移動した。

 彼が近くにくると観客の男達は野次を飛ばし、女達は黄色い声を浴びせる。

 彼は気分が昂揚するのを感じる。これほど注目されるのは初めての経験だ。彼に投げかけられる視線は嫌悪に満ちていなかったし、殺したことを非難してもいない。彼はここを特異な場として認識しつつあった。ここでは下半身が蠍でも普通のことなのだ!

 男が何やら叫びながら疾走する彼に槍を突き出す。それはめまぐるしく位置を変える脚を掠り、巻き込まれて折れた。

 彼は立ち止まるとくるりと向きを変える。


「――ひっ」


 己の運命を悟った男は喉の奥で悲鳴をあげた。

 先程の彼の叫びは、表情や抑揚を合わせてみればどう考えても罵倒の類であり、理性と本能の思うところが一致した彼の動きはこれまで以上に速かった。男は何ら反応できずに彼に捕獲される。――いや、勢い余った触肢はお互いを通り過ぎ、なんと挟まれた男は真っ二つに千切れてしまった。

 ボタボタと血と臓物がこぼれ、彼が吐き気を堪えると下半身は興味を失くしたようにそれを手放す。

 まだ短い付き合いだが、彼は下半身に愛着を感じ始めていた。なにしろ生死を共にしているのだ。

 彼は闘技場を縦横無尽に駆けずり回る。男達は残り二人で、両方共に武器は槍だ。彼の心の中では、二人は町で偶然すれ違うだけの通行人であった。しかし――


「死ねえぇぇぇ!」


 すれ違ったその瞬間、二人の男達は餌へと変わる。彼は最も距離が短くなったその時、雄叫びとともに向きを変えて襲いかかった。

 その迫力に男達は息を呑み、及び腰になったが、それでも忘れずに槍を前に出した。

 彼は自身が槍の間合いに入る前に思う。これは餌だ。食べ物なんだ――と。


「ああっ」


 言葉はわからねど、驚きの声はわかる。

 彼が標的に定めた男は目を見張った。突き出した槍が鋏に捉えられたのである。

 獲物を捕まえた彼はすぐさま後退し、もう一人の男の槍は空を切る。そして槍を手放さずに引き摺られた男に、まるで自然な形で尾が天から降ってきた。


「――ぁが」


 太い尾の先端は男の口にめり込んだ。その先端は顎を破壊して首の骨を折る。

 その時彼の頭にあったのは、せっかく仕留めた獲物を横取りされようとしている蠍の図であった。それが功を奏し、彼の下半身は男を保持したまま最後の男から素早く距離を取る。

 彼はさっさと最後の一人を始末しようと思った。だいぶ下半身の扱い方がわかってきたが、それでも非常に疲れることには違いない。動かそうとするだけでなく、いちいちその理由も思い浮かべねばならないのだ――それも強く。頻繁な躁状態にさらされた彼の精神は休息を欲している。

 観客達の持ち上がりは最高潮に達した。何やらコールが巻き起こり、最後の男は青褪めている。

 男は既に戦意を喪失しているように見えるが、そんなものでは彼は誤魔化されない。彼の敵は目の前の男ではなく観客達なのだ。もしここで躊躇えば死刑執行のサインは彼に降されるだろう。彼は場の空気を読むことにかけては一流なのだ。

 彼は壁際に追い詰めた男に少しづつ近づいた。男は槍にしがみついているといった感じだ。間合いに入っても攻撃を躊躇っている。

 しかしどう見ても彼の触肢が届く距離になってしまった時、とうとう痺れを切らして突いてしまった。


「ハッ」


 ――電光石火、彼はピョンと飛び退く。

 勿論彼は武術の達人などではない。だが彼の下半身は決して脚をもつれさせたりはしなかった。頭さえしっかり働かせれば忠実な機械のように動いた。


「うわあぁっ」


 腕が伸びきった隙を逃さず逆襲に転じた彼に捕まり、男は悲鳴をあげた。そして彼に向かって何事か叫ぶ。


「………」


 彼はきっちり止めを刺した。殺してしまったのは、最初目覚めた時と合わせて六人目になるが、意外なほど何も感じない。おそらくは動かしているという感じよりも、命令しているという感じのほうが強いからだろうと思う。実感というのが湧かないのだった。

 五人目が死んですぐ、大きな銅鑼の音が木霊した。観客席では男も女も立ち上がって拳を突き上げている。

 脱力した彼はどっと疲れが押し寄せてきて眠たくなった。張り詰めていた糸が切れてしまったようだ。


「……さて、これからどうなるのでしょうか」


 彼がどうすればいいのか頭を悩ませていると闘技場への出入口が開き大勢の兵士達がやってきた。皆、鎧を身につけ、長い槍や弩を手にしている。

 兵士達は彼を囲むように位置取りし、一方の側の兵士達が槍で彼を突き始める。それは殺そうとする意図がないとはっきりわかる所作で、彼はお得意の空気を読むスキルを発揮して兵士達の誘導に従った。

 ――彼はすぐに悟った。兵士達は自分をまた箱に閉じ込めようとしている。

 彼は不愉快な気分になったが、それをぐっと押し殺した。決して気の長い性格ではないが、それと我慢できないこととは別の問題だ。彼はその気になれば、預金残高しか取り柄がない皺だらけの婆に、「貴方はとてもふつくしい。ですがこれを買えばもっとふつくしくなれますよ」と囁くことができる男である。しかも微笑みながらだ!

 それに比べれば兵士達に対する怒りを抑えるなど造作もないことであった。

 彼は台車の上に載せられている金属の頑丈そうな箱を眉を寄せて睨みつけながら中に入る。中に入ると扉がガシャンと閉じられ、重たそうな鍵が掛けられてしまう。

 彼はまた閉じ込められたのだ。













「金貨五十枚! 五十枚です! 他にいらっしゃいませんか!?」


 日が暮れた後、ホートン城の中庭で、太った差配人が周りを埋め尽くす貴族軍属に叫ぶ。チュニックに革のベストを羽織り、上衣を重ねている彼は手を振り足を踏み鳴らして檻に入れられた狼の頭を持つ男を指し示した。


「ではこの狼男は、金貨五十枚で二十五番の方のものとなります!」


 鐘が鳴ると客席から拍手が巻き起こり、狼男の入った檻はそれの載った台車ごと、ゴトゴトと奥へ押されていく。この後、所持者のマークが入った首輪をつけられるか、それが無理な生体は烙印を押されるのだ。狼男は己の運命を悟っているのか諦めた風であり、力なく項垂れている。


「さあ! お次は頭が魚、身体は人の人魚です! しかも雌ですよ! 夜のお供にどうですか!? まずは金貨五枚からです!」


 差配人が言い終わると格子の檻が運ばれてくる。中には大きな木桶が置かれ、水が並々と注がれており、水面からは巨大な魚顔が突き出ていた。大きな目が不気味だ。


「六枚だ!」

「八枚!」

「こっちは十枚だ!」


 ベンチに座っていた者達の中から立て続けに手があがる。勿論全て男であった。

 人魚は不安そうに口をパクパクさせてそれを見ている。


「ええい! まどろっこしいわ! 二十枚だ二十枚!」


 おおお――と、どよめきがあがる。


「二十枚です! 金貨二十枚が出ました! 他にいませんか!?」


 誰も手をあげず、しばらく待ってから差配人は鐘を鳴らした。再びの拍手。


「人魚は五番の方がお買い上げ! ――では次に参ります!」


 次に運ばれてきたのは大きな金属でできた箱だった。平面で中は見えない。

 しかし観客達には中に何が入っているかわかっていた。今回の目玉商品である。


「これが、今回のオークション最後の一品になります! 錬金術士ダムネはこれを生成するのに『赤い石』を使いました! よって金貨五百枚からです!」

「五百五十枚だ!」

「五百七十枚!」


 一時の間もおかずに声があがった。箱の中身は犯罪奴隷五人をあっという間に血祭りにあげた生き物だ。しかも武装なしで、である。


「六百枚だ!」

「六百三十!」

「さあさあ他にはいませんか!? 珍しい人の頭を持つ生き物ですよ!? 学習させれば話せるかもしれません! あなたに忠誠を誓ってくれるかもしれませんよ!?」

「六百五十だ!」

「七百枚!」

「実を言うと生成直後に兵士を殺しているのです! これを戦争に出せばあなたの軍は勝つこと間違いなし!」

「八百枚だ!」

「八百枚! 八百枚が出ました! 彼はきっと今日買ったこれで金貨二千枚は稼ぐに違いありません!」


 八百枚と言った男は憎々しげに差配人を睨みつけた。これ以上要らぬことは言うなと表情に出ている。


「さあさあ他にいませんか!? これほどの大物は滅多に出ませんよ!? この機会を逃せば次はもうないかもしれません!」

「千枚だ!」


 と、一人の客が手をあげて言った。口髭を生やし、鋭い目つきをした壮年の男である。金額から見ても仕える主は相当な金持ちであろうが、それを感じさせない出で立ちで、ただ眼光だけがそれを裏切ってただものではないと告げていた。


「――せ、千枚! 千枚が出ました! 久しぶりの大台です! 皆様覚えておいででしょうか!? 前回の大台は亡国の姫だったことを! つまりは今回の品は男の夢と同義! それが金貨千枚と少しであなたのものに!」

「千十枚だ!」

「千十まぁぁぁいっ! 千十枚です! 他にいませんか!?」

「千五百枚!」


 最初に千枚で入札した客がそう言うと、辺りがしん――と静まり返った。篝火の弾ける音だけが虚ろに響く。千五百といえば数家族が働かずに一生食べていける額であった。


「――千五百! 他にいませんね!? いないでしょう! 百三十八番様お買い上げ!」

 

 差配人は気が変わらぬうちにと鐘を鳴らした。


「これにてダムネのオークションは終了と致します! 次回がいつになるかはわかりませんが、またのお越しをお待ちしております!」


 数百人の客達がこそこそと耳打ちしながら席を立つ。競り落としたものは手続きに、それ以外の者達は仕える主の元へ帰るのだ。

 誰が何を買ったかは重要な情報であった。それがどれだけの力があるのかも重要な情報であった。闘技場ではそれが利益を生み、戦場では命を拾う。客達は金払いや話の節々から相手が仕える主を推測した。


「購入された方は引き渡しの手続きのため、案内人の指示に従って頂けますようお願い致します!」  


 最後の出品であった大きな箱が運ばれていくのと一緒に、客達が移動する。彼等は木造の巨大な倉庫で今日から主のものとなった商品を受け取るのだ。  

 千五百枚で入札した男もまた、主のものとなった箱を眺めながら倉庫の扉をくぐる。

 そこへ差配人が直々にやってきて、


「お買い上げありがとうございます! それで、道中はどうなさいますか? 箱から出して移動するようなら管理はそちらの仕事になりますが、このままでよろしいならば到着時までの問題は私共で処理いたします」


 百三十八番の男は目を細めて差配人を見た。なんといってもものがものである。どうすれば中身を歩かせて自領まで連れていけるというのか。それにこのままなら責任は取ると言っても、箱の中だ。問題の起きようがない。

 男は兵士を大勢連れてきているわけではなかったので、これは考える余地がないといえた。


「このまま運ぼう。道中は何も食べさせなくても大丈夫かね?」

「勿論でございます! 虫系統の生物は飢えに強いと相場が決まっておりますからね! この維持コストの低さもこちらの売りとなっておりますです、はい」

「なるほど。ならば水も――」

「勿論でございます! 十日やそこら程度の渇きにはビクとも致しません! 食べないから出さない! 飲まないから出さない! なので檻から出さないで済む! 運用コストの低さは折り紙つきでございますよ!」

「そうか。ではさっそく購入手続きを進めてもらおう」

「ありがとうございます! それで、お支払いの方法は――」


 百三十八番の男は支払いと受取りの段取りを話し合った。移動の際の馬車はサービスで向こう持ちだ。引き渡しは時間をずらして行われるので、男の番は最後である三日後だったが、大きさからいって誤魔化しようがないのでバレるのは時間の問題とわかっていた男は無理を言って初日に変えさせる。

 ――そして城下町で旅の準備を終わらせるため、男は待っていた使用人とともに闇の中に姿を消した。


  

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