故郷
何一つ無かった。
黄昏の光の中でその音色を響かせたクラリネット、青々と繁りその根元で人々を安らがせた林檎の木、そして、クリーム色で街を包んだ煉瓦造りの家々。風に吹かれた砂の城のように全てが消えてしまっていた。
初めは場所を間違ったのかと思った。コンパスと地図、それから影の方向を見るも、どうやら方角は間違ってはいないらしい。腕時計を見ると、昨日まで滞在していたウェスリューを出発してから約五時間。それだけ歩いてきたが、体調は良かっただけにまだ道半ばということは考えにくい。
次に自分の目を疑った。目をこすり、水を顔に浴びせ、己の頬を殴ろうとも景色は微塵も変わらない。
今、目にしているものは幻ではないかと思いたくなった。この現状は全て真実であると言うのだろうか。故郷が、誰にも知られることなくその姿を消している、この現状を。今でも思い出せる、其処ここに子供達の笑い声があふれていたこと、今でも思い出せる、水は澄み空は晴れ風が吹き渡る美しい故郷を、今でも信じられる、それが幻などではなかったことを!この街を愛さなかったものは誰一人いなかった!流れ着いた浮浪者ですら溢れでる泉の水に息を吐き月の光がさんざめく夜を浸す静謐に心奪われるこの街を!
それが今、何一つ無い。
辺りは、砂漠が広がり、寒さが身を刺すのみ。
ただ立ち尽くすのみ。