涙の野外音楽(プロムナード)
日菜子は二駅目で電車を降り、山の方へと向かう路線に乗り換えた。乗り換えた電車は二両編成で、ほとんど乗客がいなかった。小さな駅を三つ過ぎると、私たちのいる車両は貸し切り状態になっていて。
線路は川に沿って山の中に入っていく。
私たちはロングシートの真ん中に並んで座っている。日菜子は話しかけてこない。私も何も言わない。
ぼんやり向かい側の窓ガラスを見ていると、唐突に気づいた。──多田と別れるとき、綾乃が一緒にいてくれたのは、私の味方をするためじゃなくて別れのシーンを元クラスメイトたちに報告するためだったんだ。
心がもうひと太刀浴びた気がしたけれど、最初の一撃が強すぎてもう胸の痛みは感じなかった。
ガタン、ガタン。車両と線路がのんびりしたリズムを刻む。対面の窓ガラスの向こうを通り過ぎていく景色も長閑な緑色のグラデーションだ。
みんなに嫌われていたショックと学校をサボることへの後ろめたさが、電車がひと揺れするたびに線路に少しずつ置き去りにされていくような気がした。全部が遠い世界の出来事になっていくみたい。
代わりに、どこへ行くのだろう、という興味とほんの少しの不安が心に広がっていった。やがて、どこに行くのだろうという期待が、少しの不安も押し退けていって。
ふと思った。このまま電車がどこまでも走っていけばいいのに。知っている人がひとりもいない異世界まで。そうして二度と戻らない。綾乃や、私を笑っていた元クラスメイトたちのいる世界には……って、それじゃあ現実逃避だね。
それから、思い出していた。この路線には小学校のとき遠足で乗ったことがある。日菜子が私を連れて電車を降りる駅は、遠足のときと同じ駅かもしれないし、違う駅かもしれない。でも、どちらにしても、私は初めての景色を見るんじゃないかな。だって、初めて学校をサボって見る風景なんだもの。
『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う』
ふとそんな言葉が胸に浮かんで、私の頬はちょっと緩む。やだ、まだ1ページも読んでない本の一節を覚えてしまった。学校をサボって見るちょっと現実逃避な景色でも、卵の外の景色になるのかな。バレたら、怒られるんだろうな。先生にも、親にも。怖くはない。困るな、とは思うけれど、実はそんなに困っていないような、ふわふわした気分だ。
「次で降りるよ」
電車がホームに滑り込み、私たちは電車の外に出る。
無人駅だった。向かって左には中洲のある川が、右には山の中に入っていく坂道が見える。
私は電車に乗ってから初めての声を出した。
「ここ、小学校の遠足で来たかも」
間違いない。駅に駅員さんがいなくて、みんなでびっくりしたんだ。
「じゃ、この先に何があるか、わかる?」
日菜子が上りの坂道を指差して、私は記憶を呼び起こす。
「……公園?」
「そう」
私たちは坂道を並んで歩き始めた。
小学校の遠足で来たときは、秋だった。なだらかな山の斜面に広がる公園内には真っ赤な紅葉や金色のイチョウがいっぱいで、夢中で落ち葉を拾い集めたっけ。
今は六月だ。昨日は雨が降ったけれど、今日は天気がいい。背中が汗ばむ。
中学でバスケをやっていたときのことが思い浮かんだ。一生懸命練習して、汗でユニフォームが背中に貼りついた感触……。
部活、楽しかったな、と思った。練習が大変なこともあったけど。たまには小さな揉め事もあったけど。
となりのコートで練習している男バスの中にカッコイイ男子がいる、って部活のみんなが言っていて、見たらホントにカッコよくて、それが多田だった。みんなうれしそうに多田のことを話していた。私は興味のないフリをしていたけれど、本当は、みんなの話をひと言も聞き漏らすまいとしていた。カッコいい多田を見て、多田とつきあう自分を空想するのが楽しかった。空想は現実になったけれど。
あれは、恋だったのかな。
私たちはふたりとも黙って坂道を上る。
私は遠足に来たときのことを思い出していた。小学生の私は赤や黄色の落ち葉を夢中になって拾った。色も形も完璧なものを探して……思い通りの赤い紅葉と黄色いイチョウを見つけたときは大満足で、幸せさえ感じていた。赤と黄色の一枚ずつを大切に家に持って帰ったはずだけれど、どこにしまったっけ? 思い出せない。
駐車場が現れた。が、駐車している車は一台もない。そういえば、小学校の遠足のときも、自分の学校の生徒以外はいなかった気がする。
見渡せる範囲に人家はない。町からは離れている。お母さんが気軽に子どもを連れて遊びに来られる距離じゃないんだろう。お年寄りの散歩にも遠いかな。だけど、お休みの日なら、小さな子どもを連れた家族がのんびり遊ぶのや、元気なお年寄りのトレッキングにちょうどいいかもしれない。
私たちは駐車場を通り過ぎ、遊歩道を公園の奥へと進む。
遊歩道沿いの花壇には紫陽花が咲いていた。日菜子がきれいだと言っていた紫陽花だ。なるほど。色は……青紫、かな。土が酸性かアルカリ性かで花の色が変わるって聞いたことがあるけれど、どっちだと青くなるんだっけ?
街中の紫陽花は少し暑さにくたびれていたけれど、山の中は平地よりも涼しくて、紫陽花も鮮やかに元気よく咲いているように見えた。
……元気な紫陽花、っていうのもイメージが妙だけど──と、考えていたら、日菜子が言った。
「お天気、昨日と逆だったら良かったかもね、紫陽花」
昨日は雨がしとしと降っていた。確かに、青空の下の紫陽花より、雨に濡れる紫陽花の方が風情がありそう。
「そうだね」
同意する。昨日なら、紫陽花の色が雨に滲んでさみしそうだったんじゃないかな。今の私の気分に合っていたね。
でも、空はさわやかな初夏の青。紫陽花の青紫も溌剌としている。ちょっと可笑しくなった。私の気持ちには関係なく、世界は動く。私が泣きたくても、空は青く、花は咲く。
紫陽花の花壇を過ぎると、遊歩道は噴水をぐるりと回って木立の中へと続いていく。思い出した。あの木立を抜けるとイチョウや紅葉のある広場に出るんだ。
でも、日菜子は噴水の前で立ち止まって、右手にある東屋のベンチを指差した。
「日陰で話そう?」
話す? あのスクショを見せられて、話は終わったんじゃないの? まだ続きがあるの?
心が重くなる。さらに悪い話の予感しかなくて。でも、友だちに裏切られていた以上の悪い話って、何だろう。
東屋のベンチに、噴水を向いて並んで座った。
暗い気持ちが顔に出てしまったんだろうか。黙って日菜子が話し出すのを待っていたら、日菜子に苦笑された。
「クラスが同じになって、友だちになっても、本音の話ってなかなかできないよね」
ビターな微笑みをつくった唇がそう動いて、私はどきりとする。一瞬遅れて、そうだね、と心の中でうなずいたけれど、言葉にはならなかった。
「私の話、するね」
日菜子は私を見た視線を青い空に向けた。
あれ? 日菜子の話? 私のことじゃなくて? ──ちょっと意表をつかれた。
「私が、中学のとき、男子とつきあってたことは知ってるよね」
それは……前に聞いた。すぐに別れちゃった、って。別れた理由は……。
「……二次元の方がおもしろくて別れた話?」
空を向いたまま日菜子の唇の端が上がる。
「仮にその男子をBとするね」
また数学の証明問題を解説するみたいに日菜子は話し出した。だけど、
「私、Bのことが小学校のときから好きだった」
続く言葉は全然証明問題の解説じゃなくて。
「好き? 日菜子が、その、Bくんを?」
驚いて聞き返してしまった。美人の日菜子は、自分から好きになるんじゃなくて、相手に好かれてつきあったんだと、勝手に思っていたのだ。だって──。
「でも、日菜子の方から別れたんだよね?」
こくり。日菜子はうなずく。
「なんで?」
思わず聞いてから、手で口を押さえた。無神経な質問だったかな。取り繕うように言葉を継いだ。
「つきあったら、思っていたのと違う人だった、とか?」
友だちのケースで、そんな話を聞いたことがある。優しいと思ってつきあったのに、全然優しくなかった──みたいな話。
「ここ、Bとの思い出の公園なんだ」
と、日菜子は私の問いをスルーした。
「小五のとき、ここに遠足に来て、きれいな落ち葉を探していたら、Bが真っ赤な紅葉を拾って私にくれた」
日菜子もここに遠足で来ていたんだ。きれいな落ち葉探し、みんなやるんだね。で、好きな男の子にきれいな紅葉をもらって……。
想像したら、他人事でもきゅんとするシチュエーションだ。余分な質問をはさんだりしないで黙って日菜子の話を聞いた方がいいかもしれない。日菜子がなぜ昔話を始めたのかはわからなかったけれど、日菜子はきっと彼女にとって大切なことを話そうとしている。適当な合いの手なんか入れないで、真面目に聞こう。
──と、思ったのだけれど。
「私は当時ブス扱いされていて、Bは女子に人気があったから、私、必要以上に感激してしまった」
「えっ」
どこがブス? 美人だよ? 少なくともクラスではいちばんの美人だと思う。
「うーん、太っていたから? ムーンフェイスって言うの? メガネが頬っぺたの肉に食い込んでる感じだった」
私の心の声が聞こえたようにそう言ってから、
「太っていたから、スポーツも苦手でさ──あ、スポーツは今でも苦手だけどね。でも、勉強は得意だったから、勉強だけできる運痴のブス、どんくさ、ってクラスの中心グループの女子たちにバカにされてた」
可笑しそうに笑んだ顔は、やっぱり美人だ。
「で、紅葉をもらったとき、私、感激のあまりBのことが好きになっちゃって。相手は女子に超人気だし、私はブスだから、見ているだけだったんだけど……中二になって、私、痩せたんだよね」
ああ、と私は心の中でうなずく。よくあるお約束だ。メガネを取ったら美人とか、痩せたら美人とか……現実でも、あるんだ。日菜子をバカにしていた女子たちはびっくりしただろう。越後の縮緬問屋の隠居じじいが天下の副将軍だとわかったときの悪者ぐらいに驚いただろう。恋をしてキレイになりたくてダイエットをしたのかな、と微笑ましく思いかけたけど。
「私、小さいときからアレルギーがあって薬を飲んでいたんだけど、その薬が合わなくて太ってたみたいでさ。薬を変えたら、健康体重になったんだ」
どん、と言葉が胸に落ちた。
そうだったんだ。アレルギーは辛いだろう。アレルギーを抑えるために薬を飲んで、その薬のせいで太ったなんて、女の子的にさらに辛いだろう。
美人で頭もいい日菜子は、私の中では無敵なイメージがあったのだけど。
アレルギーで太っていて運動が苦手……中学校を皆勤で卒業した私にはわからない苦労があったんだ。ううん、今もまだあるのかもしれない。低血圧で朝起きられなくて、血圧を上げる薬を飲んでいるって、言っていたし。
「た……大変だったんだね」
何か日菜子の気持ちに寄り添う言葉を言いたかったのだけど、そんな言葉しか出てこなかった。
「うん」
日菜子の返事は短くて軽い。
「で、痩せたら、ちょっと男子に注目されるようになって」
ありそう。アヒルの子がとびきりの白鳥になったんだもの。
「Bに、つきあおう、って言われたんだ」
おお、おめでとう……なストーリー、のはずだけど。
……別れたんだよね、自分から。
「少女マンガの主人公になった気分だったよ。相手は小五からずっと好きな男子で、中学でも女子に人気で」
わかる、気がした。多田に告白されたとき、私もそうだった。舞い上がっていた。こっそり憧れていたカッコイイ男の子に、つきあっちゃう? と言われて。
「Bは、俺こいつとつきあうことにしたから、なんてみんなに公言して、デートみたいなこともして」
うわ、ホントに少女マンガみたい。
「うれしかったんだけど、あるとき、ふと思ったんだ。Bってホントに私のこと好きなのかな、って」
え。
「なんで」
日菜子は眉をしかめる。
「うーん、なんでだろう。Bは私といるときいつもご機嫌で……でも、感じたんだ。このヒト、私とつきあってる自分のことが好きなだけじゃないか、って」
頭に浮かんだのは『?』だ。
「……ごめん、どういうこと?」
遠慮がちに聞いてみる。日菜子はわたしよりずっと頭が良い。日菜子の話に私の理解が追いついていないようだ。
日菜子は苦笑した。
「うまく言えなくて、ごめん。ええとね……Bは私のことが好きだから私とつきあってるんじゃなくて、突然キレイになった女の子とつきあいたかっただけなんじゃないかな、って思ったんだ。──あ、自分で自分のことを『突然キレイになった』なんてイタイけど」
「ううん、日菜子、キレイだよ」
「ありがと」
いつもクールな日菜子の笑みが優しくなる。
「だからね、Bは突然キレイになった話題の女の子とつきあいたかったんであって、それは私じゃなくてもよかったんだよ」
少しわかってきた。
「誰でもよかった、ってこと? 話題の女の子なら?」
日菜子は人差し指をピッと立てた。
「そう! で、話題の女の子をすかさずゲットした自分に惚れ惚れしていた、って感じ」
それは……嫌なやつだね。鏡とつきあってろよ──な、自惚れ男だね。
「だから、別れたんだね?」
別れた理由を納得したつもりでたずねたのだけど。
日菜子は首を左右に振った。
「私には小学校からの気持ちの積み重ねがあったからさ、それでもBが好きだった。だけど、一緒にいればいるほどさみしくなった」
そう言って閉じた日菜子の唇が不思議な微笑みをかたちづくった。何ていうんだっけ、社会で習った昔の仏像の……そう、アルカイックスマイル。唇だけの、微笑。
「一緒にいてもBは私を見ていない。私は、Bにとってカノジョじゃなくて、自分がモテることを証明するアクセサリーみたいなものだ。──そう思ったら、もうムリだった。カノジョじゃないのに、カノジョみたいにそばにいるの、できなかった」
そんなことってあるんだ。なんだか私の心までさみしくなる。
「それで、別れよう、ってBに言った。Bはプライドが傷ついたみたいだった。私のことを、あいつ小学校のときの自分の顔を覚えてるのか、とか、痩せたら俺程度の男とはつきあえないらしいぞ、とかクラスで言ってた。で、Bのことを好きな女子たちが、痩せてちょっとキレイになったからって調子に乗ってる、って私に嫌がらせを始めてさ」
……その話、結衣にちらっと聞いた。四人で多田と話す作戦を立てようとしたら、日菜子が『パス』して帰ってしまい、それを非難した綾乃をなだめるみたいに結衣が言ったのだ。中学のときつきあっていて別れた相手が人気のある男子だったから、ファンの子にいろいろ言われた、って。
あれはソフトな言い方だったんだ。日菜子は、たぶん、イジメにあった。
「その子たちが、クラスで私を無視しよう、みたいな雰囲気をつくったんだけど、ウチのクラスには結衣がいてさ」
えっ。結衣が日菜子をかばったの? そんな勇者だったの? 意外かも。
くすくすっ、と日菜子が笑う。
「結衣って、天然なところがあるんだよね。せっかくその子たちが私を孤立させる空気をつくったのに、結衣が空気を読まずに私に普通に話しかけて、ぶち壊し」
ふわっ、と結衣の笑顔が浮かんだ。おっとりと人の好さそうな。かばうのでも止めるのでもなくて、気づかないことでイジメの空気を壊しちゃったのか。あの笑顔にそんな破壊力があったとは。
「──と、まあ、自分の黒歴史を長々と語ったわけだけど」
日菜子が声のトーンを改めた。
「私さ、真凛にBと同じことを感じてた」
とても唐突なことを言われた気がした。私と……Bが同じ? どこが?
「多田と別れる前の話だよ? 真凛が多田のことを話したとき、多田が好きってより多田とつきあってる自分が好き、って感じがした」
「そんなこと……っ」
思わず声が高くなった。日菜子の話だと、Bはキレイになった日菜子をカノジョにしたことを自慢したいだけの最低男子じゃないか。私がそれと同じ?
「……そんなことないよ。なんでそんなこと言うの!」
綾乃や中学の同級生たちに裏切られた私を、日菜子まで責めるのか。
日菜子は私を静かに見返した。
「真凛は多田が好きだったの?」
当たり前じゃない、と言おうとした。そのとき、耳の奥で蘇った声があった。
『真凛は、俺のこと、好きだった?』
多田の声だ。部室棟の木立の中に呼び出された多田が、私に聞いたこと──俺のこと、好きだった?
あのとき私は多田に、当たり前じゃない、と叫んだ。今も日菜子の質問に、当たり前だ、と答えようとしていたけれど。
多田は、なぜ、そんなことを聞いたのだろう。──初めてそこに思いが至った。どんな気持ちで、何を考えて、その問いかけを口にしたのだろう。
「……好きだったよ……」
日菜子に答えた声は弱々しくなっていた。私は多田が好きだった。好きだった、はずだ。
「そうか。でも、中学の友だちにはそうは見えてなかったのかもしれないね。さっきのトーク画面に『得意』とか『自慢』とか、あったよね」
日菜子の言葉が私の胸をぐさぐさと突き刺して痛い。
痛いのは、きっとそれが事実だからだ。私にそんなつもりはなくても、彼女たちには私が『得意げ』で『自慢げ』に見えていたのだろう。でも、多田みたいにカッコイイ男子とつきあえたら少しは自慢したくなるよね──と、言い訳が胸に浮かんで、私はぞくっとした。
カッコイイから自慢したかった。カッコよくなかったら? そもそもつきあおうとしなかった?
最初はカッコイイから憧れた。それは事実だ。だけど、それだけでつきあったりはしないよね。話したら楽しかったり、優しかったり……。
不意に思い出がぼやけた。多田に告白されたときの、一緒にお祭りに行ったときの、頭を撫でられたときのオレンジ色の景色も。
有頂天だった自分の気持ちだけがくっきりと残った。多田に告白されて、カノジョになって、優しくされて、はしゃいでいた自分。私、多田のどんなところが好きだったっけ?
思い出せなかった。代わりに、別れたあとの多田が心を占領した。思いがけず長かったまつ毛。窓からの風に髪を吹かれて、煩そうに気持ちよさそうに眉をしかめる多田。白鳥楓を見る青いまなざし。
多田でいっぱいになった心が、きゅん、とした。
ああ、と合点した。わからなかったことが、ひとつ、わかった。どうして私が多田から目を離せなくなったのか。
私、多田一葉に恋をしている。
中学生のときの、私とつきあっていた多田じゃない。ほかの女の子が好きな、今の多田に恋している。誰かに恋をしていて、とても素敵な表情をする男の子に。
私とつきあっていたときも多田はそんな表情をしていたんだろうか。大人のような、少年のような、まなざしが青く翳るような。
……思い出せない。たくさんの時間を一緒に過ごしたはずなのに。私、多田のどこを見ていたんだろう。
「真凛?」
日菜子のあわてたような声がする。
「ごめん。私、きつかった?」
問われて、はじめて気がついた。自分が泣いていることに。
「私、Bとのことがあって、クラスの女子といろいろあって、孤立してもいいから自分に正直に行動しよう、って決めたんだ。結衣のお陰で孤立はしなかったけど、決心は変わらなかった。真凛はBに似ている気がしたけど、Bより無邪気な気もして、だから、ちゃんと話したいと思って……でも、きつかったよね。ごめん……」
いつも冷静な日菜子がおろおろしていて、ちょっと可笑しい。
「違うよ。私、多田のこと、好きなの」
涙をこすって最初に出たのはその言葉。日菜子の戸惑いが伝わってくる。うん、これだけじゃわけがわからないね。
「今、気づいた。好きだったんじゃないの。好きなの」
うまく説明する自信はないけれど、そのとき私は自分の気持ちを言葉にしたかった。
「日菜子、前に、人の気持ちは理不尽だ、って言ってたよね」
多田との話し合いを日菜子がパスしたときの言葉だ。日菜子がちょっと考えてうなずく。
「これも、理不尽、なのかな。変だよね。つきあっていたときよりも今の方が、多田が好きだ。私のことふったやつなのに」
「わかる」
意外な答えが返ってきて、私は思わず日菜子を見た。日菜子はとても真面目な顔をしている。
「多田、いい表情をするんだよね。なんていうか、大人っぽくて、純粋なの」
驚いた。私の他にも多田の表情に目をとめている女の子がいたなんて。私がぼう然と見つめると、日菜子は舌でも出したそうな顔をした。
「ごめん、パスとか言っといて、やっぱり気になってさ。結衣に真凛と多田の話し合いの様子、聞いちゃったんだ。ごめん。でも、結衣の話を聞いて、多田の表情がいい感じなのを納得したよ。私、多田って誠実なんだと思う」
「誠実? 浮気したのに?」
私からはそういうことだ。
「そうだけど……別れよう、って切り出すのも、強い気持ちが要るよね……」
そう言う日菜子は、自分から別れを切り出した人だった。
「……それ、経験談?」
「曖昧に対応して、少しずつ距離を置いて、自然消滅できないかな──って考えたこともあるから。その方がお互いに傷つかないんじゃないか、って」
多田からのメッセージが少なくなっていったことを思い出す。考えていたのかな、悩んでいたのかな、多田も。
「でも、結局、相手は傷つくわけじゃん? 少しずつ離れてなんて、自分が傷つかないように逃げてるだけだ、って結論した」
日菜子はぐっと片手を握る。
「『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う』。戦ったら相手も自分も傷つくけど、戦わないで世界を変えようなんて、ずるいよね」
そう言って、ちょっと照れたみたいに日菜子はにっと笑う。
「大袈裟だね」
私も笑った。ホント大袈裟だ。でも、私たちにとって、人間関係を──自分の世界を変えるにはそのくらい大袈裟な気持ちが必要なのかもしれない。相手を傷つけて自分も傷つく覚悟。
「ねえ、日菜子は、多田も傷ついたと思う? 私と別れるとき」
私は、私が一方的に傷つけられたと思っていたけれど。
「思う。世の中には人を傷つけて平気なやつもいるだろうけどさ、多田は違うよ。だって、真凛や綾乃に責められても、多田は言い訳や反論をしなかったんでしょ? 真凛が傷つく気持ちを全部受け止めるつもりだったんじゃないかなあ」
それも日菜子の経験談だろうか。日菜子もそんな覚悟で好きだった男子に別れを告げて、その男子が言いふらした悪口も女子のイジメも受け止めたんだろうか。
多田と別れたときのことを、もう一度思い出してみる。多田が私に告げたのは……私のほかに好きな女の子がいる。ごめん。私の気の済むようにする。そのみっつ。あとは私の『大っ嫌い』も『最低』も、黙って聞いていた。
もう一か月以上前のことだ。今になってふり返ると、あのときの自分が『裏切られた』って気持ちでいっぱいだったのがわかる。自分は何も悪くない。私は被害者。多田が全部悪い。
──俺のこと、好きだった?
今、聞かれたら、私は何て答えるだろう。
──わからない。でも、今は好き。
そう言ったら多田はどうするだろう、と考えて、多田の気持ちは教えてもらっていたことに気づく。
──真凛が好きだった。だけど、今は他に好きな人がいる。
多田は私が好きだったんだ。もしかしたら、そのときは私のことをあの青い影を帯びた目で見ていたんだろうか。
でも、私は多田のまつ毛が長いことすら知らなかった。初めて男の子とつきあって、それが憧れのカッコイイ男の子で、はしゃいでいた。
ああ、そうか。日菜子の言う通りかもしれない。多田に、別れよう、と言われて傷ついたのは恋する心ではなくプライドだった。──あんたが、つきあおう、って言ってきたのに。私は何も悪くないのに。なんで私が惨めな思いをしなきゃならないの。
こすったばかりの頬にまた涙が零れた。
肩に手が置かれた。日菜子が心配そうに私を見ている。思わず言っていた。
「ありがとう」
日菜子の目が開いた。肩の手にぐっと力がこもって、私は日菜子に抱きしめられる。
「ごめん、泣かすつもりじゃなかった。うまく話せなくて、ごめん。だめだなあ、私。正直になろうとすると、きつくなる」
私はかぶりを振る。日菜子の話がきつくて泣いているんじゃない。別れよう、と言われて悔しくて泣いたときとも違う。何かが私の中から涙になって融け出ていく。そんな感じだ。
涙で噴水が揺らめいた。紫陽花の青紫が滲んでいく。
なんでちゃんと見ようとしなかったんだろう、多田のこと。ホントに素敵な男の子だったのに。青く翳るまなざしで私を見ていたかもしれないのに。私はその瞳を見つめ返すこともしなかった。多田がカッコイイとか優しいとか、そんなことに喜んでいるだけだった。
多田のことを、もっと好きになればよかった。好き、の気持ちを伝えればよかった。
私、ふられたあとに、多田一葉に恋してる。




