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転調(モジュレーション)の朝

 勉強机に広げた課題が進まない。

 固く決心したはずなのに、私は多田を無視できない。その上、今夜はショパンのノクターンが耳から離れない。バラのアーチの家から聞こえたショパンのノクターン。白鳥楓が音楽室で弾いたショパンのノクターン。

 私は時計を見た。八時を過ぎたところだった。

 窓の外に視線をやると、昼間の雨は上がっていた。星が見えた。

 ──少し、外の空気を吸おう。

 が、部屋のドアを開ける前にスマホの受信音が鳴った。日菜子からメッセージだった。

『明日、学校に行く前に、駅でふたりで話せる?』

 え、何だろう。日菜子も電車通学なのだが、いつも遅刻ギリギリの電車に乗ってくる。結衣と同じ駅を利用していて仲も良いのだから、一緒に登校してもよさそうなものなのだけれど、日菜子は起立性低血圧とかで朝起きるのが辛いんだそうだ。毎日血圧を上げる薬を飲んでいるらしい。ウチのおばあちゃんと反対だ。でも、明日はもっと早い電車に乗るから駅で少し話そう、と、電車の駅到着時刻が書き込まれていた。

 日菜子とは利用する電車の向きが逆なのだが、同じくらいの時刻に着く電車はこちらにもある。とりあえず、おっけーの返事と自分が駅に着く時刻を送った。駅構内のパン屋さんの前で待ち合わせすることにした。それでメッセージのやりとりは終わった。

 私はスマホを机に置く。

 外に出ようと思っていた気持ちが失せていた。日菜子の『話』が気になる。

 メッセージは『話』の内容にはまったく触れていなかった。わざわざ会って話そうなんて、深刻そうな感じがする。嫌だな。私、日菜子と何かあったっけ?

 多田と別れたときの日菜子の態度は冷たかったと思う。だけど、その気持ちを引きずって日菜子に直接悪い態度をとったりはしていない。綾乃がこっそりとささやく悪口にうなずき返した程度だ。それも、もう、やめている。

 日菜子はクラスも部活も同じだから、気まずくなるのは困るのだ。日菜子の方もあのときのことはなかったように振る舞っている。お互いにスルーできたと思っていたんだけど。

 考えても思い当たる『話』はなくて、気持ちだけ重くなる。

 私はノートに置いたシャープペンを取った。明日になればわかることだ。わからないことを考えているヒマがあったら、課題を少しでも片づけてしまわなければ。

 日菜子の『話』が何なのか、バラのアーチの家でショパンを弾いていたのが誰なのか、考えてもわからない。私が多田から目を離せない理由も、私はさっぱりわからないのだ。



 いつもより十五分ほど早く着いた駅だったけれど、学生やサラリーマンで混み合う様子は変わらない。

 開店前のパン屋の前で文庫本を読みながら、日菜子は私を待っていた。

「日菜子、おはよう」

「あ、おはよう」

 日菜子は顔を上げ、文庫を閉じる。そのとき文庫の表紙が目に入り、私はあれっ? となった。昨日、結衣が音楽室に取りに行った本に似ている。……ていうか、同じタイトル?

「日菜子も『デミアン』を読むの?」

 自分も『デミアン』を読んだことがあるような聞き方になった。

 たまたまそうなったんじゃない。読んだことがあると、日菜子に思わせたくてワザとそういう聞き方をしたんだ。結衣も白鳥楓もヘッセとかいう人の小説を読んでいて、日菜子まで読んでいて、なのに自分は読んだことがない。それを知られたら、みんなから下に見られて取り残されるような気がしたんだ。

 白鳥楓の学年トップはおいておくとしても、日菜子はトップクラスで、結衣は中の中。自分が勉強で取り残されている自覚はあったから、読書でもみんなより落ちこぼれていると日菜子に思われたくなかった。

 ただの見栄だ。見栄を張った自分がちょっと後ろめたくて、急いで言葉を足した。

「昨日、結衣も『デミアン』を持ってたから」

 これで自分が『デミアン』を読んだことがあるかどうかは曖昧になるんじゃないかな?

 日菜子は笑った。私の苦心なんて知らぬげに。

「その『デミアン』、この本だよ。私が結衣に貸してあげたの」

「あ、そうなの?」

 じゃあ、ここで私も日菜子に『デミアン』を貸してもらえばいいんじゃない? そうしたら、私、日菜子に『デミアン』を借りた結衣とは同等になれるんじゃ……。

 気が緩んで、

「その本、面白い?」

 うっかり読んでないことがバレる質問が口から出てしまった。

「うん、中二病も極めれば芸術になるんだなあ、って感動した」

 ……え?

「オタクな本なの?」

 ドイツの小説って聞いたような気がするんだけれど。

 日菜子は空いている片手をぐっと握った。

「『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ』」 

「え?」

「『デミアン』の中に出てくる言葉。好きなんだよね」

 ……ああ、うん、中二病っぽいかも。戦うとか世界とか。だけど、白鳥楓が言った『素敵』と結衣が言った『難しい』に、『中二病』が結びつかない。

「真凛も読む?」

 日菜子がすっと本を差し出してきたので、流れで受け取ってしまった。でも、読んでしまえば『デミアン』に関してはみんなと同じ位置に立てるから、まあいいか。

「ありがとう」

「昨日、結衣は『デミアン』をワザと音楽室に忘れたんだよね」

 私が文庫本をバッグにしまおうとすると、日菜子が言った。

 意味が飲み込めず、私は本をバッグに納めてから改めて日菜子を見る。

「本を取りに行くのを真凛につきあってもらって、音楽室でふたりきりになって話をする予定だったんだよ」

 どういうこと? ──と考えて、ハッと気づく。

 日菜子の『話』は始まっている。昨日、スマホに『ふたりで話せる?』とメッセージを送ってきた、その『話』。

「音楽室にはかえさんがいて、結衣と真凛はふたりきりになれなかったんだってね。でも、結衣が『かえさんがいなくても話せなかったと思う。かえさんがいるから話せないと思ったら、ほっとした』って言うから、私が真凛に話すことにした」

 駅の構内を行き交う人は誰もが忙しそうに足を動かしていて、パン屋の前で立ち話をする女子高校生に目を留める人はいない。

 けれど、日菜子の声は低い。そして、日菜子は私を手招く。パン屋さんの看板の陰に。

「森本千鶴、ってコ、知ってるでしょ?」

 どうして日菜子が千鶴の名前を知ってるんだろう? 多田が私以外の女の子と歩いているところを目撃した、元クラスメイトの名前を。

「その子、城南商業でしょ? 結衣が中学のとき仲が良くて城南に行ったコがいるんだけど、森本千鶴と同じ部活なんだって」

 私の頭の中で線がつながる。日菜子──結衣──結衣の友だち──千鶴。友だちの友だちの、友だち。 

「千鶴がどうかしたの?」

 私も声をひそめた。千鶴の友だち関係の揉め事かな。だとしたら、私には直接関係なさそうで、ほっとする。

「結衣の友だちを仮にAとするね」

 日菜子は数学の証明問題を解説するみたいに話し始めた。

「Aが森本千鶴にトーク画面を見せてもらったの。友だちの失恋のことを茶化しているトークだった。茶化されているターゲットが城東の生徒だったから、Aはトーク画面のスクショをもらって結衣に転送して聞いてきたの。『このコ、知ってたりする?』って」

 私はまだ話が見えない。

 日菜子はバッグからスマホを取り出し、画面をタップすると私に向けた。

「これがAから結衣に送られたスクショ」

 目に飛び込んだ文字は──。


『真凛、本日無事多田と別れました。いえーい』


 私の最初の反応は、眉を寄せることだった。真凛、多田、はっきりと名前が出ているのに、自分のことだと理解できなくて。

 次の瞬間、鼓動が速まり、私は目で画面を下へと辿る。グループトークのようだ。


『あめでとー。ていうか、真凛がフラれたんだろ?』

『ですね』

『すっきり』

『得意になってたもんね、あいつ。多田とつきあってさ』

『上から目線ていうか、得意げ、自慢げ』

『それ。私がシュースケと高校が別になるって悩んでるとき、だいじょーぶよーとか余裕こいて私を慰めといて自分が別れるの笑える』


 そこでいったん目が止まった。

 シュースケ、って……。

 メッセージの横へと目を動かす。そこには見覚えのあるアイコンと『ちづ』の文字……千鶴? 多田が新しいカノジョと歩いていたのを目撃して、私に教えてくれた千鶴?

 トークに参加しているメンバーの名前をあわてて確認すると、ゴールデンウィークの女子会に集まったコたちのようだった。──私以外の。

 そして、最初のメッセージの発信者の名前を見たとき、私は、頭が、くらり、となった。


『真凛、本日無事多田と別れました。いえーい』


 発信者名は──綾乃。

 私は体が熱くなるのを感じながら、トークの続きを読み進める。私が多田と別れたときのやりとりや様子が面白おかしく書かれていて、それに『まじうける』『カンペキふられてんじゃん』と合いの手が入る。

 綾乃だ。綾乃にしかわからない情報だ。

 みんな真凛の味方だよ、と言った綾乃の声が私の耳に蘇る。みんなって、誰。このトークに参加して笑っている、みんな?

「続き、読む?」

 日菜子の声が聞こえた。私は無意識にうなずいていたようだ。日菜子の指が画面をスライドさせてトークの続きが現れる。

 綾乃からの私の様子を報告するメッセージと、それを笑う反応が並んでいた。

 どれもこれも読んでいて苦しかったけれど、いちばん胸に刺さったのはこの一文だった。


『真凛、まだ多田に未練がある模様。授業中、多田を見ている』


 私は口をおおった。涙も嗚咽もこぼれなかったけれど、日菜子はそれを見てスマホの電源を切った。

「結衣に、これどうしよう、って相談されてさ」

 日菜子の口調はいつも通り淡々としている。

「真凛に話すしかないでしょ、って答えて、結衣もそう決心したんだけど、いざとなったら話せなかったんだよね。だから、私が話すことにした」

 そこで日菜子はいったん言葉を切ったけれど、私は口をおおったまま何も言えない。ううん、何も考えられない。

 綾乃は、みんな真凛の味方だよ、と力強く言ってくれたのだ。多田と話し合ったときだって、私が言葉に詰まると代わりのように多田を責めてくれた。多田が立ち去ったあとは、結衣と一緒に肩を抱いてくれて……。それからも、私より強く多田を非難していて……。

 ……私の反応が面白かったから? 泣いたり、悔しがったり?

 血の気が引いていく。

 カラオケで話題になった千鶴の情報。みんなはカノジョがいるのにほかの女の子を好きになった多田に憤慨していたんじゃなかったの? 私が浮気されたことを笑っていたの? 私、みんなに嫌われていたの?

 がしっ、と腕がつかまれて、私は体が傾きかけていたことに気づく。

 日菜子だった。私の視線を受け止めて、日菜子は、にっ、と笑った。

「学校、行く?」

 私はかぶりを振る。ムリだ。クラスには綾乃がいる。多田とのことでいちばんの味方と思っていたのに、陰で私を笑い者にするグループの中心になっていた綾乃が、いる。怒りよりショックで、どうしていいかわからない。

 すると、

「だよねー」

 日菜子が言った。声は明るくて軽かった。

「じゃ、どこかに行こう」

 私は目を瞬かせた。

「学校、サボって、どこかに行こう?」

 私はやっぱり返事ができない。学校を、サボる?

 実は、私、中学では皆勤賞だ。サボるどころか、風邪で休んだこともない。

「真凛、学校に行きたくないんでしょ? ていうか、綾乃と顔を会わすの、辛いよね」

 それは、その通りだけれど……。

 学校って、サボっていいの?

「今の季節だと紫陽花がきれいな公園があるんだけどさ、見に行かない?」

「でも、学校……」

 行きたくないのに、行かない決心がつかない。

「結衣に頼んだ。私たちが登校しなかったら、うまくやっといて、って。結衣、引き受けてくれたよ。真凛に話すのは日菜子に頼んじゃったからこっちは任せて、だって」

「でも……」

 不意に日菜子が私の手を取った。幼稚園児のような無邪気な動作で。

「『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う』んだよ」

 それは、さっき日菜子が口にした『デミアン』の言葉だっけ?

 なぜだろう、涙が出そうになった。自分の背中にふわりと翼がはえて、けれども飛べなくてもがいているような気持になった。

「行こう」

 手を引かれて、私は抵抗しなかった。

 日菜子と一緒に、出てきたばかりの改札へと向かった。


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