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憧れの六度

 雨が降っていた。昨日も雨だった。梅雨だからしかたない。

 私は北校舎の階段を結衣と並んで上っている。

 昼休みだ。向かっているのは音楽室。理由は結衣が忘れ物をしたから。

 忘れたのは教科書とかじゃなくて、文庫本だそうだ。今日の音楽の授業は音楽史の講義だったのだけれど、結衣は興味がなくて机の下でこっそり小説を読んでいたらしい。忘れた文庫本をとりにいくのにつきあって、と頼まれておっけーしたのはお散歩してカロリーを消費するためだ。バスケをやめて、体重は少し増えた。多田とのことがあって、少し減った。美容と健康のために今の体重をキープしたいところだ。

「何の本を読んでいたの?」

 階段を上りながら聞いてみた。

「ヘッセ」

「へっせ?」

「ドイツの小説家」

 へえ。知らない。

 私、マンガは読むけれど、小説はあまり読まない。小学生のころは、『秘密の花園』や『ナルニア国物語』を図書館で借りて読んだこともあるけれど、中学生になって以降はさっぱりだ。中三で図書委員になったのも本が好きなわけじゃなくて、他の委員会に比べると楽そうだったからで……。

 図書委員会で一緒になって多田と話せるようになったことを思い出してしまった。多田と会える委員会がすごく楽しみだったあのころの自分。

 ──ああ、もう。忘れるって決めたでしょ?

 音楽室は北校舎の三階にある。階段を上りきったとき、結衣がおや? という顔をして足を止めた。

「ピアノの音がするよね?」

「え?」

 私には聞こえなかった。でも、そう言われて耳を澄ますと、ポン、と小さな音がした。

 ああ、ピアノの音だ。音楽室に誰かいるんだ──と思ったとたん、

「……学校の七不思議じゃないよね。誰もいない音楽室からピアノの音が……」

 結衣が呟いて、ずっこける。

「ないない。昼間っから」

 でも、誰だろう。

 音楽室は、授業以外には、吹奏楽部が練習に使っている。が、活動は放課後だ。昼休みに部員が自主練していることもあるのかな? でも、吹奏楽って、ピアノを使ったっけ?

 私たちは音楽室の重そうな扉の前で立ち止まった。ああ、そうか、音楽室の扉は防音だから、ピアノの音も小さいのか──なんてぼんやり考えていたら、不意に結衣が微笑んだ。

「ショパンだね」

「え?」

「ショパンのノクターンの二番」

「有名な曲?」

「うん」

 もう一度耳を澄ませて、微かに洩れてくる音を拾う。

 私も知っているあの曲だった。音楽の時間に寝てしまう多田でも知っていた曲──私に『秘密の花園』を思い出させた木立に囲まれた家の、バラのアーチの奥から聞こえた曲。

 あのときは、私、『一葉のカノジョ』だった。何て曲だっけ、と呟いた私に、多田はショパンのノクターンだと教えてくれて……。

「……二番?」

 結衣は、ノクターンの二番、と言った?

「一番とか二番とか、あるの?」

 その、ショパンのノクターンに。

「うん、あるよ。二番がいちばん有名かもね」

「詳しいね」

「ピアノ、やってるから」

 初耳だ。結衣を見る目がちょっと変わってしまう。

「じゃあ、この『二番』も弾けるの?」

 結衣は苦笑いした。

「あんまり上手くないけど」

 弾けるんだ。

「すごい」

「すごくないよ。あんまり上手くないから」

 そう言って、結衣は音楽室の扉に目を向ける。

「中で弾いてる人は、上手だね」

 うずうずした顔で、私の腕をつかんだ。

「ね、中で聞かせてもらおう?」

「ええ?」

 反射的につかまれた腕を引っ張り返していた。

「誰が弾いているか、わからないよ?」

 全然知らない三年生とか。

「でも、どうせ忘れ物を取りに行くし」

 それは確かに。

 ふたりでそっと扉を開く。

 音があふれでた。たくさんの透明なガラス玉が転がるように、三拍子のリズムに乗って。

 窓のそばに置かれたピアノ。弾いているのは女子だった。長いストレートな髪の……。

「かえさん?」

 結衣が呟く。かえさん──白鳥楓の愛称だ。

 どん。私たちの後ろで、扉が重い響きをたてて閉まった。それで、白鳥楓は侵入者に気づいたらしい。唐突にピアノの音が切れて、驚きの表情を浮かべた顔を上げる。

「ごめん。邪魔して」

 すぐさま言ったのは結衣だ。

「忘れ物、取りに来たの。──かえさん、ピアノ、弾くんだ?」

 自分が使っていた机に進んで中から文庫本を取り出し、そのままピアノに──白鳥楓に近づいた。

 結衣のあとについていく感じで、私も白鳥楓のそばに行った。軽く言ってみた。

「かえさん、吹部だったよね。ピアノ担当なの?」

 私は白鳥楓を多田の『新カノ』じゃないかと疑ったことがある。今も多田の『新カノ』が誰かはわからないままだが、気にしないという決意はした。でも、疑った気持ちがまだ残っていて声や表情に出てしまうのは困る。なので、明るく軽く、を心がけたんだけど……逆に不自然に明る過ぎた気もして、急いで言葉を続けた。

「吹部ってピアノもあったんだねー。吹く楽器ばっかりだと思ってた。吹部だけに」

 ……あほっぽくなってしまった。

「あ、うん、ほとんどそうだよ。フルートとかトランペットとか。吹部だから」

 が、白鳥楓はにこやかに私と同レベルの答えを返す。

「あとは打楽器。ドラムとか、グロッケンとか……」

「グロッケン?」

「ええっと、鉄琴?」

 木琴の金属バージョンかな?

「私は、ホントは、鉄琴パートなんだけど」

 と、白鳥楓は説明を続ける。

「今回はピアノを弾くことになって、先生に、昼休みに練習する許可をもらって」

「吹奏楽でピアノパートって珍しくない? ていうか、ショパンを吹奏楽で演奏するの?」

 不思議そうにたずねたのは、結衣だ。白鳥楓はあわてて手を左右に振る。

「ショパンは気分転換。演奏会用にハープパートがある曲をやることになったんだけど、部にハープなんてないからピアノで代用することになったの。先輩たちには自分のパートをやってほしいから、一年の中で誰かがピアノを弾く、ってことになって、私──」

 一年生で押しつけ合って押し負けたのかな、と予想。白鳥楓ははにかんだ笑みを浮かべた。

「──立候補したの。ピアノ、好きだから」

 あ、そうなんだ。人が好くて押しが弱いだけじゃないんだ。好きなことは好きと言うんだ。

「私もピアノを習ってるんだよ」

 結衣がそう言って、

「ホント?」

 白鳥楓との会話が続く。

「ショパンのノクターン、いいよね。私、出だしが大好きなんだ」

「私も好き、ロクドのジョウコウ」

 ロクド? ジョウコウ? 何だか話に入れなくなってきた。

「結衣ちゃんの忘れ物って、その本?」

「うん」

「『デミアン』、私も読んだ。素敵だった」

「私にはちょっと難しかったかな」

 ふたりだけで話が弾んでいる。というか、ノクターンとかデミアンとかのカタカナが上空を飛び交って、自分ひとり下界の人間になった気分だ。

 白鳥楓も地味だけれど、結衣もすらっとしていること以外はごく普通の見た目だ。私の方が可愛い。なのに、ふたりの表情が楽しそうで、私より素敵に見える。

 ふと、自分のことが、顔がちょっとカワイイだけのつまらない女の子に思えてしまった。ピアノも弾けない。ヘッセも知らない。中学のときやっていたバスケも高校ではやめてしまった。マンガやアニメは好きだけれどオタクというほどじゃない。

 趣味は何? と、聞かれたら……何だろう。

 ──だから、ふられたのかな。

 なんて声が心のすき間に忍び込んだ。私は心の中でぶんぶんと首を振って、その言葉を弾き飛ばす。

 私の前では、結衣が白鳥楓に『もう一回ショパンを最初から弾いて』と頼んでいる。白鳥楓には予想外のリクエストだったらしく、戸惑う表情を見せたけれど、

「聴いてもらうのって、どきどきするけどうれしいよね」

 微笑んで、改めてピアノを向いた。黒白の鍵盤に指を置いた。

 大人しそうな表情がすっと変わる。静かで張りつめているけれど穏やか。私は山に囲まれた湖の青く澄んだ水面を連想する。

 入学式のときもそうだった。白鳥楓は美人じゃないけど、とても美しい雰囲気をまとえる女の子なのだ。ケガレナキオトメ的な。

 白鳥楓の細い指が鍵盤の上を流れるように動いた。

 結衣は幸せそうに目を細めて聴き入っている。私は少し胸が痛い。これは多田の犬のお散歩コースにあるバラのアーチの家から聞こえた曲だ。あのときはとてもロマンティックに聞こえたメロディーが、今は切ない。

 私、変だ。多田のこと、大っ嫌いになったのに。カノジョがいるのに他の女の子を好きになるなんて、サイテーなのに。

 気がつくと、多田を見ている自分がいる。多田は窓からの風に眉をしかめる。大人のような子どものような顔で。そして、青い影のあるまなざしで白鳥楓を見る……。

 どきん、と心臓が跳ねた。バラのアーチの家から聞こえたショパンのノクターンを白鳥楓が弾いている。バラのアーチの家でショパンを弾いていたのは──誰。

 クラシックにまったく興味のない私でも聞き覚えのあるくらい有名な曲だから、誰が弾いていてもおかしくない。結衣も、弾ける、と言っていた。なのに、心臓のリズムが速まる。

 それこそ何の根拠もないことだった。私の胸に唐突に浮かんだ、ただの思いつき。あのときのショパンも白鳥楓が弾いていたんじゃないか──。



 白鳥楓がショパンのノクターンを弾き終えて、私と結衣は音楽室を後にした。白鳥楓は音楽室に残って部活の演奏曲の練習を再開している。

 気がつかないうちに、無口になっていたようだ。

「ごめんね、真凛、ショパンにもつきあわせちゃって」

 結衣にそう言われて、えっ? となる。

「いやあ、興味なかったかな、って」

 申し訳なさそうな顔をされ、

「そんなことないよ」

 あわてて否定した。

「でも、身近にピアニストがふたりもいて、びっくりしたかも。曲はきれいだったよ。有名な曲なんだよね。聞いたことあるもの」

 ひと息に言って、そこで気になっていたことを口にした。

「ロクドのジョウコウ、って何? 結衣もかえさんも好きって言ってた……」

 ああ、と結衣は微笑む。

「さっきの曲ね、出だしがシからソに上がるでしょ?」

 でしょ、と言われてもどの音がシなのかソなのかわからない。が、結衣がハミングしてくれて、わかった。いちばん最初の、低い音から高い音にぽーんと上がるところだ。空に飛び立つような感じで。

「シからソを数えると……」

 結衣は、シドレミファソ、と口ずさみながら指を折る。

「ソは高い方に六番目の音になるじゃない? 音階が六番目に高い音に行くことを、六度の上行、って言うの」

 へえ。

 そうなんだ、と口にしようとしたけれど、結衣の説明にはまだ続きがあった。

「憧れの六度、って言われてる音階なんだよ」

「憧れ?」

「聞く人に憧れの感情を引き起こす音階なんだって」

 ……ああ、わかる気がする。結衣がシソだと言ったふたつの音。私も、空に飛び立つようだと感じたもの。

「ショパンのノクターンを練習したときに、ピアノの先生から教えてもらった話なんだけどね。憧れのほかにも恋とか思い出とか、とにかく胸がきゅんとする音階なんだって。それを聞いて、私、出だしのシソの音の出し方にすっごくこだわったんだけど、なかなか自分の納得する胸きゅんの音が出せなくて」

 楽しそうな笑みが結衣の唇に浮かんでいた。好きなことの話をしているから、かな。生き生きして魅力的だ。

「恋愛したことがないから胸きゅんな演奏ができないのかなあ、って先生に言ったら、それじゃあ宇宙人にさらわれたことがなければSFが書けないし、魔法を使えなければファンタジー映画がつくれないことになる、って笑われちゃった」

 私も笑った。結衣の楽しそうな表情や声につられて。でも。

「かえさんの六度の上行はきれいだったね」

 ふと遠くを見るように視線を浮かせた結衣の言葉に、私の笑みは固まった。

 耳に蘇る、白鳥楓の演奏。空に飛び立つようだった六度の上行。

 記憶を探る。バラのアーチの家から聞こえた演奏の出だしはどんなふうだったか。

 もちろん、覚えてない。前触れなく始まった演奏の最初の二音なんか。

 思い出せるのは、メロディーを耳にしたときの多田のハッとした表情だけだった。まるで何かに驚いたような……。


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