バラの追想曲(リコルダンツァ)
七月が過ぎていく。
空はすっかり軽やかな夏の色。けれど、私の心は何かがつっかえたままのような重くて変な感じだ。
自分がふられたことや友だちからの陰口、中学のときの子どもっぽい自分の振る舞いや日菜子と公園で話したこと……いろんなことが心にあるのだけれど、それぞれが散らかってうまく整理できない感じがしている。
勉強はがんばった。夏休み前に行われた定期テストでも、赤点はひとつも取らなかった。英語の得点が平均点に近づいていて、うれしかった。英語部に入ってよかった、と思った。
日菜子は前回と同じくらい──つまり、学年トップクラスで、結衣は中の中から中の上に昇格した。結衣も苦手だった英語のスコアがアップしたそうだ。
やったね、と結衣とハイタッチしたい気分。
そして、綾乃は、数学で赤点を取った。自分が赤点なのに私が赤点じゃないことに驚いたような顔をしていた。驚いた、というか、動揺した、というか。
けれど、すぐに
「ま、三角比なんて将来何の役にも立たないしね」
と笑って、追試に向かった。その後ろ姿に、日菜子が無表情に言った。
「ま、三角比ができなくても余裕で生きていけるけどね。できるやつがいないと困るよね。測量の基本だし、ゲームプログラミングや飛行機の姿勢制御も三角比を使うし」
え、そうだったの? ということは、三角比が役立たずなんじゃなくて、三角比を使いこなせない私が役立たずだったの?
……でも、測量やプログラミング以外にも世の中に必要な仕事はたくさんある。その辺はサインコサインマスターに任せて、私はほかのところでがんばろう。とりあえず、綾乃には『人の陰口をがんばって勉強をがんばらないから赤点なんか取るんだよ!』と心の中で言っておいた。
ゴールデンウィークの女子会で、綾乃が『課題の答えを写している』と言っていたのを私は覚えているのだ。まさか真面目に課題をやっているの、と鼻で笑われて、私はむっとした。だけど、それを口に出すことはできなくて『私、成績がやばいから』と自虐でごまかした。
それは自虐だけど、自覚でもある。自分の学力はこの学校のレベルの中では低い。だから、私は課題もできるだけがんばった。わからないところは日菜子に教えてもらって……理系科目は、教えてもらっても半分くらいわからないままで終わったけれど。
それでも、綾乃みたいに答えを写したりはしなかった。
学校の授業も、英語部の活動も、がんばった。だから、綾乃が私に負けてもそれは綾乃自身の問題だ。驚かれる筋合いはない。
……正直に言おう、私、ざまあみろ、と思った。自分より成績の悪い私を見下して何の努力もしなかった綾乃が、私より下位の成績に転落して、すかっとした。
だけど、同時に、日菜子が見せてくれた私の悪口トークのスクショの中の、ひとつのメッセージが頭に浮かんだのだ。
『私がシュースケと高校が別になるって悩んでるとき、だいじょーぶよーとか余裕こいて私を慰めといて自分が別れるの笑える』
野球部のカレと高校が別になってもつきあい続けている千鶴が書き込んだメッセージ。最初に見たときも胸に刺さったけれど、今度は違う角度から、ぐさっ、ときた。
そっか。千鶴の私に対する気持ち、今の私の綾乃に対する気持ちと、同じだったのか。努力しないやつがしっぺ返しを食らって、ざまあみろ。
千鶴とカレはきっとお互いに努力したんだろう。学校で毎日会えなくなっても、気持ちが繋がり続ける努力。
私は努力しなかったなあ。同じ高校に合格して、安心して、そもそも多田が『つきあおう』と言ってきたんだから、多田から『別れよう』って言われるなんて考えたこともなかった。そうして、『大丈夫』って千鶴を慰めながら心の中では『高校が違うと別れちゃう可能性が高いよね。私は大丈夫だけど』と思っていたこと、雰囲気で千鶴に伝わってムカつかれていたんだな。
で、上から目線だった私がふられて、すっきり。あのグループラインに参加していたコたちは多かれ少なかれ千鶴と同じことを私に感じていた、ってことだ。みんなひどい、と思って泣いたけれど、実は、自分でせっせと種を蒔いていたんだ。
見えなかったことが見えるって、辛いけれど、視界がクリアになるのはいっそ気持ちがいいかもしれない。冬の厳しい寒さの中で、背筋をピンと伸ばす感じだ。
現実の季節は、融けちゃいそうにめちゃくちゃ暑い夏だけれど。
そういえば、白鳥楓のテスト順位はまた『1番』だったらしい。今回は後ろから覗き見する男子はいなかったけれど、クラスで仲の良い女子に『1番?』と小声で聞かれ、うなずいていた。
胸につっかかっているひとつは、白鳥楓だ。彼女が多田の新しいカノジョなのだろうか。
多田が見ているのは白鳥楓だと思う。千鶴が見た多田と一緒にいた女の子と白鳥楓の髪の長さは同じくらいだ。だけど、ふたりがつきあっているというウワサは伝わってこない。私自身は『カレシいる?』と気軽に聞けるほど白鳥楓と親しくはない。
そして、白鳥楓のことでもうひとつ気になっているのは──ショパンのノクターン。
音楽室で白鳥楓が弾いたショパンのノクターン。多田と犬の散歩をしたとき、バラのアーチの奥から聞こえたショパンのノクターン。私でも聞いたことのある有名なクラシックなのだから、どこで誰が弾いていても不思議じゃないのはわかっているのだけれど。
どうしても気になってしまうのは、バラのアーチの家の前でショパンのノクターンを聞いたとき多田が浮かべた表情のせいだ。心の深いところが強く動かされたような。そして、それが多田とふたりで会った最後で、そのあと多田が連絡をくれることが少なくなっていったのだ。私はその理由を忙しいせいだと思っていたんだけれど……。
ショパンのノクターンの問題は、実は、簡単に解決できる。私は、バラのアーチの奥で誰がショパンのノクターンを弾いていたのか知りたいんではなくて、その誰かが白鳥楓かどうかを知りたいだけなのだ。
簡単だ。あのバラのアーチの家に行けばいい。表札を見れば、そこに住んでいる人の名字がわかる。白鳥か、そうじゃないのか……。
夏休みの前半は、英語と数学の補習があった。赤点を取った生徒は強制参加だったけれど、そうでなければ自由参加だ。
私は赤点は取らなかった。けれど、参加した。
中学校の部活でやっていたバスケットボールをやめた理由のひとつが、勉強時間を確保するため、だった。多田とのデート時間を確保するため、というのもあったけれど、それは要らなくなった。だったら、その分も勉強しよう。
結衣や白鳥楓のようにピアノは弾けない。日菜子のように読書家でもオタクでもない。小学校からやっていたバスケもやめてしまった──それが『私』だ。その上、勉強もテキトーにしてしまったら、心がだらしなくなってしまう気がするのだ。
ピアノは今から習うのは大変そうだけど、本を読むのはすぐにできる。正直『デミアン』は難しかったので、日菜子にオススメのラノベを教えてもらった。日菜子はマンガもラノベも難しそうな文学も同じように読むひとだったので、いろんな本を紹介してもらった。少しずつ、読んでいこう。
好きなアニメを見て、おもしろそうな本を読む。友だちと遊んで、勉強はこつこつ進めて、英語部の活動もサボらない。
涙が出そうに平凡な高校生活だ。でも、いやじゃない。とてーもすごーく地味だけど、卵の中から出るために戦っているつもりだ。卵は『私』だ。
うまく言えないけれど、私は私を何とかしたい。多田に、別れよう、と言われたあと、散らかったままの気持ちの先に進みたい。
八月の最初の日曜日、早起きした私はバラのアーチの前に立っていた。
春には緑の葉っぱばかりだったアーチには淡いピンクのバラが咲いていた。
きっかけがほしい気分だった。心のひっかかりをひとつ失くしたら、ほんの少しでも卵の外に出られるかもしれない。バラのアーチの家の表札をのぞいて、それが『白鳥』でなければ……。それとも、『白鳥』だったら……。
私はそっとアーチに顔を近づける。人通りの少ない道だけれど、誰かに見咎められる可能性はある。家の人と鉢合わせることも。そうなったら、きれいなバラに見惚れているフリをする作戦だ。
そんなに大胆なことをするわけじゃないのに、心臓がどきどきする。茂った葉の陰からグレイの表札がのぞいて……。
「真凛ちゃん?」
突然、背後から名前を呼ばれて、私の心臓がジャンプした。だって、この声は。
胸を押さえて私はふり向く。
私服姿の白鳥楓を見るのは初めてだ。何てことのないジーパンに何てことのないTシャツ。髪は三つ編みにして、麦わら帽子。めっちゃダサい。ダサすぎて、もはや素朴で可愛いくらい。片手にスコップとビニール袋を持っているのが砂場で遊ぶ子どものようだ。
わん、と吠えられて、私は白鳥楓が犬を連れていることに気づいた。茶色い犬だ。
そうか、白鳥楓の持っているスコップは犬のフンを片づける用だ。多田も、犬を散歩させるときは、スコップとビニール袋を持っていたっけ。
「……かえさん、犬、飼ってるんだ」
と、私は言った。
白鳥楓は、うん、と微笑む。
「真凛ちゃんは……真凛ちゃんも、散歩?」
──だよね。そう聞いてくるよね。
ちなみに、日菜子や結衣みたいな仲良しは私を『真凛』と呼び捨てするけど、そこまで仲良くないクラスメイトは『真凛ちゃん』と『ちゃん』づけする。白鳥楓と私は、そういう距離感だ。
だから、散歩? と聞かれても、それは挨拶のようなもの。私はあらかじめ考えておいたウソの理由をさりげなく口にする。
「うん、散歩。バラがきれいで、つい眺めちゃってた」
目線をバラのアーチに向けると、白鳥楓もそちらを見た。
ホントだ、きれいだねー──なんて返事を私は待っていた。そうしたら、じゃあねー、と手を振って、私たちは別れるのだ。
白鳥楓は、はにかんだ笑みを浮かべた。
「ありがと」
笑んだ唇から滑り落ちた言葉の意味を、私はつかみ損ねる。──ありがと? なんでお礼?
「お母さん、庭が荒れちゃっていたのをがんばって手入れしたから。きれいって言ってもらえたら、すごく喜ぶ」
「……このバラ、かえさんのお母さんが手入れしたの?」
間の抜けた私の質問に、白鳥楓の笑みがはにかんだまま深くなる。
「私も、少し、手伝った」
「えっと、ここ……」
「私のウチ」
……記憶の中からショパンのノクターンが聞こえてきた。白鳥楓が音楽室で弾いたショパンのノクターンと、バラのアーチの奥から聞こえたショパンを結びつけた自分のカンを、ここは褒める場面だろうか。
「このウチ、空き家だったよね」
空耳のノクターンをBGMに、私は白鳥楓と会話を続ける。
「春休みに引っ越してきたの」
「そうなんだ」
「でも、小四まではここに住んでいたんだよ。お父さんの転勤で引っ越して」
「へえ」
「今年の三月に、お父さんが本社に戻って、私たちもこの家に帰ってきたの」
「そうなんだ」
白鳥楓がハッとしたように口に片手を当てた。
「ごめん。自分のことばかりペラペラしゃべって」
「あ、うん、別に」
「もしよかったら、バラ、持ってく?」
「えっ」
「邪魔でなければ」
「あ、ありがと」
バラをもらうことになってしまった。
白鳥楓と犬のあとから、バラのアーチを潜った。日中の暑さを予感させる空気に、バラが濃く香った。
ベランダの日陰に、白いテーブルと白い椅子がふたつあった。私はそのひとつに座る。肩越しにふり向くと、大きなガラス窓の向こうにピアノが見えた。
白鳥楓は庭の片隅の物置小屋に入った。出てきたときには、植木バサミを持っていて。
パチン、パチン、と軽やかな音を響かせて、五分咲きのバラの枝を五本切った。バラの品種の名前を教えてくれたけれど、長いカタカナは私の耳をすり抜けた。返り咲き、という言葉だけ、記憶に残った。花を咲かせるのは初夏だけど、夏から秋にかけてもう一度花を咲かせる品種なんだそうだ。
「棘は落としたつもりだけど、見逃しがあるかもしれないから、気をつけてね」
五本のバラが、何かの包装紙にくるりと巻かれて差し出される。
「暑いから、冷房のない場所だとすぐに萎れちゃうかもだけど」
私は『ありがとう』を言おうとした。それから、『きれいだね』とか何とか。
けれど、そのとき、茶色い犬が私の足にじゃれてきて。
「きゃっ」
思わず叫んでしまった。私は、犬が好きなわけではないけれど、怖いわけでもない。急に前脚をももに乗せられて、びっくりしただけなのだが。
白鳥楓はあわてて犬を抱きかかえて、
「だめだよ、サスケ」
と、言った。
「ごめんね。人懐こいの。噛んだりはしないから。でも、びっくりするよね。ごめん」
うん、びっくりした。犬の名前に。
サスケ……って、呼んだ?
もう忘れかけていた名前だ。多田の犬と同じ名前。偶然だろうか、それとも……。
私は犬が好きなわけじゃない。ブルドッグとチワワの区別はつくけれど、柴犬が二匹いて大きさが同じなら、見分けはつかない。
だから、同じ犬に見えても不思議じゃない。白鳥楓のサスケと多田のサスケが。
「サスケっていうんだ……」
と、私は声に出した。ひと呼吸して続けた。
「偶然だね。私の知り合いの犬も、サスケ、って名前なんだよ……」
知り合い、でいいよね。多田は──知り合い。
同じクラスの多田、と名前を出しても問題なかったかもしれない。多田とは同じ中学出身なのだから、飼い犬の名前を知っているくらいあり得る。たとえ、元カノジョでなくたって。
だけど、私は、知り合い、という漠然とした言葉を使った。
白鳥楓は、犬を抱いたまま沈黙した。視線を落として。
何かが私たちの間に波紋のように広がっていく。私は受け取ったバラの花束をそっと胸に抱く。
「私、サスケを人に預けたことがあるの」
そして、白鳥楓は、私を見ないで語り出す。昔々の物語を──。
……小学校四年生のときだった。早起きしてピアノの練習をしていると、バラのアーチの横に立っている男の子が見えた。
一度だけではなかった。見かけるのは、いつも朝の早い時間。着ているのはいつもジャージ。数分時間バラの葉陰にいて、走って立ち去る。
ある朝、思い切って男の子を待ち伏せした。男の子は坂道を走ってきてアーチに近づき、ふと不思議そうな顔でアーチをのぞき、そこにいた女の子に目を丸くした。
──ごめん、のぞいて。いつものピアノが聞こえないから、どうしたのかと思って。
あせった口調でそう言った男の子の顔は赤くて、それを見た自分の頬も熱くなった。
──ピアノ、聴いてくれてたの?
──うん。……えっ、きみが弾いてたの? すごく上手だから、大人の人だと思ってた。
頬がいっそう熱くなる。
──また聴いてもいい?
うなずいたとき、サスケが後ろから、わんわん、と鳴いて。
男の子が目を輝かせた。
──犬、飼ってるの? 触っていい?
男の子は本当に楽しそうにサスケの背中や首を撫でて、
──きみの犬?
──うん。誕生日に買ってもらったの。
──世話、大変?
──少し。でも、可愛いから、平気。朝、ピアノの練習のあと、一緒に散歩に行くの。
──今日も? 今から行く? 俺も一緒に行っていい?
リードを渡すと、男の子はすごく喜んで。サスケもいつもよりはしゃいで見えて。
──散歩、どこに行くの?
──神社。
──よし、行くぞ、サスケ。
ひとりと一匹は飼い主を置いて駆け出してしまった。
季節は夏の終わりだった。アーチのバラも返り咲く花の数を減らしていた。
神社のベンチに並んで座って、男の子とおしゃべりした。
──四年生になってミニバスを始めたんだけど、ゲームの後半にバテちゃうから、体力をつけようと思って、学校に行く前にインターバルトレーニングすることにしたんだ。あ、インターバルって知ってる?
知らなくて、教えてもらった。ダッシュと休憩を繰り返す練習だった。
──ランの途中でピアノが聞こえて、きれいだったから、そこを休憩地点にしたの。坂の下からピアノの家まで全力で走って、一曲聴いたら、次は神社までダッシュ。
同じ四年生なのに学校で会ったことがないのは、男の子は近くの公立小学校の児童だけれど、自分はとなりの市にある私立学校に幼稚園から通っていたから。
──またサスケと一緒に散歩していい?
男の子の笑顔にどきどきしながらうなずいた。
一日か二日おきくらいに、男の子は坂道を走ってきた。
男の子がアーチのそばに足を止めると、彼のことを覚えたサスケが、うれしそうに、わんわん、騒ぐ。だから、バラのアーチの外をずっと気にしていなくても、男の子が来たことはわかった。
それまで練習していた曲を中断して、ショパンのノクターンを弾き始める。男の子が、今日弾いていた曲何ていうの? 俺、好き、と言ったことがあったから。上手には弾けなかったけれど、一生懸命に弾いた。
ノクターンが終わると外に出て、サスケのリードを男の子に渡す。神社で少し話したあと、男の子は走って神社を出ていく。
秋が来て、冬が去って、両親が突然、引っ越しするよ、と言った。
──お父さんが転勤になったの。春休みにお引っ越しするよ。でも、今度住むところには、サスケは連れていけないの。預かってくれる人を探そうね。
ショックだった。両親は、なんとかいう団体に犬を飼ってくれる人を紹介してもらうから大丈夫、と言って、どこかに電話していたけれど……。
「私、サスケとその男の子と神社に行ったとき、引っ越すからサスケを預けなきゃならないことを話したの」
と、白鳥楓の話は続く。
「男の子は、じゃあ俺が預かるよ、って言ったんだ。私がお願いする前に」
ちゃんと世話するから、という男の子にその場でサスケのリードを渡した。知らない『団体』の人よりも、サスケのことが好きでサスケも懐いている男の子の方が信じられた。
サスケがいないことに気づいた家族は、彼女のしたことを知って驚き、彼女を叱った。その男の子はよくてもおうちの方にご迷惑になるかもしれない、と言われてハッとした。親に怒られている男の子の姿が浮かんだ。
その子の名前は? どこの子なの? と聞かれ、男の子の名前も住所も知らないことに自分でも驚いた。
次にその子と会ったらサスケを返してもらいなさい、と言われてうなずいたけれど。
男の子は二度とバラのアーチの陰に姿を見せなかった。父親がふたたび転勤して、バラのアーチの家に戻ってくるまで。
「春休み中に引っ越して、子どものころを思い出しながら、ショパンのノクターンを弾いていたの。犬の声がして、見たら、その男の子がサスケを連れてアーチのところに立っていたんだ」
私の胸にそのときの情景が浮かぶ。再現映像みたいにはっきりと浮かぶ。
途切れるノクターン。バラのアーチの下に、サスケのリードを持って立っている多田。ベランダを飛び出して、信じられないように多田を見る白鳥楓。
ずっと目を伏せて話していた白鳥楓は、そこで初めて私を見た。まっすぐに。
「約束を守ってくれた男の子に、私、きゅんとしちゃったの」
そのまなざしに、白鳥楓を見る多田の青いまなざしがほんの少し重なった。
私は小さくうなずく。わかるよ。泣きたくなるような再会だね。空想するだけで私の胸もきゅんとする。きゅんと、痛い。
「バラ、ありがとう」
私は立ち上がった。白鳥楓の横を通り過ぎる。白鳥楓はもう私に声をかけない。きっと私を見送ってもいない。私も振り向かない。
バラのアーチをくぐって、道路に出た。
春休み、サスケを散歩させる多田と一緒にこの坂道を歩いた。私はバラのアーチの家を気に入っていた。子どものころ読んだ『秘密の花園』を思い出したりして。
歩きだしながら考える。多田はサスケのためにこの道を散歩していたのかな。もともとの飼い主の思い出の家がある道。多田はサスケの飼い主の女の子のことをどう思っていたんだろう。もしかしたら、多田の初恋?
小四のときには私も気になる男の子がいた。名前は……松嶋、という名字は思い出せるけれど、下の名前は忘れた。その程度のふんわりした気持ちだった。
思い出すと、松嶋くんと話せただけで喜んでいた小四の自分が微笑ましい……というより、苦笑いだ。松嶋くんは、四年生のとき同じ班になったことがあって、国語の話し合いで私の意見に熱く賛成してくれた──たったそれだけのことで、私は松嶋くんを好きになったんだった。でも、五年生でクラスが分かれて、中学校でも同じクラスになることはなくて、それきり。というより、五年生のときは、松嶋くんのことは忘れて、地域のサッカークラブに入っているスポーツ万能くんに憧れていた。
多田もサスケの飼い主の女の子のことが好きだったのかもしれない。私と同じ、小学四年生の子どもっぽい気持ちで。五年生になったら忘れるくらいの気持ちで。
きっと忘れていたんじゃないかな。私が松嶋くんのことを忘れたように。そうして、中学三年生になって、私とつきあった。バラのアーチの家はサスケが飼われていた家、というだけで、だからカノジョの私と平気でその家の前を散歩できたんだよね。でも……。
立ち止まった。振り返らなくても、もうバラのアーチが見えないところまで歩いたのはわかる。
私と犬の散歩をしてショパンのノクターンを聴いたときの多田の表情を思い出す。それから、
『真凛は、俺のこと、好きだった?』
と、たずねた多田のことも思い出す。──真凛は俺のことが好きだった? それとも、女子にちょっと人気のある男子が好きだったの?
日菜子は、好きな男の子とつきあっているのにカレが自分をちゃんと見てくれない気持ちを『さみしい』と言っていた。私は多田に『さみしい』思いをさせていたんだろうか。
ショパンのノクターンの最初の二音を、結衣は『憧れの六度』と言っていた。恋や思い出の、胸きゅんの音階。
サスケの飼い主の女の子は、以前住んでいた家に戻って、子どものころを懐かしく思い出しながらショパンのノクターンを弾いたのだろう。一緒にサスケを散歩させた名前も知らない男の子は、彼女にとっても淡くて甘い思い出で。
女の子の想いを込めた『憧れの六度』は、サスケを預かった男の子のさみしい心に飛び込んだのかな。そして、男の子は女の子にサスケを返しに行く。約束を守った男の子と約束を信じた女の子がふたたび出会う。
ロマンティック過ぎて、涙が出そう。
私は白鳥楓がくれたバラに顔を寄せる。バラの香りを吸い込む。
つきあっちゃう? と言われた日から、私が、ずっと、ちゃんと、多田に恋をしていたら、多田はさみしくならなかったかな。多田の心にさみしさが生まれていなかったら、初恋の女の子に再会しても、思い出は思い出のままで終わっていたのかな。
考えてもしかたないことを考えている。後悔に心が押しつぶされそうになりながら。
私は、とてもきれいな花をもらったのに、水を遣らずに枯らしてしまった──ってことなんだろうか。多田の気持ちを受け取るだけで満足して。
もっと多田を好きになれば良かった。私の恋する気持ちが表情や態度にあふれ出て多田が照れてしまうくらいに。そうすれば、多田の視線は私から逸れなかったかもしれない。だって、多田は私のことが好きだったのだから。
でも、私は実った恋に努力が必要だなんて知らなかったのだ。つきあった時点でハッピーエンドで、あとは何もしなくてもふわふわと幸せが続くと思っていたんだ。多田の気持ちが自分から離れるなんて想像もしていなかった。別れるときは多田より素敵な人が現れたとき、なんて考えて笑ったことはあるくせに。
多田を裏切者とか最低とか罵った過去の自分が、今の私を苦しくする。白鳥楓と多田がとてもきれいに思える。子どものころの約束を信じた女の子と、約束を守った男の子が。
ふと思い出した。
私も多田と約束したことがある。
高校に合格したら、天体観測広場で一緒に流星群を見よう──。
多田は覚えているだろうか。私と星を見る約束。私が約束を持ち出したら、多田は私とあの広場で流星群を見てくれるだろうか。
……見てくれるかもしれない。多田は約束を守る男の子だから……。
その夜、多田からメッセージがあった。
『白鳥に話を聞いた』
で始まって、そのあと、
『ごめん』
と、続いた。白鳥楓とつきあっていることがバレたので、別れたことをまた謝ってきたのかと思ったけれど。
『白鳥が、守谷のこと、優しかった、って言っていた』
『俺、守谷が白鳥に対しても怒ると思ってた』
『守谷のこと、そんな女の子だと思って、ごめん』
しばらく、画面に並んだ文字を見つめていた。
優しかった? 意味不明。私、ぼう然としていただけだし。白鳥楓の思い出話がとても可愛らしくて。
あ、もしかして、白鳥楓に嫉妬して暴力をふるったり暴言を吐いたりすると思っていたの? 失礼だな。──って、そうか、だから、ごめん、なのか。
まあ、多田にはこれでもかって暴言を吐いたからね。あのときの私を見たら、多田が心配するのもしょうがない。
でも、そんなこと正直に言って謝らなくてもいいのに。律儀だね。小学生のときに名前も知らない女の子とした口約束をしっかり守るだけ、あるね。
……私との約束は? ──心の奥で多田に問いかけてみた──一緒に流星群を見るって約束したよね。高校受験に合格したら、そのお祝いに一緒に流星群を見る約束。私、がんばって合格したよ……。
すごく久しぶりの多田からのメッセージを、私は見つめる。前にもらったメッセージは全部消しちゃったけれど、最後が『別れよう』だったのは心に刻みついている。思い出すと、まだ胸が痛い。
でも、今の痛みは多田を裏切者と思っていたときとは違う。真っ黒でも荒れ狂ってもいない。透き通った結晶みたいな痛みだ。とても痛いけれど、その痛みには、色も重さも、影もない。
不思議な痛みを味わいながら、私はスマホの画面に指先を近づける。約束を覚えている? と問いかけたら、多田は何て返してくるだろう……。




