踏み出すための間奏曲(インテルメッツォ)
帰りの電車に乗っているとき、日菜子のスマホに結衣からメッセージが入った。
『山本先生が心配してるから、家に帰る前に学校に寄ってね』
私と日菜子は顔を見合わせた。山本先生というのは私たちのクラスの担任のおばさん先生だ。結衣は私たちが学校をサボるのをうまくごまかす係だったはず。
『どういうこと?』
日菜子の問いかけに、結衣が返してきた説明は──。
『朝いちで職員室に行って、山本先生に真凛に友だち関係でトラブルがあったので日菜子が相談にのってて、だから、今日、ふたりとも学校を休みます、と伝えました』
メッセージを呼んだ日菜子は、がっくりと肩を落とした。
「結衣をなめてたよ。そうだよ、そういうやつだったよ。空気を読まなくて、のほほんと正面突破しちゃうんだよ」
私は少しだけ気が軽くなっていた。嘘をついて学校をサボったわけじゃなくなって。
むろん、山本先生に何を言われるかは、気重だった。怒られるんだろうな。せめて親に連絡が行くのだけは回避したいところだが。
行きの電車では無言だった私たちだけれど、帰りはいろいろな話をした。
まずは現実の問題として、これから綾乃とどうつきあおうか、ということ。
トーク画面を見たときの激しいショックや憤りは、公園で泣いたときに涙と一緒に体の外に出てしまったようだった。私には『得意げ』で『自慢げ』なところがあった、と自分でも認めちゃったし。でも、だからって、綾乃と今まで通りに仲良くする気持ちにはなれない。
「クラスも部活も一緒だからねえ」
日菜子もため息をつく。
「中学の友だちとのつきあいも絡むし、単純にケンカして絶交とはいかないか」
そうだなあ、いかないかな。私と綾乃の問題でクラスや部活の雰囲気が悪くなったら、みんなに悪いし、気まずいし、ケンカの理由を詮索されるのもいやだ。綾乃と絶交することで中学の同級生グループから完全に外れてしまうのも──もう外れてしまったようなものかもしれないけれど、やはり不安だ。
「陰口ってブームみたいなもので、時間がたつと飽きられたり忘れられたりもするからね。まあ、言われた方は忘れないんだけどさ」
膝の上に置いたバッグに両手で頬杖ついて、日菜子は続ける。
「だから、中学の同級生の方は放っておいても勝手に忘れてなかったことになるかな、って思うけど」
それも日菜子の経験だろうか。
「何か、女友だちの関係って、カレカノの関係より面倒くさい?」
私が言うと、日菜子は苦笑した。
「かもねー。カレとは別れれば終わりだけど、女同士はつきあいが複雑に絡み合っているからね。……とりあえず、陰口には気づいてないフリをして、綾乃とは表面だけ今まで通りにつきあう?」
「……できるかな」
いろんな感情が顔に出そう。
「結衣と私がカバーする。で、綾乃のいるところでは多田のことは話さない。綾乃に陰口のネタは提供しない」
うん。それは絶対にやらなければ。
それから、ふと思い出したことを聞いちゃった。ずっと前、日菜子はつきあっていた男の子と別れた理由を、二次元の方が楽しいからだ、って話していたけれど、それは後づけのオモテ向きの理由だったんだね──って。
日菜子は、きょとん、って顔をした。
「それも、ホントだよ?」
「えっ」
「モテる自分にしか興味のないナルシーな男と過ごすより、同好の士と推しの話をしている方が楽しいじゃん?」
「えっ、でも……さっきの話、聞いている私まで切なくなった、っていうか……」
「それはそれ、推しは推し」
よくわからないことを自信満々に言われた。
やっぱり日菜子は無敵な感じがする。黒歴史は抱えていても。朝が苦手で、スポーツが不得意でも。『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う』──日菜子は卵から抜け出ようと戦っていて、戦い続ける限り無敵なのだ、きっと。
学校に着いたときは放課後になっていた。山本先生は私たちを保健室に連れていって。
ベッドをふたつ並べたスペースを白いカーテンで囲み、日菜子と私は先生に向かい合って座った。
開いた窓から、肌を撫でる風と運動部のかけ声が入ってくる。
「それで、大丈夫なの?」
と、山本先生は私たちに聞いてきた。なぜ、とか、何があったの、とかは聞かれなかった。
日菜子が私を見た。私は先生に、はい、と答えた。
山本先生だけでなく、日菜子もほっとした顔をしていた。
「もしも、クラス内の問題だったら、相手の子と来年は同じクラスにならないように配慮することはできます。そのくらいしかできないんだけどね」
もう一度、日菜子が私を見る。
私は先生の発言がちょっと予想外で戸惑っていた。それは……私がイジメにあっている的な解釈をされた、ってことかな?
イジメなんだろうか。陰口を言われた──それは事実。明日から綾乃と顔を会わせるのは、やっぱり苦痛。二年生で確実にクラスが分かれるなら、その方がいい。でも、まだ六月で一年次は始まったばかり、どうせあと九か月は同じクラスで過ごすしかない。それに、配慮をしてもらうためには綾乃の名前を先生に告げなくちゃならない……。
そんな考えがさあっと頭の中を流れた。
「大丈夫です」
私は言った。
覚悟を決めよう。電車の中で日菜子と話した。──綾乃のしたことには気づいていないフリでやり過ごす。表面的なつきあいにする。綾乃とふたりだけでは遊ばない。困ったら、事情を知っている日菜子と結衣に助けてもらう。
となりで日菜子が私に向かってうなずいていた。サポートするよ、というように。
山本先生が微笑んだ。
「そういうことが必要なときもある年齢だけどね、そう何度も見逃せないよ?」
そういうこと? 見逃す?
「保護者の方には連絡しません。記録上は、ふたりとも病欠ということになっています」
山本先生は立ち上がり、私と日菜子の肩に手を置いた。
「帰っていいよ。悩みを相談できる友だちがいるのは、いいね」
ぐっと肩を握ってから、先生の手が離れる。それ以上は何も言わず、先生はカーテンの向こうへと去っていった。
拍子抜けした気持で、私は揺れるカーテンを眺めていた。私は先生に学校をサボった理由を問い詰められ、でも、理由なんか言えないから、長いお説教をされると予想していたのだ。
予想が大きく外れて、何と言っていいかわからない。
「……先生、ホントに『心配』をしていたんだね。大丈夫なら、帰っていいんだ……」
日菜子がため息まじりに呟いていた。山本先生の対応は、日菜子にも予想外だったみたいだ。先生が生徒をただ心配してくれる……。
帰ろう、と日菜子に促され、私たちは保健室を出た。
野球部の声が響くグラウンドの横を校門へと歩きながら、私は思いついたことを口にする。
「もしかしたら、山本先生も学校をサボったことがあるのかな。高校生のときに」
「あ、それ。私も思った」
日菜子が人差し指を立てる。
「詳しいこと、全然聞かなかったもんね。聞かなくてもこっちの気持ちがわかるのかな、自分もやったことがあるのかな、って思った」
そうか、日菜子もそう感じたのか。何だかうれしい。
「でも、高校時代の先生って想像がつかない」
「しわのある地味なメガネのおばさんだもんね」
「髪は黒いけど、きっと染めてるよね」
私たちは少しはしゃいだ調子で次々に失礼なことを口にする。
「でも、高校生のときは美人だったり」
「アリ! 地味だけど、清楚系美人」
「それそれ。で、友だち関係に悩むんだよ」
「恋愛にも?」
「実はヘッセを愛読していて?」
さらに勝手に想像を膨らませていると、ふわっ、とひとりの女子高校生の姿が私の胸に浮かんできた。──セーラー服に三つ編み。メガネをかけた地味な美人で、片手にはヘッセの文庫本。恋と友だち関係に悩んで、ある日、学校とは別の方角の電車に乗る。辿り着いたのは山奥の公園で、春なら咲き誇る花の中を、秋なら色づく葉の舞い落ちる中を、ひとり歩いて……あらら、ロマンティックな感じがするぞ。山本先生のイメージが変わりそう。
ただのおばさん先生だと思っていたけれど、おばさんになるまでには鮮やかに彩られた出来事がたくさんあって、その全部が色褪せずに心にしまってあるのかな。私の今日の出来事も、いつか、たくさんあったことのひとつになるのかな……。
綾乃は、しばらくしたら、多田の話をふって来なくなった。
「多田の好きな女って誰か、気になるよね」
なんて言われても、
「もうどうでもいいかな」
私が関心なさそうに応じたり、
「ねえ、次のTOIEC申し込む?」
「私は申し込むつもり」
日菜子や結衣が現実的な話題に切り替えてくれたりしているうちに、綾乃も私と多田のことに興味を失ったようだった。
そうだよね、多田に腹を立てているんじゃなくて、私が泣いたり悔しがったりするのが面白かったんだもんね。
ちょっとあっけないくらいだった。
そうして、綾乃は以前と変わらない調子で私に話しかけ、四人グループで行動するのだ。まるで、私の陰口をまき散らしていたことなんてすっかり忘れてしまったみたいに。
……もしかしたら、本当に忘れているのかもしれない。綾乃と一緒に盛り上がっていた中学の同級生たちも、今はすっかり別のことに興味を移しているのかもしれない。
日菜子が言っていたように、陰口なんてひとときの流行で過ぎてしまえば忘れてしまうものなんだろうか。──陰口を言った方は。
言われた私は、とてもショックだったのにな。言った方は、罪悪感もなく忘れて、また陰で誰かを嘲笑うのかな。
でも、しばらく経って気がついたことがある。
私の悪口で盛り上がっていたあのトーク、並んだアイコンは五種類か六種類だった。女子会には参加したけれど、悪口トークには参加していないコたちも確かにいたのだ。
そのコたちが私の味方だなんて単純に考えているわけじゃない。よーく思い出すと、そもそも陰口を言うこと自体が嫌いなコもいた。私と多田のことに興味がないコや、部活や勉強や自分の恋愛で忙しくて悪口にかまけているヒマがなかったコもいるだろう。
悪口トークが始まったのが、中学を卒業してみんなバラバラになったあとだったのは幸運だったかもしれない──ということだ。みんな新しい高校生活の方が忙しくて、大切で、悪口に参加させようとする無言の圧力もなかったのだ。
綾乃のしたことを許そうとか忘れようとか、そんなことは思わない。むしろ、覚えていようと思う。綾乃だけじゃなくて、他のコたちのことも、全部。
いろんな人がいるのだ。味方の顔をして陰口を広める人も、それに同調する人も、関心がない人も……そして、心配してくれる人も。私と学校をサボった日、日菜子は病気で朝が大変なのに早起きして駅で私を待っていてくれたんだ──ってことにも、あとになってやっと気づけた。
自分のことも、忘れない。女子に人気がある男子とつきあえて調子にのっていた自分のことも。カッコよくて優しいカレがいる自分に夢中になって、カレがどんなまなざしで自分を見ていたのかさえ思い出せない私自身のことを。
教室の多田を、私は見ないようにしようと思う。でも、気がつくと見てしまっていることがある。だって、私は多田に恋をしている。──ほかの女の子のことが好きな男の子に恋しちゃいけない理由は、ないよね? 見ているだけなら、多田にも、多田が好きな女の子にも迷惑じゃないよね?
日菜子に借りた『デミアン』の感想は、結衣の『難しい』がいちばん近かった。日菜子の『中二病も極めれば芸術になる』はきっと日菜子流の照れの混じった共感で、白鳥楓の『素敵』は素直な気持ちなんじゃないかな。
日菜子が好きだという『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ』という言葉には『生まれようと欲するものはひとつの世界を破壊しなければならない。鳥は、神に向かって飛ぶ』という続きがあった。
日菜子は『戦う』イメージで白鳥楓は『飛ぶ』イメージだなあ、と勝手なことを考える。本当のことを自分も傷つく覚悟で言ってくれる日菜子は『戦う』で、好きなことは好きと言って憧れの六度を空に飛び立つように弾く白鳥楓は『飛ぶ』──私、単純だね。
ちなみに、結衣は卵から抜け出ようと戦ったりしないで、卵はオムレツか何かで美味しくいただく感じ。ある意味最強かもしれない。
多田の視線の先には白鳥楓がいるように、やっぱり私には思える。
なんで白鳥楓? という疑問はもう湧かない。美人だから、カッコいいから、優しいから……そんなわかりやすい言葉で説明できるのは、きっと恋じゃないのだ。私が、今、多田を見つめてしまうのは、多田の姿かたちがカッコいいからじゃない。多田の周りに揺れる雰囲気みたいなものに心が引っ張られてしまうのだ。
八ヵ月もつきあったのに知らない男の子にひかれている。恋をしている男の子の表情に、きゅん、としている。彼が恋している相手は自分じゃないのに。
真凛が好きだった、と多田は言った。でも、多田がどんなまなざしで私を見ていたのか、私は思い出せない。私のことが好きだったときも、多田はあの青いまなざしで私を見ていたんだろうか。それとも、今のカノジョが多田にあのまなざしで女の子を見ることを教えたんだろうか。
梅雨が明け、夏休みに入る前、私ははじめてハンドボール部の練習を見た。
たまたまだ。とても暑い日だった。部活はなかった。授業を終えて日菜子たちと下校しようとしたのだけれど、駅までの道を歩く前に給水しておこうとしたら、水筒がなかった。あれ? とバッグの中をかき回して、タオルもないことに気がついた。
心当たりはあった。午後の体育の授業は体育館でバレーボールだった。水筒もタオルも持っていった。そのまま体育館に置き忘れてしまったのだろう。日菜子たちが待っていてくれると言ったので、急いで水筒を探しに体育館に走ったのだけれど。
忘れていた。放課後の体育館ではハンドボール部も活動する、ってこと。体育館といえば、バスケとバレーボールのイメージしかなかったのだ。
はじめて見たハンドボールは、サッカーのように激しくてバスケのようにスピードがあった。選手は素早いパスを回し、風のようなドリブルでコートを駆け、ゴール前で高く飛んだ。ボールを持った手を力強く後方にひいたシュート体勢はかっこよくて、一瞬、宙に静止して見えた。放たれた矢のようなシュートがネットに突き刺さる。あるいは、キーパーが反応よく出した脚にはじき返される。
体育館の入り口で足を止め、観たことのないスポーツを見つめていた。見つめながら、多田がハンドボールに転向することを話してくれたとき、ハンドボールがどんな競技か知ろうともしなかった自分を思い出していた。そんなマイナースポーツより、みんなが知っていてマンガの題材にもなるようなバスケを続けてくれた方がカッコいいのに……なんて思ったことも。
バカだったなあ、私。ハンドボールって、こんなにハードでカッコよかったんだ。転向の話をしてくれたとき、私が全然興味ない反応をして、多田はがっかりしただろうなあ。高校から新しい競技を始めることに不安もあったかもしれないのに、がんばってね、のひと言もなくて。
そんなカノジョ、ふられて当然だったなあ、って気持ちが胸にじわっと湧いてきて、私はハンドボール部の練習から視線を外した。
動き回る部員の中に多田を探そうとは思わなかった。みんなカッコよかったから、多田がその中のどのひとりだって、カッコいいのは間違いないのだ。
私の水筒とタオルは、入り口の扉のそばにまとめて置かれていた。タオルはきちんと畳まれていた。そんな小さな親切にも涙腺が緩みかけて、私は手に取ったタオルを顔に当てる。
漠然と、受け入れなきゃならない気がしていた。後悔も、胸の痛みも、思い通りにならないいろんなことも。




