【第2話】模倣する演算機
「新入幕、竹松。三日目で初黒星です。」
新入幕。竹松の快進撃は、三日目で止まった。
対戦相手は、三役常連の小結。
土俵に上がった瞬間、僕は窒息しそうになった。これまでの十両とは「空気の密度」が違う。彼らがまとうのは、積み上げられた稽古と伝統という名の、重厚な装甲。僕の必死な突き押しは、巨大なゴムの壁に吸い込まれるように無効化され、最後は喉を跳ね上げられて、無様に転がされた。
「……っ、はあ、はあ……」
支度部屋に戻っても、体の震えが止まらない。
強い。幕内の上位陣は、化け物だ。今の僕には、彼らを崩す「解答」が一つも見つからない。
逃げるように部屋へ帰り、自分の部屋へ入ろうとした時だった。
「――おい、村松」
背後から、あの、心臓を直接握りつぶすような声がした。
輝道だ。彼は薄暗い廊下で、スマホの画面を見つめたまま立っていた。
「……負けたよ。手も足も出なかった」
「見てたよ、ネットの速報。お前さ、あんな雑魚相手に何秒かけてんの? サーバーのタイムアウトかと思ったわ」
「雑魚って……あれは、小結だぞ」
「僕から見れば一緒だよ、あんなの」
輝道はスマホをポケットに放り込み、顎で「離れ」を指した。
「来いよ。今日の負け方のせいで、僕の昼寝が台無しになったんだ。お前で『口直し』させろ」
夜の裏庭。
竹松は疲労困憊の体で、再び砂の上に立った。輝道は相変わらずのジャージ姿だが、その佇まいが昼間の小結、あるいはそれ以上の威圧感を放っていることに気づき、僕は戦慄した。
「……今日はいい。もう、体力が……」
「うるさいな。黙って立てよ。……今から、お前を負かした『あの小結』をやってあげるからさ」
輝道が腰を落とした。
その瞬間、僕は目を疑った。
構え、首の角度、指先の開き方――それは先ほど僕を圧倒した小結そのものだった。いや、単なる模倣ではない。骨格レベルでその力士の「最適解」を抽出したような、純度の高い殺気。
「はっ!」
僕は反射的に当たった。
だが、返ってきた衝撃は昼間の比ではなかった。
輝道は、僕が今日受けた攻撃の「完全な再現」に加え、さらに鋭い角度で僕の重心を刈り取った。
「――っ、ぐあ!」
砂を噛む。喉が焼ける。
輝道は鼻を鳴らし、再び僕を立ち上がらせる。
「はい、次。今場所、お前が次に対戦する大関。動画で見たけど、あいつの右膝、バグってるよね。そこを突けばいいのに」
そう言うと、輝道は一瞬で立ち居振る舞いを変えた。
今度は、筋骨隆々の巨漢であるはずの大関の「重圧」が、ジャージ姿のニートの体から溢れ出す。
「な……んだ、それ……」
「模倣だよ。動画を倍速で見れば、筋肉の連動なんて一瞬で読み解けるでしょ。お前、本当に頭悪いよね」
何度も、何度も、僕は投げ飛ばされた。
小結、大関、そして――関脇。
輝道は、動画で一度見ただけの強者たちの「強さの核」を自らの体に憑依させ、僕を徹底的に粉砕していく。
「……輝道、お前……もし土俵に上がっていれば……」
泥まみれの僕が呟いた言葉に、輝道の目が初めて凍りついた。
「相撲? あんな汗臭くて、非効率な格闘技。誰がやるかよ」
彼は僕の胸を、小突くように強く突いた。
「僕は、お前という『検証機』を使って、僕の導き出した解が正しいか試してるだけ。……いいか、村松。明日の大関戦、右膝に潜り込め。角度は三十。覚えろ。一ミリでもズレたら、お前の頭は土俵に刺さるよ」
輝道は、まるでバグを修正するプログラマーのような冷淡さで言い放ち、離れへと戻っていった。
僕は一人、月明かりの下で震えていた。
僕が明日戦うのは、本物の大関ではない。
僕の中に、輝道によってインストールされた「絶望のシミュレーション」だ。




