【第1話】バグと怪物
「十両優勝、竹松。来場所は幕内昇進が濃厚です。」
館内に響き渡る拍手。賜杯の重み。インタビュアーの熱っぽい声。
「来場所は幕内確定ですね、おめでとうございます!」
僕は泥のように疲れ切った顔で、カメラに向かって愛想笑いを浮かべた。世間は僕を「努力の天才」と呼ぶ。だが、僕の心にあるのは達成感ではない。ただ一つの、どす黒い恐怖だけだ。
――早く帰らなきゃ。アイツの「機嫌」が悪くなる前に。
祝宴を中途半端に抜け出し、部屋の奥、日当たりの悪い離れへと急ぐ。
扉を開けた瞬間、スナック菓子の油っこい臭いと、数台のモニターが発する不機嫌な電子音が僕を刺した。
「……遅いんだけど。何分待たせるわけ?」
部屋の中央、散乱したコンビニ弁当の容器に囲まれて、輝道がコントローラーを床に叩きつけた。親方の息子。26歳。就労経験ゼロ。回しも締めず、ただ一日中ネットの海を回遊しているこの部屋の「ごくつぶし」。
「悪い、表が騒がしくて……」
「優勝だかなんだか知らないけどさ、そんなの僕に関係ないよね? それより見てよ、このガチャ。5万突っ込んで爆死。ありえないでしょ、この確率操作」
輝道はぎらついた目で僕を睨みつけた。その眼光は、どんなベテラン力士よりも鋭く、残酷だ。彼は立ち上がり、ジャージ姿のまま僕の胸ぐらを掴んだ。
「イライラするんだよ。……おい、村松。庭に出ろ」
「……僕は竹松だ」
「どっちでもいいよ、そんなこと。ほら、早くしろ」
夜の稽古場。
輝道は準備運動すらしない。ジャージのポケットに手を突っ込んだまま、あくびを漏らした。
「ほら、当たってきなよ。ガチャの引きが悪かった分、お前で『当たり』を引かせてよ」
僕は返事もできず、砂を踏んだ。
十両優勝? 幕内昇進? そんな肩書き、この怪物の前では何のプロテクトにもならない。
「はっ!」
僕の渾身の立ち合い。
だが、輝道の体は岩のように動かない。それどころか、彼は僕の力を利用し、呼吸を合わせるようにして、僕の首を無造作に掴み上げた。
「――がっ、あ……っ!」
そのまま、土俵の外まで放り投げられる。
受け身も取れず、僕は壁に激突した。背骨が悲鳴を上げる。
「何その動き。教科書通りすぎて反吐が出る。お前、相撲やってるんじゃなくて、ただの『処理』をしてるだけだよね。つまんないんだよ。もっと僕を楽しませてよ。ねえ、村松?」
輝道は地面に這いつくばる僕に歩み寄り、そのスキンヘッドを足蹴にした。
そこに「教え」や「導き」など微塵もない。あるのは、有り余る才能を、単なる八つ当たりとして浪費する暴力の快楽だけだ。
僕は強くない。この「ごくつぶし」が、ゲームに負けるたびに僕を呼び出しては、その圧倒的なセンスで僕を「破壊」し続けてきた。その破壊に耐えるためだけに、僕の体は異常な進化を遂げたに過ぎない。
泥まみれの僕を見下ろし、輝道は鼻を鳴らした。
「あー、少しスッキリした。……あ、そうだ。来場所から幕内なんだって? 親父が喜んでたよ」
彼は離れに戻り際、振り返ることもなく言い捨てた。
「おめでとう。ようやく『横綱』っていう、最高級のバグに出会えるね。……ま、せいぜい派手にクラッシュしてよ。その方が、見てる分には面白いからさ」




