第4章
だが、その高揚した美術室の空気に、突如として重い声が響いた。
「それは、やめてください」
鈴香が振り返ると、学園の美術教師である片桐が美術室の入口に立ち塞がっていた。普段の柔らかな笑顔は消え、顔色は青白い。手には何も持たず、肩はわずかに震えている。
「お金で証拠を揃えるのは……間違っています」
静かだが切実な声音に、鈴香の心は一瞬で凍りついた。
窓から差し込む夕日が、床の上に散乱した絵具の上で赤く反射する。その鮮やかな色彩が、まるで鈴香の胸中の動揺を象徴しているかのように見えた。
「ど、どうして……? 事件を解決するためには必要でしょう?」
鈴香は戸惑いと不安をにじませ、眉を寄せた。
美術教師は深く息を吐き、視線を床に落とす。
「お金は……人を幸せにするものではありません。むしろ大切なものを見えなくさせることがあります。……私は、それを痛いほど知っているんです」
鈴香の脳裏には、以前の事件を金の力で解決してしまった記憶がよみがえる。理想の探偵像と現実との乖離。そして今、目の前で訴える教師の静かな拒絶……。
(……また「お金の力」で解決するのかって、責められてる……)
胸の奥がぎゅっと縮こまり、息が詰まりそうになる。唇は震え、言葉が出てこない。
(わたしのやり方は間違っているの……?)
その横で、颯太がそっと鈴香の肩に手を置いた。
「落ち着け」
颯太がささやく声は低く、耳元にそっと響く。
「ここは一旦引こう。オレに任せておけ」
「……颯太……」
鈴香はその声に驚くとともに、自分の心が癒されるように落ち着くのがわかった。
颯太は美術教師の方に向き直った。
「わかりました。神戸さんの実家の力を借りて証拠を集めるようなことはしません。安心してください」
その言葉に、教師の口元がわずかに緩んだ。しかし、それは安堵というよりも、どこか引きつった笑みに見えた。
鈴香はその表情を凝視する。穏やかな顔の奥に、迷いの影が揺れている。震える指先、逸らす視線――それらは、断固たる拒絶ではなく、内なる葛藤の現れのように思えた。
(……事件の調査を恐れている……?)
教師は何かを隠している――そう鈴香は直感する。それでも教師と生徒という立場を利用して単純に命令することの正当性を疑い、葛藤しているのだろう。
「そもそも……部屋は荒らされましたが……何も盗られてはいないんです」
教師は感情を抑えた声で告げる。だがその声はわずかにかすれており、喉を通るたびに小さく詰まっていた。
「体調が……すぐれないので、まだ……片付けはできていないんですが、主なものは……無事です」
窓から差し込む午後の光が、乱雑に散らばった画材や破れたスケッチブックを照らし出す。まるで現場の混乱そのものが、教師の心の迷いを象徴しているようだった。
教師はしばらく立ち尽くした後、肩の力を抜き、低く息を吐いた。
「なので、下手に騒ぎ立てるのではなく、そっとしておいてもらえると助かります」
そう言いながら、机上の画材に触れる手を途中で止め、指先をわずかに握り締めた。
鈴香はその仕草に注意をひきつけられた。そのすべてを読み取れるわけではない。ただ、迷い、躊躇い、そして一抹の疲労を帯びた雰囲気が伝わってきた。
(……拒んでいるだけじゃない。むしろ助けを求めている……?)
その可能性にたどり着いたとき、颯太が静かに教師に声をかけた。
「本当に顔色が優れませんね。片桐先生は保健室で少し休んできてください。ここはオレたちが片付けておきます」
美術教師は驚いたように目を見開いたが、やがて力なく微笑み、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。すみませんが、少し失礼します」
扉が閉まると、美術室に静寂が戻った。
絵具の匂いと油彩の残り香が混じり合った空気、床ににじむ夕日の赤、美術室そのものが絵具で染まったようだった。
鈴香は重い息を吐き、颯太を見つめる。先ほどの教師の言葉が胸の奥で反響している。
一連の教師の言葉には、何かがにじみ出ていた。教師が長年抱え込んでいた、いや、今も抱え込んでいるに違いない何かが――。
「どうして……ああ言ったの?」
かすれた声で颯太に問いかける。
颯太は少し間を置いてから、鈴香を励ますように軽く微笑んで、全員を見渡す。
その笑みは、単なる気休めではなく「これから進む道がある」という確信を帯びているようだった。
「一旦仕切り直しだ。今わかっていることを整理しようか」
彼の言葉で、教室に充満していた重苦しい空気が大きく流れた。颯太は指折り数えるようにして言葉を重ねる。
「今わかっているのは――
・美術室に泥棒が侵入した
・片桐先生は、事件の調査を拒否している
の二つで、さらに推測できるのは――
・片桐先生は、高名な画家の弟子
・泥棒もその関係者で、先生とも関わりがある
そして先生の説明では、
・部屋は荒らされたが、何も盗まれていない
というところかな」
静かな口調ではあったが、その一つひとつが鈴香の胸に重みをもって響いた。その言葉を聞きながら、先ほど自分の胸に去来した違和感を無視することはできなかった。
「……そうね。でも、わたしには別の印象もあるの。先生は単に調査を拒んでいるんじゃなくて、何かを隠しているように見えたの」
思い切って言葉にした瞬間、教室の中の空気がまた張り詰める。全員が鈴香の直感を軽んじることなく受け止めているのを感じた。




