第9話:地面師の罠(前編)
「その土地は、すでにウチが買いましたよ」
そう言って目の前に現れた男は、スーツに身を包み、涼しげな笑顔を浮かべていた。だが、ヒロさんの背中には、じわりと冷たい汗が流れていた。
その土地――駅近の再開発エリアの一角にある古い空き家。ヒロさんは、すでに持ち主と交渉を進めており、買収の目処も立っていた。
「確認ですが、所有者は......佐原文治さん、でよろしいですか?」
男はうなずき、鞄から登記簿の写しを出した。確かにそこには「佐原文治」の名前が記されている。印鑑証明も添付されていた。
「間違いありません。私どもが買主として手続きに入っています。そちらが接触していたのは、別人では?」
ヒロさんは書類を受け取りながら、違和感を覚えた。紙は新しい。印影は正しい。だが――あまりに整いすぎている。
「どこかで見たことある手口だな……」
夕方、事務所に戻ったヒロさんは、白井律子司法書士に連絡を入れた。
「地面師かもしれない。登記は正しいが、流れが妙なんだ。本人確認書類も、あれは……危なすぎるほど綺麗だった」
「分かった。明日、法務局で動き見てみる。登記移転のタイミングと過去の書類も確認しましょう」
一方、橘はネット検索で同一の名前が複数の住所で登記されている事実を発見していた。
「ヒロさん、“佐原文治”って名義、ここ3ヶ月で4件も動いてます。しかも全部違う地番。しかも、全員“立ち合い不要”で登記されてる」
ヒロさんは目を細めた。
「完全に……やられてるな。これは、あの時と同じ手口だ」
ヒロさんの脳裏に、過去に担当した案件の記憶がよぎった。書類は完璧、登記は合法、なのに――すべてが偽りだった、あの悪夢。
今度こそ、逃さない。ヒロさんは、静かに立ち上がった。
地面師とは、他人の土地を自分のものとして偽って売る詐欺師たちのことです。
かつては登記制度の隙を突いた悪質な犯罪として、実際に多くの事件が発生しました。現在では本人確認の厳格化などで対策は進んでいますが、それでも100%防げるわけではありません。
不動産業に携わっていると、「こんなこと、まだあるんだ」と思うような出来事に出くわすこともあります。
今回から3話構成で、そうした"仕掛けられた罠"とヒロさんの対峙を描きます。
本当に守るべきものは、書類ではなく、信頼と誠意なのだと――そんな思いで書いています。
登記簿と本人確認書類がすべて整っている中、ヒロさんは“偽物の中の真実”を探しに動き出す。
白井司法書士の協力のもと、登記の時系列に潜む矛盾を掘り起こし、橘が掴んだ情報から、ヒロさんはある重大な事実にたどり着く。
次回、『地上げ屋ヒロさん』第10話――地面師の罠(中編)。
すべてが整っているほど、逆に怪しい。真実は、どこに隠れているのか。