第5話:再開発と猫
「ヒロさん、ここ……中に人、住んでないんですよ」
若手の橘が小声で言った。
駅近くの古びたアパート。その2階の一室に、立ち退き交渉の通知を出したが、住人は応答しなかった。
郵便受けにはチラシがたまり、洗濯ロープには色あせたタオルが干されたままだった。
「一人暮らしの高齢者。安否確認も含めて、まずは会ってみないとな」
ヒロさんは、周囲の目を気にしながら玄関のチャイムを鳴らした。
すると――
「ニャー」
中からかすれた猫の鳴き声が返ってきた。
「……猫?」
チャイムを鳴らしても、人の気配はない。だが、網戸越しに猫が一匹、ヒロさんたちを見つめていた。
その翌日。ヒロさんは再びアパートを訪ね、管理人に事情を説明。
ようやく姿を見せたのは、痩せた小柄な老人だった。
「立ち退きの話は、わかってるよ。でも……この子が、どこにも行けなくなっちまってねぇ」
老人は猫を抱き上げながら、申し訳なさそうに言った。
「名前は、ミーコ。5年前に迷い込んできた子でね。
誰にも懐かないけど、俺の布団には勝手に入ってくる。変な猫だよ」
その声には、どこか温かさと寂しさが混ざっていた。
「施設には行けても、この子は連れていけないって……そう言われちまってね」
「引き取り先は?」
「いない。娘もいるけど、遠くに嫁いで、動物は無理だってさ。
俺がいなくなったら、この子は、どこで寝るのかな……」
ヒロさんはしばらく沈黙し、ふと、上を見た。
「実は、新しい開発ビルの一角に、“ペット同居可能な賃貸”の枠があるんです。
都市型高齢者住宅と組み合わせる予定で、希望者を優先案内できる。そこなら、ミーコも一緒に暮らせます」
「……そんな都合のいい話、あるのかい?」
「交渉屋は、都合のいい話を本当にするのが仕事です。
ただし、時間はかかります。引っ越しまでに準備しますから、少しだけ信じてみませんか」
老人は、膝の上のミーコを撫でながら、小さく笑った。
「じゃあ、信じてみるよ。……こいつも、それがいいって言ってる気がする」
***
数ヶ月後。
再開発の工事が始まった現場のすぐ隣。
小さなベランダで、日向ぼっこをしている猫が一匹。
その隣には、新聞を読む老人の姿。
街が変わっても、そこに暮らす命が、ひっそりと灯っている。
ヒロさんは現場の前に立ち、ミーコに軽く手を振った。
「おまえも、住人だもんな」
風が通り抜ける春の午後だった。
あとがき 〜第5話「再開発と猫」を終えて〜
地上げや再開発の現場では、「住人の権利」と同時に、時に“人ならざる存在”も関係してきます。
ペット、地域猫、野良犬――それらもまた、その土地で暮らしていた“命”です。
今回の話は、ある空き家で猫の糞害が問題になったとき、
「でもこの子、10年この家で暮らしてるんだよ」と、近所のおばあさんが言った言葉が元になっています。
ヒロさんがやったことは、法的には必要なことではないかもしれません。
でも、「必要ないことに手をかけられるか」が、地上げ屋の品格だと私は思っています。
あなたの街にも、静かに“住んでいる”命がいるかもしれませんね。
――作者(地上げ屋ではありませんが、不動産の現場から見えた“街と人のドラマ”を物語にしました)
第6話「看板は残してくれ」
立ち退きを迫られた昭和から続く理髪店。
「もう辞めてもいい。でも、この“看板”だけは……残してくれませんか」
ヒロさんが向き合うのは、ひとつの店とひとつの名前の“誇り”の物語。