第4話:息子は帰らない
「息子さん、やはり連絡はつきませんか?」
ヒロさんの問いに、目の前の老婦人は首を横に振った。
古い平屋の玄関先に、風に揺れる洗濯物。だがそれは、もう何年も前に止まった時間の証だった。
「もう10年になるわ。あの子、東京には戻ってこないの」
家主の名は、藤井トミエ。80歳を越えた、気丈な女性。
息子・克也が家を出たのは30代のころ。以来、年賀状一枚すら届かない。
家は古く、屋根の一部はすでに崩れかけていた。
だが、再開発区域の中心に位置しており、どうしても避けて通れない土地だった。
「トミエさん、差し支えなければお伺いします。息子さんは、この家の相続を放棄されたと…?」
「ええ。弁護士を通して連絡が来たの。“関わりたくない”って。ただそれだけ」
静かな口調に、滲むものがあった。
ヒロさんは、そっと視線を落とす。
親が子を想い、子が親を遠ざける。現場で何度も見てきた光景だ。
「でも私はね、この家が嫌いじゃないの。夫と暮らして、克也を育てて……良いことばかりじゃなかったけど、それでもここで生きてきたの」
ヒロさんは、ポケットから書類を取り出した。
そこには“特定空き家認定”に関する資料があった。
「もし、息子さんが相続放棄しているとなると、この土地は法的に“管理不在”となります。
このまま老朽化が進めば、行政代執行の可能性も出てきます」
「それは……壊されるってこと?」
「はい。しかも強制的に。けれど――私となら、違う選択肢が取れます」
トミエの目が細められる。
「選択肢?」
「この土地を“未来の街づくり”に引き継ぐ。
あなたが、最後にこの家にできる“役目”を与えるという形で」
ヒロさんの言葉に、トミエは小さく肩を落とした。
「役目ねえ……こんな家に、まだ何かできることがあるのかしら」
「ありますよ。駅前の再開発には、地域の記憶を残す“交流スペース”が必要です。
この家の間取りを一部再現することで、“昔の暮らし体験コーナー”を作ろうという話もある」
「……克也、喜ぶかしら」
「わかりません。でも、記憶っていうのは、思い出せなくても誰かが覚えている限り、生き続けるものです」
しばしの沈黙。
トミエは、ふと、奥の仏間へと視線を向けた。
そこには、若かりし頃の家族写真が並んでいた。
「だったら…お願いするわ。せめてこの家が、誰かの役に立つなら」
ヒロさんは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に扱わせていただきます」
***
再開発の計画書には、新たに「藤井家展示スペース」という名が加えられた。
畳のにおい、ちゃぶ台、柱の傷――それらは、もう誰も住まない家に残された“人生の痕跡”だった。
克也からの返事は、結局届かなかった。
だがヒロさんは、ふと考えた。
――帰らなくても、誰かが“帰れる場所”を覚えているなら、それでいいのかもしれない。
静かな陽射しが、取り壊し前の家に差し込んでいた。
あとがき 〜第4話「息子は帰らない」を終えて〜
「相続放棄された土地」――
不動産の現場では、ここ数年で急増している問題の一つです。
誰も住まなくなった実家、連絡の取れない子ども、管理されない空き家。
法的な整備が進んでも、最後に残るのは“気持ちの行き場のなさ”です。
この話のモデルになったのも、ある実在する空き家の相談でした。
法的には“誰のものでもない”。けれど、想いがゼロかというと、そうではない。
むしろ、残された側が背負っている想いが強すぎて、処分に踏み切れない――そんなケースも多いのです。
ヒロさんが提案した「家の記憶を街に残す」方法は、実際に行政主導のプロジェクトでも採用されたことがあります。
土地は壊れても、記憶は形を変えて生きていける。
そう信じて、僕は今日も現場に立っています。
読んでくださったあなたが、自分の“帰る場所”をふと想い出してくれたら――
それが何よりの喜びです。
――作者(地上げ屋ではありませんが、不動産の現場から見えた“街と人のドラマ”を物語にしました)