番外編:橘、走る 〜ヒロさんのいない交渉〜
「ヒロさん、今日の視察、俺ひとりで行ってきていいですか?」
事務所の朝。橘が少し緊張した面持ちで言った。
「いいけど、何かあったのか?」
「いえ。ちょっと……練習です。ヒロさんがいなくても動けるようになりたいので」
ヒロさんは小さく笑った。
「いい心がけだ。やってみな」
***
橘が訪れたのは、小さな木造の一軒家。
老夫婦が暮らしており、再開発に伴う移転が提案されていたが、返事が保留になっていた。
玄関先で名刺を差し出す。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。再開発に関する件でお話を……」
老夫婦は、穏やかだがどこか遠い目をしていた。
「うちはな、この家を建てたときから、庭の桜を楽しみに暮らしてきたんです」
橘は、メモ帳を取り出しかけて、ふと止めた。
「……その桜、今年も咲いてますか?」
「ええ、咲いてますとも。あれを見ると、主人と若い頃に戻れる気がしてね」
橘は、メモを取るのをやめて言った。
「再開発の話は、すぐに結論を出す必要はありません。今日は、“お話を聞かせていただく日”ということで……いいでしょうか」
老夫婦は目を見合わせ、ふっと笑った。
「それなら、桜の下で話しましょうか」
***
その夜、事務所に戻った橘がヒロさんに報告する。
「今日は……交渉、じゃなくて、“会話”をしてきました」
ヒロさんはうなずいた。
「それが、たぶん正解だ」
橘は、嬉しさと少しの誇らしさを隠すように、椅子に腰を下ろした。
ヒロさんのいない交渉は、まだ不安が多い。
けれど今日、橘はひとつ、“気持ちに向き合う”という仕事の本質を、自分の足で感じたのだった。
番外編第1弾は、橘の視点からヒロさんの仕事を見つめ直すエピソードをお届けしました。
いつか、橘もまた“誰かの記憶を守る交渉人”になる日が来るのかもしれません。
次回は、別のキャラクターの視点から、小さな土地の物語をお届けします。