第10話:地面師の罠(中編)
白井律子司法書士の事務所には、午前からヒロさんと橘の姿があった。
「こちらが問題の登記移転申請書の写し。念のため原本の閲覧も申請しておいたわ」
律子が机の上に広げた資料には、佐原文治の署名と印影。印鑑証明書も形式上は揃っている。
「でもね、この署名……やっぱり妙なのよ。過去の登記書類と比べて、筆圧の癖が違う。字の揺れがほとんどない。おそらく、筆跡をなぞって書いた可能性が高いわ」
「スキャナとペンプロッタを使えば、理論上は正確に模写できますからね」
橘が頷く。
ヒロさんは黙って、別の書類を手に取った。
「この住所、登記上の通知先になってるけど……」
「そこ、私も調べたけど、今は空き家よ。しかも、過去に一度だけ詐欺被害の通報が入った記録がある。もう5年以上も前の話だけど」
ヒロさんの視線が鋭くなる。
「完全に狙ってやってるな……」
その日の午後、ヒロさんと橘は、登記の通知先住所に足を運んだ。
空き家の前には雑草が生い茂り、ポストには古いチラシがぎっしり詰まっている。
「この家、何年も放置されてる感じですね……誰も住んでる気配がない」
橘の言葉に、ヒロさんは無言でうなずいた。
周囲に人気はなく、扉には南京錠がかかっていた。だが、その横には何枚かの書類の剥がし跡が残っていた。
「登記関係の書類を、ここで一時的に受け取った可能性がある」
ヒロさんはメモを取りながら、つぶやいた。
その晩、律子から連絡が入る。
「ヒロさん、追加で確認したわ。登記申請時に添付されていた印鑑証明書、その発行元が“住所地ではなく、第三者の申請”で出されていた記録があるの」
「第三者……つまり、代理人?」
「そう。でも代理人欄に名前がなく、明らかにおかしいわ。これ、実際は役所の窓口で本人確認の抜けがあったんだと思う」
ヒロさんは深く息を吐いた。
「律子さん、それ、記録として押さえておいてくれ。次で確定を取りに行く」
「どこへ?」
「前にも“佐原文治”名義で売買された物件の、隣人に話を聞きに行く。もしあの時と同じなら――今回の“文治”も、生きてないかもしれない」
ヒロさんの言葉に、橘も目を見張った。
「……まさか、亡くなってる人間を使って登記したってことですか?」
「地面師がやるのは、そういうことだ」
すべてが整っているほど、逆に怪しい。
そのときヒロさんは確信していた。
この土地の裏には、“誰かが仕組んだ嘘”がある。
そして、その嘘の先には、かつて彼が追い詰めきれなかったあの男の影があった。
地面師事件の怖さは、「法的に整っているように見える」という点にあります。
印鑑証明、登記簿、書類のすべてが一見“正しい”。けれどその正しさが、逆に“作られた正しさ”である場合。
これは現場でしか見抜けない違和感であり、実務を通じてしか掴めない“匂い”のようなものです。
今回の中編では、そうした矛盾と隠された違法性が少しずつ浮かび上がる過程を描きました。
次回はいよいよ、この罠の黒幕と、ヒロさんがなぜ過去の地面師を追いきれなかったのか。その真相に迫ります。
【次回予告】
隣人が語る、既に亡くなっていた“佐原文治”の存在。
そして、背後に浮かび上がる地面師グループの中心人物。
ヒロさんは過去の失敗を越えて、今度こそ土地を、街を守れるのか。
次回『地上げ屋ヒロさん』第11話――地面師の罠(後編)。
決着のとき、迫る。