地上げ屋ヒロさん
「ここ、もう少しで駅前再開発の対象エリアになるんですよ。固定資産税も跳ね上がるって話で…」
ヒロさんが静かに切り出すと、目の前の老婦人は少し眉をひそめた。
「でもね、ここは主人との思い出の家なんです。簡単に手放せるもんじゃありませんよ」
東京下町、築50年超の木造平屋。駅から徒歩10分、すでに周囲の建物は更地になり、高層マンションの影が射している。
ここだけがぽつんと取り残された、時間の止まった家。
地上げ屋、広瀬宏典――通称ヒロさん。業界歴25年、不動産デベロッパーから独立して10年目になる。表向きは「街づくりコンサルタント」。だが実際の仕事は、地上げ、交渉、根回し、そしてときに――駆け引きだ。
「奥さん、無理にとは言いません。ただ…隣の三宅さんも、先週にはもう仮契約に入ってますよ」
ヒロさんは、ポケットから一枚の地図を広げた。赤く塗られた土地の中に、ぽつりと浮かぶ未取得地――それがこの家だった。
老婦人――松井房江さんは、地図を一瞥した後、ふうっと深いため息をついた。
「あなたのような人が何人も来ましたよ。地価が上がるから売れ、と。うちのようなボロ家がねぇ…そんなに金になるんですか?」
「なりますよ。だからこそ我々が動くんです」
ヒロさんは即答する。嘘はつかない。それが自分の流儀だ。
「けど、なにより私は……人の思い出を踏みにじるのが嫌いなんです」
一瞬、老婦人の目にわずかな驚きが走った。
「地上げ屋がそんなこと言うの?」
「地上げ屋だからこそ、言うんです」
ヒロさんはこの家をもう10回以上訪れている。松井さんにとって、もはや顔なじみだ。庭の柿の木、軒先の風鈴、仏壇の写真――それらすべてが、この土地に根を張っている。
「だからこそ、あなたに損はさせません。再開発完了後、駅前の商業ビルに優先的にテナントを持てる権利も用意しています。息子さん、ご商売されてたんでしたよね?」
その言葉に、松井さんは目を細めた。
「よく調べてるのね」
「仕事ですから」
ヒロさんは静かに頭を下げた。
数秒の沈黙。やがて、松井さんが口を開いた。
「あなたね、本当にこの街のことを考えてる?」
「考えてます。この街が変わるのは避けられません。ただ、どう変わるかは、私たちが決められる」
「人が減ったこの商店街が、また賑わうとでも?」
「変わり方によります。年配の方にも優しい設計をしたいと、設計事務所にも伝えてます。バリアフリー、休憩スペース、診療所の誘致。単なるマンション街にはしません」
「そこまで言う人は初めてね……」
松井さんは立ち上がり、仏壇の前で手を合わせた。
「あなた、明日また来てくれる?」
「もちろんです。いつでも、何度でも」
***
ヒロさんがこの世界に入ったのは、不動産業界の最前線で数字ばかりを追っていた自分に嫌気がさしたからだった。
"この家を壊して、いくらになるか"――そんな計算よりも、"この家が何を守ってきたか"を感じたくなった。
だから、ヒロさんのやり方は時間がかかる。効率的ではない。だが、心を置き去りにした再開発に、未来はないと信じていた。
三ヶ月後。再び訪れたその土地は、静かに取り壊されていた。柿の木は、市の保存対象として別の公園に移植されることになっていた。
ヒロさんは、その更地の前で小さくつぶやいた。
「ありがとう。いい街にするよ、約束する」
その声は誰にも届かない。
だが、確かにそこに生きていた暮らしへの、ヒロさんなりの礼だった。
あとがき 〜エピソード1を終えて〜
この物語を読んでくださり、ありがとうございます。
地上げと聞くと、多くの方が「強引」「冷たい」「カネで動かす」といったイメージを持たれるかもしれません。
実際、過去にはそういう手法が横行していた時代も確かにありました。
でも、現場に立つと分かるんです。
一軒一軒の家に、それぞれの「物語」がある。
たった6坪の土地に、家族の記憶や人生そのものが詰まっている。
それを“価格”だけで測ることに、私自身、疑問を持つようになりました。
ヒロさんというキャラクターは、そんな葛藤の中で生まれました。
プロとしての視点と、人としての情。
「街を変えること」は時代の流れですが、「想いを置き去りにしないこと」もまた、私たちにできる大切な仕事だと思っています。
地上げ屋という仕事は、ただの交渉屋ではありません。
ときにカウンセラーであり、通訳であり、証人でもある。
このシリーズを通して、「知られざる地上げのリアル」と「街の奥深さ」を少しでも伝えられたら嬉しいです。
次回は、古びた駄菓子屋の店主とのやり取りを描きます。
「売ることは負けじゃない」――そんな言葉を、ヒロさんがどう伝えるのか。
よければ、またお付き合いください。
――作者(地上げ屋ではありませんが、不動産の現場から見えた“街と人のドラマ”を物語にしました)