魔界喪失
ひび割れた大地の上には、二つの影が映し出されていた。
つい先程まで、この場所に魔王城から建っていたと言っても、もう誰も信じてはくれないだろう。
「フンッ……実にくだらんわ」
自分の足元に投げ転がされた『予言書』を拾い上げ、それに導かれるまま開いたページの文章を一瞥すると、アグレスは静かにそんな言葉だけを投げ捨てたのだった。
それに対して、彼から数メートル離れた場所に立つ一人の青年は、魔王である彼にこんな言葉をぶつける。
「魔王アグレスッ!今日で魔族の時代も終わりだ!!」
アグレスを睨みつける青年は、会話する際も当然ながら、剣の矛先をしっかりと、彼の首の方向へと向けていた。輝く銀色の鎧で纏われた身体は、全身どの部位を観ても鍛え上げられていることがわかる。そして、それに加え、溢れんばかりの魔力が、この空間一帯に放出されているのも肌で感じ取られる。
この青年こそまさしく──、
「勇者か……」
「……そうだ。今生き残っている魔族も、もうお前一人だ!!大人しく、神託に従い、これまでの罪をその身を持って償ってもらおぞ、魔王!!!!」
勇者はアグレスと対峙しているこの瞬間、まだ一度足りとも魔力の流れも解いていない。溢れんばかりの殺意が籠った矛先も、アグレスに向けられたままだ。おまけに、アグレスに向けられた憎悪によって見開かれた、今も睨みつけているあの力強い眼に瞬きすることすらも許していなかった。
「神託……神が、そうか……」
アグレスは勇者のそんな様子と、神による『予言書』に、ようやく恐れをなしたのか、弱々しく俯きながらそう呟いた。
(流石の魔王もこれまでだな……遂に勝ったんだ、我々は魔族に……)
絶望し、戦意喪失状態のアグレスを勇者はしばらくじっと見つめた。
そして──、
「トドメだ!!聖剣アルフエルダーよ、魔王を塵一つ残さずに消し去れッ!!!!」
勇者は、これまで空間全体に広げていた魔力の全てを回収し、剣に力を取り込ませる。
それまで勇者の顔を映していた剣は、七色に光出してアグレスを目掛け、力が込められていく。
「これで終わりだ!!魔王アグレス!!!!」
勇者が剣から放った光は、アグレスを呑み込みんだ。
そして、途切れ途切れに瞳に映っていた黒い影も完全に消えていき、魔族は完全に滅んだ。
そのはずだった──。
(あまりにも手応えがなさ過ぎたな……)
果たして、これが本当に、かの恐れられた魔王の最期だったのだろうか。
(まさか、な……)
いくらなんでも、この聖剣を喰らって生きているはずがない。現に勇者である自分は魔王アグレスが消え去る瞬間を、この眼に焼き付けている程、集中して彼の動きだけを直視していた。
そう。だから──、
「これで、魔族は全員死し──」
この魔族と人間との戦いを、ようやく人間側による大団円へ終結させた。その事実を声を出してしっかりと言い切ろうとしたその時だった。
でも、何かがおかしい。
反射的に勇者の脳裏に、そう過ぎった。
(なんだ、この違和感は……)
勇者の直感はやはり正しかった。だが、時すでに遅し──。
何故なら、これで、全ては魔王アグレスの思い通りとなったのだから。
〈──聞こえるか?愚かな人間とくだらん神よ!!〉
(脳内に直接響き渡ってくる声……そんな……)
勇者の頭の中を抉り込むように入ってくる刃物よりも鋭く恐ろしい声。その主は、紛れもなく、先程滅ぼしたはずの魔王アグレスの声であった。
「何故、聖剣を喰らっても、まだ生きているんだ……!?」
勇者は唇を噛み締め、周囲三百六十度に全神経を傾けながら、また新たに剣を構える。
何処から襲ってくるかはわからないが、戦闘力、魔力量は共にこちらの方が一枚も二枚も上手。
しぐじってしまったのなら、もう一度倒せてば良いだけのことだ。
勇者の自分には、人類には滅びた魔族と違って、神の加護まで付いている。
だから、アグレスが何度立ち上がっても、人類の勝利は揺るぐはずがない……そのはずだったのに──。
(全然、気配がない……)
勇者の冷汗が地面に落ちた瞬間、また脳内にアグレスの声が響き渡った。
〈安心せよ、我は死んでいるぞ〉
アグレス本人の声で「自分は死んでいる」と言う言葉を聞くことが出来た。
だが、その言葉はこの世で最も信の置けない者の声だ。
死んでいると油断させ、こちらの隙を狙っている可能性が高い。
勇者はとにかく、警戒心を解かなかった。そんな彼の姿を観てか、アグレスは静かに種明かしを始めた。
〈まだ、我の言葉を信じておらぬようだな〉
「当たり前だ!早く出て来い!!次こそ倒す!!!!」
〈我の魂はもう既に、三千年後の世界にある──〉
「なっ……」
(まさか、転生の秘術を……)
〈どうやら、気付いたようだな〉
「この声も、時の念話の力で三千年後の世界から、俺には語り掛けているということか……」
〈その通りだ〉
勇者の悪い勘は当たっていたのだ。あの時、倒した魔王は幾千年もの間恐れられた者とは思えぬ程の手応えの無さだった。
それもそのはず。彼は全魔力を転生の秘術のために注いでいたからだ。それを勇者の自分に悟られぬようにするため、さも諦め、敗北を認めたような演技をしていたのだ。
(こんなことにすら気づけなかったとは……)
こんな自分が情けない。相手の魔法ではなく、自分は知恵比べで負け、古典的なやり方にまんまと騙されたのだ。あの時、転生の秘術に気づいていたら、自分の魔力を時の流れに割り込ませて、防ぐことが出来た。しかし、もう転生が成功してしまった後では時の流れに入り込んだとしても意味がない。
やられた。完全に魔王アグレスにしてやられたのだ。
勇者の心は『絶望』の二文字が刻まれている。きっと顔や態度にもこの感情が出てしまっていることだろう。この心が捻りちぎられた思いを隠し通す術は勇者の自分でも持っていないのだから。
しかし、勇者が本当の絶望を味わうのはこれからだった。
アグレスはゆっくりと口を開いた。
そして、足が震え、今にも全身で地面を叩きつけそうになっている勇者に、ゆっくりと呪いかけるように、こんなことを話し始めたのだ。
〈それと、全人類から、魔法に関する記憶を抹消することにも成功した──〉
勇者に投げ掛けたその言葉は、彼を絶望させるのに、余りに十分過ぎた。
「……ッ!!!!」
そう。アグレスは自分が魔王の座に着いた時から、一日も欠かさず、これまでの人間の記憶を消すために、呪いの水晶玉に魔力を注ぎ続けていたのだ。
そして、自分が勇者によって滅ぼされる瞬間にそれを発動させたのだった。
まあ、呪いが完璧に作用するまでに、少しのタイムラグは生じてしまうのだが。
〈貴様を含め、あと三分も経たぬうちに記憶が消える。人が魔法が使えたことも、魔族という存在がいたことも、そして、その者らを滅ぼしたということも──〉
「そんな……」
〈そして、そんな記憶を失くしてしまった人類は、三千年後の世界で復活を遂げた我に、一気に滅ぼされる──〉
「……んな、馬鹿なっ!!」
〈魔法の使えない雑魚など、我にとってはハエ以下の存在だ。貴様らが滅ぼしてくれた魔族を全員蘇生させ、新たな世界を司る王となる!!〉
(まずい……冷静になれ、俺ッ!)
あと三分の間で取れるベストな行動を取るのだ。
まず、一番出来れば良いのは、自分も魔王と同じく転生の秘術を使うことだ。呪いが発動する間、この時代から抜け出すことに成功すれば、最低でも自分一人は記憶を失わずに済む。そして、三千年後の世界で魔族の復活を食い止めることも出来る。しかし、今の自分にこれは出来ない。
何故なら、転生の秘術を行うには、自分が持っているほぼ全ての魔力量を消費しなければならないのだ。だから、あの時の魔王は勇者に反撃することなく、ただ秘術を成功させるためだけに集中しきっていた。
(聖剣を使わなければ……)
あの時、聖剣アルフエルダーの七色の光を放った際、自分の魔力量の七割を消費してしまった。
あと、三分以内に魔力量全てを回復するのは難しい。
(どうするッ!どうする……俺ッ!!)
そんな中、一つの勝ち筋が、勇者の脳内を光の速さで通過していった。
それは、焦りによって、忘れ去れられていた人類が最も頼れる存在。魔族を滅ぼす意思を示し、特に勇者である自分に力を与えてくれた存在──神。
「そうだ!俺たちにはまだ神様が付いているじゃないか!!」
しかし、勇者の、人類の唯一の勝ち筋は、魔王に一蹴されてしまう。それも、最低な形で──。
〈残念だが、神が貴様らを助けにくることはないぞ〉
「は……何を言ってるんだ?魔王の戯言なんかに耳は貸さないぞ!!」
〈ふんっ。まあ聞け。神は既に、我に降伏しておる〉
「は……!?」
〈人類を滅ぼす手伝いをするから、神託で魔族を滅ぼすように勇者たちに頼んだことについては目を瞑ってくれとな〉
「う、嘘だろ……それはいくらなんでも魔王の戯言じゃ……」
〈そんなに信じられないと言うなら、貴様の心に手を当ててみるとよい〉
「……」
神は人間の心に住みつき、護ってくれる存在。人間は誰しも手を当てれば、神の意思や意向を感じとることが出来る。
〈薄々気付いているのであろう。神の声が聴こえなくなっていることに〉
(な、何も聴こえない……まさか、本当に神様は……)
「くっ……ッ……クソッ!!」
勇者はその場にしゃがみ込むと、唇を噛み締め、今にも溢れんばかりの涙で歪んだ視界で、地面を思い切り睨みつけた。
もう、自分の心に出てくる感情がどんなものかすらもわからなくなってきた。
〈記憶を失う前に一個だけ言っておこう〉
「なんだよ……」
勇者は、信じた者から裏切られ、完全にこの戦いに負けたことを受け止めたのか、全てを諦めたように弱々しく俯きながらそう呟いた。
〈貴様の、と言うか人類の一番の敗因についてだ。貴様らが最後の最後で負けたのは、自分自身を信じてやれてなかったからだ〉
「へ……」
勇者はポカンとした顔を浮かべた。それもそのはずだ。アグレスが今投げ掛けた言葉は、これまでの流れからは考えられない程の脈絡のないものであったからだ。それに加え、先程とは打って変わって、声も優しくなっていた。
〈人類と戦ってきて我はわかったことがある。人は自分を心の底から信じられた時、予想を遥かに超えた力を発揮することが出来るということだ〉
「……」
アグレスの言う通りだった。これまでを振り返っても、魔族はそれぞれ自らの意思で、各々が動いていた。一方で、人類は全ての行動を神託で決めており、誰しもがそれに異を唱えずに従っていた。
多少、疑念や不満を感じながらも。
「そうか……」
本当は神様になんて頼らずとも、なんとかなっていたかもしれない。
神のための人柱も生贄も納めなくてよかった世界線だってあったかもしれない。
(もし、神託じゃなくて、自分の意思で行動していたら、ラティーナだって……)
大切な恋人だって、死なせずに済んだかもしれない。
そこまでしてでも神様を信じ、従ってきた理由はただ一つ。
──自分自身を信じられなかったから。
アグレスに言われて、ハッとした。
人類の力では魔族に勝てないと思ったのも、神様に頼ったのも、全ては自分自身への信頼を置かなかったから。
その代わりに、過度な心配をしてしまっていたから。
やっと気付いた。
人類が滅びるルートを辿ってしまった原因を作ったのも、自分自身を一番傷付けてしまっていたのも、魔族なんかではなく、本当は人類の心の在り方の問題であったということを。
「魔王アグレス。一つ頼みがある」
〈申してみよ〉
「三千年後の世界で、人類を滅ぼし、魔族を蘇らせたその時、新たな時代生きる者が皆、心の底から自分自身を愛せる世界を、どうか創ってくれ」
〈任せておけ〉
「言ったからには、俺たち人類の過ちを繰り返さないでくれよ」
〈わかっておる〉
「あと、三千年……。神や魔族、魔法を忘れた世界で生きる人類は、今と少しくらいは変わってくれてるといいな……」
〈……〉
「ありがとな、魔王アグレス。勇者としての最期に、一番大事なことを知れた気がする」
〈……〉
アグレスは、勇者が心の底から解き放った言葉をしばらく黙って噛み締めていた。
少しだけこれは意外だった。
まさか、人類の中の一人、それも勇者と呼ばれる存在が、憎きはずの相手によって、記憶を失われようとする最中、そのような言葉をまさか自分に掛けてくれるだなんて……。
アグレスは少しだけ心を揺さぶられた。本当に三千年後の世界で、自分は人類を根絶やしにすべきなのかと。
だからか、気付けばアグレスは勇者に向かってこんなことを言っていた。
〈勇者よ。今まで持っていた全ての感情を肯定して抱きしめてやれ。魔族が憎いと思った気持ちも、神に縋ろうとしたその弱さも、それに対する自己嫌悪も誇って良いことだ〉
「魔王アグレス……」
〈勇者よ、我は──〉
***
──二〇二三年九月二十二日 日本/東京
アグレスの意識は、魂は、新たな生命は、あれから三千年後の世界へと移行した。完全に。
もう、あの時代に戻ることは出来ない。
だから──、
「我は創るぞ、我が心の底から願う新世界を!!」
アグレスは決心した。
己が望む世界へと形を変えるために──。