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君を想う時

作者: 伊諾 愛彩


 

 彼女の名前は、Hという。俺は本当の名前を知っているけれども、それを呼ぶことはなくて、いつもHと呼んでいる。そのHには意味がある。ルーン文字の「ハガル」の意味がその文字には込められていて、文字ではHと書くが、彼女の名前を呼ぶときは「ハガル」と呼ぶ。「ハガル」は、雹という意味で、空から落ちてくる氷の塊だが、それは溶けて水になる。それは彼女の本当の名前ではないけれども、その名前は彼女の一面を表している。Hは表面的には冷たい女だが、長い間一緒にいると優しい女であることが分かる。


 彼女は鉄の仮面を着けているように見える。どうしてだろうか。それは、彼女の仕事が原因にあるだろうと、俺は考えている。


 彼女は死を司る女で、その死は名誉ある死ではなく、何も成すことなくその生を終えたものに訪れる死を象徴している存在である。象徴が何を意味するのか、詳しいことは知らないけれども、彼女は彼女のもとにやってくるものを把握し、管理する役割を担っている。それは、神から与えられた役割で、彼女にしか出来ないものだ。

 

 俺はそんな神を「くそくらえ」だと思っているが、同時により高位にいる存在に対してそんなことを思ってもどうしようもないことも知っている。だから、俺は俺に出来ることとして、彼女に「寄り添おう」と思った。


 俺にも本当の名前はある。けれども、彼女と同じように、俺は、Yという一文字で呼ばれるようになっている。それはルーン文字の「ユル」と発音する。「ユル」は斧という意味があって、俺はその意味に沿った存在であろうと思っている。「寄り添う」。そうすることで、俺は彼女に何かが出来ている、そんな気持ちになれる。


 彼女が本当の名前を用いないようになった時を、知らない。知ることが出来ればもっと彼女のことを分かることができるかもしれない。けれども、それはどうでもいいことかもしれないとも思う。


 彼女は忙しくて、傍に居ることさえ難しい。それでも、俺は、彼女のことを想っているのだと思う。


「ふぅーん。馬鹿ね」


「俺は彼女と同じことがしたかった。ただ、それだけだ」


彼女の仕事は、死を与えること。Hが忌み嫌われる存在である理由には、その仕事がある。Hは大いなる神から、死の女神としての仕事を与えられた。忌み嫌われる彼女から、その仕事を奪うことができたなら。そんなことを望んでも叶いはしないだろう。


 彼女の仕事を手伝っているだけだ。そして、その仕事の一つとして、目の前にいる美しい少女の命を奪いに来た。


「貴方のこと、ユルって呼ぶよ。だって、それが名前でしょ。私は、パンドラ。父親がそう名付けたんだって。私は一度もあったことのない父親だけど」


パンドラは無邪気に笑った。


「お前は、その父親に殺された」


「そっか、じゃあ、私は天国に行くんだ」


深刻な調子で話しても、パンドラは笑っていた。能天気に話すパンドラの考えと、その後に待っていることは異なる。Hが司る死は「忌み嫌う死」だ。ここにHの使いであるYがいるということは、パンドラは天国にはいけない。楽しそうなパンドラにどのような言葉をかけるべきか分からず、黙っていた。


「私、ユルにだったら連れていかれてもいいなって思っちゃった。たとえそれが、この世の終わりのような場所であったとしても」


パンドラは明るい調子で話し続けた。


「ねぇ、どうして、私が天国じゃなくて地獄に行くことになりそうなのか、教えてくれる?」


パンドラがまっすぐな目で俺を見つめていたから、パンドラの人生を本にしたものを手渡した。パンドラは本のページをめくりながら、嬉しそうにケラケラと笑っていた。パンドラの物語は、決して美しい物語ではない。パンドラは美しいが、その美貌のためにたくさんの人間を陥れた。だから、俺は躊躇わずにパンドラを送っても構わなかったのだ。でもそうしなかったのは、パンドラの瞳が澄んでいて、一点の曇りもないことが引っかかったからだった。


「ねぇ、貴方は、Hが好きなの?」


パンドラは無邪気にそう問いかけた。俺はそれが煩わしいと感じて、何も答えなかった。


「そうか、好きなんだね。それは、彼女が奇麗だから? 私とどっちが奇麗?」


「さぁ、Hはパンドラの考える奇麗ではないと思う」


「じゃあ、私の方が奇麗ってことね。そうよね。私、奇麗である私が好きなの」


俺は、自信満々に話すパンドラをただ静かに眺めていた。


「美しいっていうのは、愛されるためには大切なことよ。この本にはね、私が愛されるために努力してきた道程が書かれていたわ。なんて素晴らしいのかしら。私はパンドラという人生に満足しているの。ただ、納得できないのは、なぜ私が地獄に行くのかということよ。これを説明してくれないかしら、ユル」


この仕事は、Hの仕事を肩代わりしているようなものだが、だからといって適当に仕事をしているわけではない。その人間がなぜ「名誉ある死」の選ばれることがなかったのかを自分なりに理解して現場に臨んでいる。


 俺は、パンドラの罪の中でも最も重い、殺人を犯した時の話について尋ねることにした。


「お前は、皇太子の宴に行くために、貴族の娘を殺したんじゃないのか」


「あら、天国に行く栄誉ある方の多くも殺人を犯しているわ。例えば戦士、異教徒と闘う勇猛な人間は天国に行くと言われているわ。だから殺人が地獄に行くための決定的な出来事とは思えない。違う? それに、仕方のなかったことよ。私の前に居た娘が奇麗なドレスを持っていた。私の方が奇麗にそのドレスを着こなすことが出来たわ。だから、私がそれを着て宴に行くべきだと思ったの」


「殺すことを躊躇わなかったのか?」


「ドレスを彼女が渡してくれなかったのだもの。死んだかどうかはしらないわ」


「死ぬことが分かってただろ。毒を盛ったんだから」


「刺し殺したら、血が飛び出て汚れるわ。奇麗なドレスを手に入れるには、毒で抵抗しないようにするのが一番だと思ったの」


「殺そうと思ったというわけか」


「違うわ。抵抗しないようになるための毒を紅茶に混ぜただけ。私は薬の専門家ではないから、死んだのかどうかなんてどうでもよかった。宴に行くのは、娘よりも私の方が都合がよかったの。私の主人は、娘ではなくその父親である貴族だったのだから。皇太子は、その宴で自分の妻になる女性を探していたの。幾人もの有力貴族の娘から、気に入った娘を選ぶつもりだった。選ばれた娘の家は、王からの特別な待遇を受け。だったら、より美しい娘がその宴に行くべきだと思った。それは、『その娘ではなく、私だった』それだけよ」


「その考えを話していれば、毒を盛る必要などなかったんじゃないのか」


「馬鹿ね、話せば分かるわけがないでしょ。美しさというのは、見ようと思う者にしか見えないものよ。その娘の母親と、私の主人である父親には婚姻という関係があった。だから、その母親の意見を無視することは出来なかった。母親は盲目的に娘を愛していたわ。愛は、事実を捻じ曲げた。世界で一番美しいのは娘だと、そう思い込んでいた。思慕の念というメガネの屈折率は恐ろしいわ」


その言葉を告げながら、少女のようだったパンドラの眼差しが、女性へと変化していくように見えた。


「私は、その貴族の娘の父親に可愛がられていてね。その娘の代わりに宴に行くように言われたの。誰もいかないなんて家の名折れだもの。私は、皇太子が催す宴に行ったの。皇太子はとても退屈そうだったわ。美しい私がやるべきことを私はやったのよ。予想通り、皇太子は私のことを気に入ったわ。彼には婚約している姫がいたから、私を寵姫にすると言ったの。彼は姫よりも私を見ていた。愛されていた。本当の妻よりも私のことを愛してくれてたのよ」


自分の物語を続けるパンドラを見ながら、俺は彼女の矜持がどこからやってくるのかを考えていた。幼いパンドラは消え、自らの美しさよりもその皇太子にどのように愛されているのかを彼女の存在の糧にしていた。美しいから愛されるのではなく、愛されるために美しくあろうとした。無邪気な振る舞いのままだが、考え方が賢く、時に狡猾になっていた。


「愛されることにどれだけの意味がある?」


俺の口から、言葉が乱暴に飛び出した。パンドラの話を聞いているのに、その言葉をHのあり方と紐づけながら捉えていた。目の前にいる美しいパンドラの容姿が、そしてそこから放たれる無邪気な言葉が、心惹かれるものではなく、その糸によってムカつかせるものに見えるようになった。


「私のこと、嫌いなのね」 


パンドラは、俺を見てそう言った。


「アイヒマンの話、聞いたことがある?」


オットー・アドルフ・アイヒマン、第二次世界大戦中のナチスドイツの親衛隊の一人だ。多くのユダヤ人を虐殺した実行者として、彼は裁判にかけられた。ナチスドイツのユダヤ人絶滅の政策という方針に従い、彼はユダヤ人の絶滅収容所に「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」といった。しかし、裁判中の彼は自らの行為に対して、「命令に従っただけ」と殆ど罪を感じないようなそぶりを見せた。


「私ね、ユルがアイヒマンみたいに何も考えないで人の命を奪う人じゃなくて良かったって思ったの。私の人生が終わって緞帳が降りた時に、追い立てられるように舞台を降りるのか、最後の最後まで私をヒロインとして舞台から降ろしてくれるのかは、全然違うもの」


その言葉は、自分の仕事が良かったという安堵感をもたらすとともに、恐怖を与えてきた。パンドラが俺の心に押し入ってくるような感じだった。


 パンドラの人生はジェットコースターのように落差のあるものだった。パンドラの美しい容姿で生まれたにもかかわらず、親に愛されず、捨てられ、貴族の娘の下で小間使いとして使われる毎日だった。暗殺した貴族の娘の代わりに出た宴で、皇太子の寵愛を得て、他人には得られないような生活を得た。そうであるにもかかわらず、幸せとは言い難かった。寵姫としてのパンドラの名声は、貧しいままの父親の知るところとなり、父親はその娘にすがりにやってくるのである。みずぼらしく、みじめで汚い父親だった。そんな父親が存在すること自体受け入れがたいものだった。パンドラは、そのような父親であっても、自ら手をかけることはことはできなかった。


 それが、過ちだったのだ。娘からの庇護を得られなかった父親は、娘を手にかけた。そして、皇太子の寵姫、パンドラは暗殺された。


 パンドラは、俺の前に手を出して、エスコートするように求めてきた。彼女の整った顔が凛とした表情になると、残酷な寵姫がまるでヒロインのように見える。そして、全ての階段を降りた時、彼女はフッと消えた。


「ありがとう。迎えに来てくれたのが、貴方でよかったわ」


奇麗だった。何の意味もないはずの有象無象の死でしかないのに、心に刺さった。それが奇麗だと思えたのは、パンドラの容姿が優れていたからなのか。その答えが俺には分からなかった。

 

「何でこんな案件を渡してくるんだか」


Hは、今の役目を与えられてからあまり言葉を話さなくなった。この案件を渡された時にも、彼女は何も言わなかった。でも何か言葉を発していたなら、こんなことを言っていたんだろうと思う。


「可愛い女の子はね、アンタが迎えに行くほうがいいでしょ」


年上で、俺の先にどんどん進んでいってしまう彼女はもういない。でも、思い出したんだ。


君を想えた。


それは、Hが俺に心を使う仕事を与えてくれたから。

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