ゴブリンは悪魔と契約を結ばせないため公爵令嬢を説得する
「あ、くまだと!? 厄災を呼び起こすとも言われる存在がなぜ……? いや、早々に始末するしかない! 弓騎兵! 標的を悪魔に! 放て!!」
エンドハイトが狙いを悪魔に変える。リラとヴィーチェではなくなったとはいえ、悪魔の近くにいるのだから安全とは言えない。依然として窮地なことに変わりないのだ。
大量の矢が束のようにアンドラスという悪魔へ射った……が、アンドラスは矢に背を向けた状態で虫を払うかのような手の動きを見せた。その瞬間、矢束は威力を失い弾かれる。
「本来は相応しい召喚者の召喚魔法陣を通して現れるのが習わしではありますがぁ、このような可視化される莫大な魔力を放たれたら居ても立ってもいられませんでしたぁ」
ニマニマしながら悪巧みを考えているような表情で悪魔はヴィーチェに話を続ける。その間もエンドハイトが矢を射るように命令するもアンドラスはその度に攻撃をいなしていた。
可視化する魔力とはもしかして今ヴィーチェの身体を纏う電撃のようなもののことだろうか。だとするとこれまで見た小さな火花は魔力に目覚める兆候だったのかもしれない。
「あなたの怒りと悲しみはその魔力の状態を見れば痛いほどよくわかりまぁす。だから私が力を貸してあげましょう。私と契約をすれば、あなたや大事な者を傷つける輩を排除してさしあげることを約束しますよぉ?」
そういえば、とリラは思い出す。最近ヴィーチェの兄ノーデルが言っていた話を。ヴィーチェは悲しみと怒りが頂点に達すると膨大な魔力を持つようになると。そして悪魔と契約をし世界を破滅に導くとか。
それを先見する母から聞いたとか何とか話していたが、そんなおとぎ話のような馬鹿な話があるわけないと適当に聞いていた。しかしその内容が確実に目の前で行われようとしている。
おそらくリラが命の危機となったことでヴィーチェが悲しみ、今までにないほどエンドハイトへの怒りが増幅した。それが彼女の魔力が宿るきっかけになったことは確かだ。
その魔力量に釣られて悪魔が現れ、契約を迫るのは聞いた話と少し違うが、見過ごせる状況ではない。
そもそも悪魔と契約を交わした人間は罰せられるという話だ。結果によっては命もないというくらいに重い罪らしい。
「……リラ様を助けてくださるの?」
「えぇ、もちろぉん。私と契約し、その魔力を提供していただけるのならぁ、彼を助けることも邪魔者を消すことも可能でぇす」
ヴィーチェは悪魔の囁きに興味を持ってしまっている。このままでは悪魔と契約しかねない。ヴィーチェの性格からして、即決するのも時間の問題だった。
「ヴィー、チェ……っ! そんな奴の言葉に、耳を貸すなっ!」
「リラ様っ! ですがリラ様のお身体にある毒を早く取り除いてもらわないと……!」
ゴブリンの毒を消すために悪魔と契約する奴がどこにいるというのか。後にも先にもヴィーチェしかいないだろう。そんなことで罪人になるなんて人間達から馬鹿にされる未来が目に見える。
ならば、とリラは自分の身体に鞭を打つように、必死に力を入れてその身を起こした。ふらつきそうになったが、しっかりと踏ん張って両足で立つ。
「このくらいの毒、なんてことない……っ」
ゼェゼェと苦しげな呼吸を止めることは難しいが、今は強がることしかできない。
「俺は大丈夫だから、絶対に契約するな……ゲホッ!」
「リラ様っ!!」
重苦しい咳と同時に血も吐いてしまう。大丈夫と言っておきながらこれでは余計な不安を煽るだけだ。タイミングが悪い。
するとリラの名を呼ぶヴィーチェの肩を後ろからねっとりとした手つきで触れる悪魔が彼女の耳元へと口を寄せた。
「彼は無理をしていますねぇ。これでは手遅れになってしまいますよぉ?」
指で波を打つかのように何度も馴れ馴れしく肩へ触れる悪魔の動作は無意識にリラを苛立たせる。
「時間が経てば経つほど、取り返しのつかないことになりますのでぇ。契約は早いに越したことはないですよぉ」
ヒラリと、どこから出してきたのかヴィーチェの目の前に一枚の紙が浮いていた。おそらくそれが悪魔アンドラスの言う契約となる書類と思われる。
それだけじゃなくアンドラスは万年筆を魔法で出すと、優しくヴィーチェの手を取り、ペンを握らせた。
「こちらに名前を書くだけでぇす。そうすれば彼は助かります」
ヴィーチェと契約を結ぶため、相手は着実に準備を進める。
本当ならば悪魔を殴ってでも阻止したい状況なのに、立っているのがやっとのリラにとっては一歩でも動くとまた倒れてしまう恐れがある。そうなればすぐにヴィーチェはサインをするだろう。
何か、何かを言わなければ。ヴィーチェが悪魔と契約しないようにするための言葉を。それも毒で口が回らなくなる前に。しかしその前に意識が朦朧としてくる。頭も上手く働かなくなってしまいそうであった。
そんな中、ヴィーチェの目を見るとすでに決心したような強い瞳をしていたことに気づく。まずい。
「ヴィーチェ!!」
怒鳴るように腹の底から強く叫べば、ヴィーチェは契約書へと伸ばしかけたその手をぴたりと止めた。
「俺の言葉より、そいつの言葉を信じるのかっ?」
「リラ様……」
「お前が……お前がっ、好きなのは俺だろうが! 違うのか!?」
しばしの間が空いた。血管が切れそうなくらいに叫んだせいか、毒で回らなかった頭が少しだけ正常になる。正気になると自分の発した言葉があまりにも恥ずかしい内容だということを自覚してしまい、俺は何を言ってるんだと顔が熱くなった。
「違いません! 私の好きなお方はリラ様です!!」
しかしそれが良かったのか、ヴィーチェは邪魔だと言わんばかりに契約書を押しのけて力強く答えた。
ここまで小っ恥ずかしいことを口にしたのなら、その勢いに任せて念のためにもう一押ししておこうとリラはさらに声を上げる。
「だったら、悪魔と契約なんか絶対するなよ! した時点でお前とは、そ、添い遂げてやらんからな!!」
「! 絶対しません!!」
添い遂げないと言ってやるとヴィーチェは雷に撃たれたかのような衝撃を受けた顔をし、それだけは避けたかったのかすぐに条件を飲んだ……が、絶対にしないと誓うのと同時にヴィーチェはリラの元へ駆け出し、勢いよく飛びついてきた。
立っているだけの体力しかなかったリラはその勢いに勝てるはずもなく、受け止めきれずに雪崩るように倒れてしまう。
「リラ様がこんなに嫉妬してらしたのに気づかないなんて私もまだまだだわ」
「……そうか」
何がまだまだなのかわからないし、一応こっちは毒を受けている身なんだから飛びつくな、身体中がいてぇ、とか言いたいことは色々あったが、ヴィーチェを悪魔の手に渡ることは阻止できたようなのでひとまず安心だ。
「お嬢さん、そのように判断するのはお早いかと思いますねぇ。先ほどもお伝えした通り、彼は毒で苦しんでおられますよぉ? 一刻も早く毒を取り除くのが先ではぁ?」
これで罪人のレッテルを貼られることもないだろう。そう思うのもつかの間、相手は悪魔である。簡単に諦めるわけにはいかないのか、引き下がる様子は見せなかった。
しかし悪魔の言葉も一理ある。このままでは確かに生存率が下がる一方だ。毒の種類もわからないので手当り次第毒消し効果のある植物を採取しなければ。仲間に手伝ってもらうにしてもどこまで自分が持つのかもわからない。
「そんなのお医者様にお任せするから問題ないわっ」
「へぇ、ゴブリンを診てくれる医師がいるのかなぁ?」
随分とわざとらしい物言いだが、アンドラスの言葉は否定できない。人間専門の医者がゴブリンを診るわけがないのだ。
「ここは確実な方法が一番ですよぉ? お嬢さん、今一度お考え直しを」
ゆっくり身体を起こしたリラへと抱きつくヴィーチェの前にしゃがみ込み、再度契約書と万年筆を差し出す悪魔。
確実な方法と言われたヴィーチェは少し迷っているように見えた。手っ取り早く望みが叶うのなら、と考え直す可能性もなくはないのだろう。
それならば紙切れとペンを触れさせないようにヴィーチェの手を掴んでおくべきかとリラが考えたその時、ステージの裏から何者かが姿を現した。
「ヴィーチェっ、医師を連れてきたから悪魔の甘言には耳を貸さなくていい!」
ヴィーチェの兄ノーデルである。その隣には白衣を纏った初老の男がいた。思えばヴィーチェが危ない目に遭っている間、公爵家は何もしてこないからおかしいとは思っていたが、まさか医師の手配をしていたのか。
しかしすべきことはまずヴィーチェの身の安全ではないのだろうか。少しだけリラは公爵家の対応に思うところがある。
だが、ヴィーチェは兄に視線を向けると、完全に迷いがなくなった顔を見せていた。希望が見えたその表情で彼女は悪魔に告げる。
「診ていただけるお医者様がいらしてくれたからあなたの手助けは大丈夫よ」
「……。……ハァ」
悪魔の手を借りないと訴えるヴィーチェの言葉に、アンドラスはしばらく間を空けてからにやつく笑顔を消して真顔に変わり、溜め息をひとつこぼした。
「お嬢さん、少し短絡的過ぎじゃないですかぁ? その医者が処置を怠らないという可能性もないでしょう? それに━━」
くいっと、まるで後ろにある何かを紐で引っ張るようにアンドラスの人差し指が動いた。瞬間、幾度も矢を放ち続けるように指示を出していたエンドハイトが勢いよくステージへと引っ張られた。
「なっ、何をする! 貴様っ!」
突然のことで理解が追いつかないであろうエンドハイトがアンドラスの後ろで宙に浮かんでいた。まるで見えない何かに胸ぐらを掴まれているような状態だったが、どれだけ彼が逃げようともがいても全く解放されることはなかった。
「元凶がいる限り、お嬢さんの大事な人はまた危ない目に遭うはずですよぉ? 危険な芽は早々に摘むべきかと」
「ぐっ!? き、さまぁっ! は……な、せっ……!」
段々と首に食い込んでいるのか、エンドハイトが苦しそうに暴れた。その間も第二王子が率いる弓騎兵が王子の名を叫びながらも無駄だというのに矢を飛ばし続ける。もちろんアンドラスは全てを弾き飛ばしていたので傷ひとつつくことはない。
「さぁ、契約を。その多大な魔力を私に。そうすればすぐにでもお嬢さんの手を汚すことなくこの男を始末してみせま━━」
「それは結構だわ」
もう一切の迷いがない強い言葉。悪魔の言葉を遮ってまで拒否するのはヴィーチェの意志はすでに決まったということだろう。
そんな彼女の清々しいほどの笑顔による不要の言葉にアンドラスは「……は?」と顔を歪ませた。
「エンドハイト様はすでに数多くの罪がありますが、それを裁くのは私ではありませんし、興味ないんだもの。ですから早くお引き取りください。リラ様の治療をしなければなりませんので。そもそも私はあなたを呼んですらいないので、お次はちゃんと魔法陣から出てきてくださいね」
確かに、呼んでないのでヴィーチェからしたらいい迷惑なのだろう。アンドラスも召喚の魔法陣によって出てくるのがルールのようなことも言っていたし。
呼んでもいないのに意気揚々と現れてはお帰りください、なんて言われるのは悪魔でも屈辱的に思うのだろう。怒りに身体を震わせ、顔を赤くさせたアンドラスは鋭い目でヴィーチェを睨んだ。
「ッチ!」
大きな舌打ちとともに悪魔はその場から消え去る。何事もなかったかのように。それと同時にエンドハイトは拘束が解かれたのか、その場に落ちた。
「……」
ひとまず大きな脅威がなくなったと見ていいだろう。悪魔との契約が阻止できたことに安堵したリラだったが、肩の力が抜けたせいですでに限界を越えていた意識が急に遠くなり、糸切れた人形のように再び倒れた。




