侯爵令息は公爵令嬢によって奇跡を与えられる
夏季休暇の間、ティミッド・スティルトンは帰省することなく居残り組の一人としてほとんどの時間を寮の自室へと引きこもっていた。
実家に帰ろうかどうか悩んだが、母が嫌な顔をするのが目に見えたためティミッドは寮に引っ込んだ。
緑肌病を患ってからというもの、母は汚らわしいと言わんばかりの目でティミッドを見るようになり、言葉を交わすことすら減ってしまった。
元より厳しい人ではあったが、それはスティルトン家を継ぐ長男としてティミッドに接していたからだろう。常日頃から「恥のない振る舞い方をしなさい」と言われ続けてきた。
しかし鼻に緑色の疾患が出てきた途端、母はティミッドに家督を継がせることを諦めたのだろう。今では幼い弟に教育を注いでいるようなので。
ティミッドにとっては、どちらが家督を継いでも構わないので弟にその座を奪われたとは思わなかった。
それよりも母に軽蔑の目を向けられることが酷くトラウマとなっている。自分の子供を見るような目ではなかったのだ。
そんな母とは違い、父はいつも心配してくれた。だからなのだろうか、まだ何とか絶望することなく生きていける気がする。けれど常に職務に追われているので家にいる時間は少ない。
父より母と顔を合わせることが多い実家に帰るくらいなら寮にこもっているほうが随分と気が楽だったのだ。
そして夏季休暇が明け、久方ぶりの学院へと向かうティミッドの足は重かった。
ヒソヒソと話す声や嫌悪の視線、周りの生徒達から向けられる悪意を久しぶりに体感する。
どうせなら無視してくれるほうがありがたいのに、いつまで経っても“ゴブリン病のティミッド”として後ろ指を指されてしまう。
一生、こんなことが続くのかと思うと侯爵家を捨てて平民として生きる方がいいのかもしれない。
学院に入る前なら迷いなくそう考えたのに、今では揺らいでしまう。
なぜなら、ヴィーチェ・ファムリアントの存在がティミッドに光を与えたから。
入学式のことは今でも思い出す度に胸が高鳴る。緑肌病でほとんどの人間から避けられているにも関わらず手を取ってくれたり、話しかけたり、微笑みかけたりしてくれた。
まさに女神。もはや女神という言葉は彼女のためにある。後光だって差していた。
そんな誰よりも輝かしいお方に夏季休暇明け早々に名前を呼ばれたときは心臓が止まるかと思ったし、彼女の名前を呼ぶことも許されるなんてさらに驚いてしまう。
それだけじゃなく何やら話があるらしく、ドキドキしながらヴィーチェ様の後について行った。
「では、スティルトン様。そのまま動かないでね」
「は……い」
しかし、こうなるなんてティミッドは思いもしなかった。
突然、緑肌病の治療をすると言われ戸惑ったが、さらに虫がその治療を担うというのだから頭が真っ白になる。
ストネンバグという白い芋虫らしき姿がヴィーチェの手に持つ瓶の中で動いていて、それを見たティミッドはサーッと血の気が引いてしまった。
虫が患部を食べるなんて想像できない。ということは噛まれてしまうのだろうか? ならば怪我をするのかもしれない。
女神の化身とも言える彼女が人を傷つけるようなことをするとは到底思えないが、もしかして誰かに騙されたという可能性もあるのでは?
その証拠に本気で治療できると信じている表情を見せたヴィーチェは瓶をゆっくり傾けさせ、自身の手のひらへと虫を乗せていた。
拒んだら彼女が悲しむのかもしれない。愛嬌のある笑みを曇らせたくはなかった。だからこそティミッドは腹を括って目を強く閉じ、天を見上げる。
特効薬も治療法も見つかっていない緑肌病が治るとは思ってもいなかったが、ヴィーチェは治療できると信じているのだ。
試さずに拒否するのは絶対に彼女が傷ついてしまう。それだけは避けたかった。
「……っ」
視界を強く閉じたせいか、いつあの幼虫が乗せられるのかわからない。しかし鼻先にひんやりとした感触が伝わり、思わず「ひっ……!」と、身体が跳ねる。
ヴィーチェの言葉に従うため、強ばった状態で動かないティミッドはただただ早く終わることを願った。
待つことおそらく数分。患部を食べるらしいストネンバグに噛まれると身構えてはいるものの、いつまでもその痛みはこない。むしろもぞもぞするような擽ったさがある。
すると鼻の頭にいた幼虫がコロンと転がり落ちるようにいなくなってしまった。あれ? と思いながらティミッドは恐る恐る目を開く。
「ほら、見てライラ。この通りよっ」
「……そんな、本当に……こんなことが……」
ヴィーチェがいつも一緒にいる友人のライラ・マルベリーに何やら証明するような口振りで話しかける。対するライラは信じられないというような言葉を発するが、表情に驚きは感じられない。
「あ、の……ヴィーチェ、様……?」
「スティルトン様、この子が頑張ってくれたから治療は終わったわ」
掬い上げるように両手を見せるヴィーチェ。その中心にはストネンバグと思わしき丸まった幼虫がいる。
するとその幼虫を彼女は近くの木の枝に乗せた。昆虫の知識がないため、あれが正しい自然への返し方なのかはわからないが、ヴィーチェが行うことなので間違いはないだろうとティミッドは強く信じる。
しかし公爵令嬢なのに平気で虫に触れることができるだなんて凄い。ティミッドは尊敬の眼差しをヴィーチェに向けた。
いや、それよりも。と、彼は気づく。治療が終わったと目の前の女神が口にしたのだ。
すると草木の香りが鼻の奥へと流れ込んできた。随分と久しぶりに嗅覚が機能したのだ。
緑肌病を患ってから鈍くなっていた嗅覚だったが、こんなにも匂いってするものだったのかと気づく。想像以上に嗅覚が働いていなかったようだ。
「どうぞ、スティルトン様」
ヴィーチェから手鏡を差し出された。凝った装飾を施された手鏡は品があり、彼女の私物に触れると思うと恐れ多さを感じるとともに感動も芽生える。
しかし鏡を渡すということは自分の顔を確認してということだろう。
本当に治療ができたのか、少しばかりの不安を抱きながらもティミッドは恐る恐る手鏡に自分を映し出した。
「……!!」
鏡を見る度に目を引くあの緑色が綺麗さっぱりとなくなっていた。
これは魔法の鏡なのかと疑ってしまうティミッドは自分の鼻先へと触れてみる。硬い質感のあった患部は元の肌の感触へと戻っていたのだ。
「治、ってる……」
数年悩まされ、嘲笑の的になっていた悪疾。不治の病と言われていた緑肌病がまるで最初からそこになかったかのように跡形もない。奇跡、だった。
「あ……ありがとう、ございます。ヴィーチェ様っ……」
「無事に治って良かったわ」
手鏡をヴィーチェに返すと、彼女は微笑みかけてくれた。汚点とも言える病状を消し去ってくれるなんてもはや聖女の域である。
「ヴィーチェ様……一体どこで治療法を……?」
ライラもまた奇跡を目の当たりにしたようで、どのようにしてこの治療法に辿り着いたのか気になったのだろう。
確かに普通に考えれば虫で治療なんて思いつかないはず。
「さっきも言った通りリラ様から教えていただいたのよ」
「……そう、でしたね」
どこか諦めたような口振りで納得するライラ。しかしティミッドにとって気になる名前に思わず口を開いた。
「リラ様……ですか?」
そう問いかけるとヴィーチェが瞬く間に反応を見せる。
「えぇ! リラ様はゴブリンなの! 聞いていただけるかしらっ?」
輝かしいほどの活き活きとした表情で詰め寄られ、ティミッドはドキリと心臓が高鳴る。ゴブリン? と気になるところはあるが、そのように尋ねられたら頷くしかない。
真っ赤な顔で何度も首を縦に振ると、彼女はティミッドの隣へと腰掛けた。距離の近さに息が止まるかと思ってしまう。
「ライラも聞いてっ」
早くと言わんばかりにヴィーチェはライラに隣へ座るように促した。友人である彼女は「……わかりました」と頷き、ヴィーチェの隣に腰を下ろす。
「つい数日前のことなのだけど、私も腕に緑肌病と思わしき疾患が出てきたのよ」
腕を見せて「ここにあったの」と言うのだが、もちろんそこには怪我や病の跡は残っていない。だから信じられないとも思ったが同様の治療を施したのなら信憑性がないとも言えなかった。
けれどまさか彼女も患っていたとは。それに驚きつつもさらに驚愕したのが、治してくれたというのがゴブリンのリラという者だった。
人間を襲わないゴブリンなんて有り得るわけがない。しかしそれがゴブリン令嬢と呼ばれる所以でもあるヴィーチェの妄言である。彼女から紡ぐゴブリンの夢物語は止まることなく語り続けられた。
緑肌病はゴブリン達によると鉄石症と呼ばれてることや、発症する原因や、なぜストネンバグという虫が治療できるのかまで細かく話す。
この辺りの話はどこまで妄想の範囲かはわからないが、結果として治ったのだ。もうゴブリン病のティミッドではなく、新しく生まれ変わったような気分すら抱く彼にとってはこの際過程なんてどうでも良かった。
本当の治療法を知った理由はわからないが、おそらく偶然なのかもしれない。それを敬愛するゴブリンの手柄にさせたくて、彼女はゴブリンのリラ様という空想の魔物に教えてもらったと言っているのだろう。
緑肌病を治す手段はないのだからこの治療法は大発見と言える。それくらい自分の手柄にしてもいいというのに。
いや、これこそ女神と呼ぶに相応しいのかもしれない。治療法を知ったことだって偶然ではなく、女神ゆえの必然だった可能性もある。もはや彼女こそが世界の理なのではないか。
(あぁ……僕の全てを、あなたに捧げたい……)
何にせよティミッドにとって悪しき病を取り払ってくれたヴィーチェは神格化するに値する存在となり、恍惚とした目で彼女を見つめながら話に耳を傾けた。
ゴブリンの話をする彼女の表情が何よりも素敵だったから。




