侯爵令息は公爵令嬢に目を奪われ、ゴブリンはただ祈る
侯爵家令息であるティミッド・スティルトンは履修科目登録の際、必修科目だけ押さえて選択科目については強制ではないので無視しようとしていた。
しかし講堂にてヴィーチェ・ファムリアントを見かけた彼は大きく鼓動が高鳴ったと同時に息が止まりそうになる。
女神からの祝福でも与えられたのか、なぜか彼女だけが輝いて見える。彼女が歩くだけでその床や地は聖域化され、彼女が微笑むだけで世界が浄化されるのではないかと疑ってしまうほどに。
どんな女神にも敵わないほどの美しさ、そして愛らしさを兼ね備えている彼女にティミッドは釘付けとなる。
そんなヴィーチェに目を奪われつつも、彼女とその友人との話し声が僅かに耳に入った。
魔物学を絶対に取りたいと口にするヴィーチェの言葉はティミッドにある決心をさせる。むしろ無意識にと言った方が正しいのかもしれない。
気づけば選択科目を取らないはずの彼は提出表に魔物学だけ付け加え、時間割を提出したのだった。
そして魔物学が行われる教室へと向かえば、そこにはティミッドをからかう者達による言葉があちこちから投げつけられた。
こうなることは予想していた。きっと他の授業でもこのような酷い扱いを受けるのだろう。鼻の頭が緑に染まっただけなのに……。
ストレスからくる吐き気が込み上げてくる。このまま逃げ去ってしまおうか。そう思った矢先だった。
「大丈夫かしら?」
聞き覚えのある声。いや、それは当然のこと。彼はその声を聞き逃すわけがない。
俯く顔を勢いよく上げればそこには女神がいた。ティミッドはそう信じてやまない。
一度ならず二度までも自分を気遣うその声は何よりも美しく、セイレーンの歌声よりも魅了される。金糸雀の髪の女神、ヴィーチェ・ファムリアントにティミッドはまた目を奪われた。
それだけではなく、ゴブリンと言われる悪意ある言葉も真っ向から否定する姿は勇ましさすら感じる。
彼はゴブリンじゃないわっ。その言葉だけでティミッドは救われた気がした。ティミッドという個人が彼女に認められた気だってする。
しかし正論を告げる彼女にゴブリンという言葉は比喩だと返されると、今度はそれが褒め言葉だと思い込んだ。
どうやらヴィーチェの目を見れば本気でゴブリンという存在は褒め言葉だと信じている様子だった。
こんなに素晴らしい彼女でも美的センスだけは神に与えられなかったのだろう。いや、逆に人間味があっていいのかもしれない。完璧すぎてはあまりにも畏れ多くて近づけないのだから。だからこそその致命的かもしれない美的センスさえ愛しく思う。
周りのゴブリンの印象と彼女の思うゴブリンの印象がズレているということに気づいてもヴィーチェは引かなかった。むしろ立ち向かうかのように彼女の想像するゴブリンについて語り出したのだ。
まるで講義するようにヴィーチェはゴブリンとの思い出を口にする。これが噂のゴブリンオタク、ゴブリン令嬢とも呼ばれるヴィーチェの姿なのかと理解した。
ゴブリンと呼ばれ続けるティミッドにとってはどこか親近感ある呼び名なのに、彼女は喜んでその名を受け入れている。なんと強い人なのだろうか。
けれどゴブリン像を無視した夢物語のような話を事実として語る姿はまるで幼子ようではあるが、不快感は抱かなかった。むしろ微笑ましささえある。
妄言癖があると言われているのも知っているが、害がある内容ではない。全てゴブリンの話なのだから。むしろ欠点があるくらいが可愛いものだろう。
その後、担当講師が教室にやってきて、いよいよ魔物学が始まる。最初の授業はスライムとゴブリンについてだった。
この魔物達は幼い子でも知り得るほど知名度が高い。特にスライムは魔物討伐初心者の相手とされるので授業としては誰でも知る内容であった。
「スライムも数が多いと手強い相手になる。冒険者や騎士達の中には勘違いをする者も多いが、彼らは決して弱い存在ではない。その証拠にスライムを従魔にし、数々の強敵を倒した記録も残っている」
スライムは主に残飯処理係として使役しようと従魔にするのがほとんどである。戦闘に特化したスライムなんて本当に存在するかはわからないが、それも過去の話だろう。
そんな話を混ぜつつ改めてスライム討伐の仕方や、生態について説明を受ける。生態については詳しくなかったので確かに勉強になり知識となった。
そして教本の次のページを捲るように指示があると、捲った先にはゴブリンについて書かれていた。
ティミッドはちらりと近くに座るヴィーチェへと視線を向ける。嬉しげな表情を見せる姿にドキリとしたと同時に本当にゴブリンという種族が好きなんだと実感した。
それにしても彼女のその横顔は彫刻にも絵画にも表せることができないほど可憐である。
ヴィーチェの反応を窺いながら、ティミッドは教師の授業にも耳を傾けた。
しかし改めてゴブリンについての話を聞けば聞くほど、醜い種族だという現実を突きつけられてしまう。嫌悪感を抱かずにはいられないその体色は自分の鼻の色と同じで、一部が変色しただけでゴブリンだと呼ばれるのにも納得してしまいそうになる。
……本当に、これが彼女の中では褒め言葉と捉えるほど格好いいのだろうか?
そんな不安を感じたティミッドは再度ヴィーチェを盗み見する。すると彼女は納得がいかないと言わんばかりの悩ましい表情を見せていた。その姿さえもまるで美術品のよう。
一通りゴブリンについての説明を終えた教師が「では、今までの話で気になる点はあるか?」と生徒に問いかけた……瞬間、勢いよくヴィーチェが挙手をする。
「ファムリアント令嬢。何か質問かな?」
「先生、今のゴブリンに対する情報の訂正を求めます。彼らは人を見れば誰彼構わず襲うことはありません。それと平和的に過ごすため人間に関わらないようにひっそりと暮らしていて、仲間思いでもあります。かなり理性的な種族です」
自信満々に答える彼女。堂々としている様はまるで物語の主人公のような風格さえある。例えその言葉に間違いがあったとしても。
「ファムリアント令嬢、これは長年に渡って調べられた魔物に関する事実である。あなたの理想を押しつけて授業の妨害をするのはよろしくありませんな」
教師の口調が強くなる。確かにお遊びではないし、妄想や夢物語を披露する場でもなく、ここは学ぶ場である。ヴィーチェの言動は教師にとって悪い印象を与えるだろう。
「理想というのならそれなりの根拠があるのですか? 魔物も人間と同じく、歴史があり価値観も変わっていきますわ。ちゃんと最新の情報はアップデートされているのです?」
「魔物は動物と変わらない。常に一定の行動をとるものだ」
「動物も意思があって行動します。命令で動くような傀儡ではありません」
「その意思を反映した結果が、過去の記録に残っているゴブリンの愚行である。奴らは常に目の前のことしか目に入らぬ。理性などあるわけがない」
「ではゴブリン討伐に関する最新の記録を提示していただけますか? そのときの状況と場所、詳細を事細かに」
いまだ食い下がるヴィーチェはティミッドから見ても格好良く見えてきた。
何を言われても自分を信じて発言するその姿は、何も知らない者から見れば頼もしさすら感じる。……しかし状況を知っている者からすればあまりにも馬鹿げたやり取りにしか見えないだろう。
なぜならそれが当たり前だから。魔物とは、彼らの習性や行動とは常にそうだったから。
「それは私の仕事ではない。授業と関係ないことである」
「魔物学なのですから授業と関係ないことはないのでは? 教本だけではなく、事例を紹介すると思えば簡単なことだと思いますもの」
「……ならば次回の授業で提示しよう。本日の講義はこれまでだ」
盛大な溜め息とともに教師はヴィーチェの要望を聞き入れ、授業の終了を宣言する。彼が教室から出ると、教室内はざわつき、受講生は一気にヴィーチェへと視線を向けていた。
「先生に喧嘩売ってるのか、あれは……?」
「たかがゴブリンのことであそこまで訴える奴もそうそういないだろ」
声を潜めて話す内容はヴィーチェの行動をあまり良く思わないものばかり。
けれどティミッドは違った。彼女は授業を引っ掻き回してるつもりもないし、真面目に取り組んだゆえの行動と思える。ただ、ゴブリンに感情移入しすぎているだけなのだろう。
事実がどうであれ、先生相手と言えども真っ向から議論をするヴィーチェは何者にも屈することはない強さが備わっている。
周りからの好奇な視線を受けてもヴィーチェは教師に要求を飲んでもらったという結果に満足げな顔を見せていた。それがまたティミッドの胸を跳ねさせる。
彼女から目が離せない。こんな魅力的な人が現代にいるだなんてもはや信じられない思いである。
そんな彼女の心を手に入れられる人がこの世に存在するのだろうか。婚約者の第二王子しかいないのかもしれない。
◆◆◆◆◆
「へっくし!」
「なんだ、リラー。風邪か? お前でも風邪ひくんだな?」
一方その頃、狩りへと出る直前のリラがくしゃみをした。それを見た友人のアロンがへらへら笑いながらからかってくる。
「身体はピンピンしてる」
「あー、それじゃあ、あれか。おチヴィーチェがお前の噂話してるかもな」
鼻の下を指の背で擦るリラに向けてアロンはさらに茶化す。けれどもその線もありえそうだと思いながらリラは顔を顰めさせる。
「……本当にしてそうだから冗談でもそんなこと言うな」
「でもさ、おチヴィーチェのことだから『リラ様がいない生活なんて耐えられないっ! こんな所を抜け出してお嫁に行くわ!』って言いかねないだろうなぁ」
さらにリラをからかうアロンだが、リラは彼の頭を大きな手で鷲掴みにし、片手で持ち上げればメリメリと指に力を込めて締め上げた。
「だから、やめろって言ってるだろ!」
「あーーっ!! いででで! 馬鹿力やめろっての!!」
ジタバタと暴れるアロンが騒ぎ、仕方なくリラは彼を解放する。次から次へと余計なことを言うからこうなることにアロンは理解しているのかしていないのか、リラは不思議でならない。
「しっかし、しばらくはおチヴィーチェに会えないのはつまんねぇよな」
「お前は元からたまにしか会わないだろうが」
少しはお前も面倒を見ろ。そんな目を向けても相手は気にしないまま話を続ける。
「そりゃあお邪魔にはなりたくねぇし?」
「もう一度食らいたいか?」
見せつけるように拳を鳴らして圧をかけると、アロンは勢いよく両腕をクロスさせて首を横に振った。
「やだっての!」
「だったらくだらないことを言うな」
「ちぇー」
唇を尖らせるアロンにリラは溜め息を吐き捨てる。しばらくの間はヴィーチェのことを考えずにすむと思ったが、友人からヴィーチェの話題ばかり振られるので娘のことを考えない日は今のところない。
耳につくような自分の名を呼ぶヴィーチェの声だってまだ記憶に新しい。
早く学校とやらにのめり込んで自分との縁を切ってもらいたいと願うが、自分のこと誰彼構わず言い触らしてないか心配にもなる。……不安しかない。
周りがヴィーチェの言葉を信じていないようなのが幸いではあるが。
リラは空を見上げ、どこかでこの同じ空の下にいるヴィーチェのことを考えながら「頼むから、面倒なことだけはするなよ……」と祈るしかなかった。




