公爵令嬢は妻になる宣言をして侍女と父兄を困らせる
「運命の王子様はとても大きくてキレイな緑色のお肌をして、とってもとーってもかっこ良かったの!」
公爵令嬢が屋敷から脱走し、必死に探し回ってようやく捕まえることができた若き侍女のアグリーは、今度は逃がさないようにヴィーチェの手をしっかり握りながら公爵家へと向かっていた。その道中、小さな令嬢は自身に何があったのか熱く語り始めたのだ。
しかしそれはアグリーには理解できない内容である。それでも今までに見たことがないほど興奮する公爵家の幼い娘の言葉に彼女は疑問符を浮かべるばかりだった。
なぜ魔物をここまで美化して語るのか。森に入ったけどゴブリンに送ってもらったと聞かされるがゴブリンが人間に対して親切にするはずがない。むしろ無事でいられるわけがないのだ。
だからこそヴィーチェの話は子供の作り話か、夢の話をしてるのだろうと、アグリーは戸惑いながらも彼女の話を適当に相槌しながら耳を傾けた。
◆◆◆◆◆
「お父様っ、お兄様っ! ヴィーは王子様の妻になります!」
「「!?」」
その日の夕食のことだった。家族揃って料理を味わっている最中、七歳の娘による唐突の宣言にヴィーチェの傍に控えていたアグリーは驚いてしまう。
彼女だけじゃなく、当主であり子供達の父でもあるフレク・ファムリアントとヴィーチェの三歳年上の兄、ノーデル・ファムリアントも驚愕したようで二人とも手にするカトラリーを落とした。
「ヴィーチェ……今なんて言ったんだ? 妻になる?」
撫でつけるような黒髪に口髭を生やすフレクは青い顔でヴィーチェの言葉を聞き返した。
「えぇ、お父様! ヴィーは今日運命の出会いをしたのよ!」
「……。……その、王子様とは?」
黒髪の兄も驚きはするが表情に出すのはあまり得意ではない。おそらくまだ他の貴族と関わりを持たない妹の交友関係を思い出すためしばらく黙ったのだろう。しかし結局出てこなかったのか困惑しながらも妹に何者かを尋ねた。
その瞬間、待ってましたと言わんばかりの得意げな表情をするヴィーチェは「ふふん」と誇らしげに笑みを浮かべ声を上げる。
「その王子様はゴブリン様なの!」
「「!?」」
ヴィーチェのその言葉に再度驚愕する父兄は言葉を失っていた。アグリーもこのお嬢様はまたその話をするのかと盛大な溜め息を吐き出したい気分になるが、ファムリアント家に勤める侍女としてそんな失礼な姿は見せられない。
ショックを受けているのか、それとも理解に追いつかないのか、黙ったままのご主人とご子息に向けて、ヴィーチェは先ほどアグリーに語ったばかりの今日の出来事についてスラスラと口にした。
ゴブリン様がいかに凄いか、ゴブリン様がいかに格好いいか、ゴブリン様がいかに優しいかを語るが、まるで暗記したおとぎ話を披露しているように聞こえなくはない。
本物の王子様の話ならまだわかるだろう。しかしその話の中心人物は何度聞いてもゴブリンなのだ。血の繋がった二人は絶句している様子でさすがにアグリーも憐れだと思ってしまう。
「……アグリー。あとで執務室へ来なさい」
「は、はいっ。かしこまりました!」
同情するアグリーだったが、頭痛がすると言わんばかりに頭を抱えるファムリアント家の主に名指しされ、ビクリと肩を跳ねさせた彼女はすぐに返事をする。
おそらくヴィーチェが最近どう過ごしたのか聞いてくるのだろうとぼんやり予想するのだった。
◆◆◆◆◆
「……なるほど、魔物の森付近まで抜け出していたのか」
「申し訳ございません。まさかあそこまで遠くに向かわれていたとは思っておらず……」
夕食後、テーブルに置いているランプの明かりだけが灯す主の執務部屋にヴィーチェの侍女を呼び出したフレクはなぜ娘があのような発言をしたのかアグリーから聞き取りを行っていた。
だが彼女にも理由がわからないようで、ただわかることといえば本日の脱走の際に魔物の森の前で発見したあとからずっとあのような調子だったということ。
その報告を聞き、執務デスクに座るフレクは隣に立つ長男のノーデルとともに溜め息をつく。
「ヴィーチェの屋敷を抜け出す癖は相変わらずですが、七歳となるとそれなりに行動範囲も広がりますからね。お父様、とにかく魔物の森には入らないように強く言いつける必要があるでしょう」
「そうだな。アグリー、魔物の森についてしっかりと説明しておくように」
「かしこまりました」
「しかしヴィーチェがなぜあそこまでゴブリンに好意的なのかわからないな……絵本の影響か?」
血の繋がりのある家族であってもヴィーチェの言葉が真実とは思えなかった。おそらくは小さな子の作り話、フレクはそう信じて疑わない。
「お父様、ヴィーチェの読む本にはゴブリンが英雄のような扱いを受けるものはありません。そもそも児童書だろうとゴブリンは悪の象徴として描かれています」
「……ならば、悪に憧れているというやつか? 反抗期だろうか……いや、しかし」
ううむ、と唸る父。ヴィーチェのイヤイヤ期はすでに終わってしまったので思春期の反抗期にはまだまだ先のはず。反抗期の知識は一応備わってはいるのだが、ヴィーチェの心情がよく理解できなかった。
━━こんな時、亡き妻であり子供達の母、アンティがいたらもっと違ったのかもしれない。
妻アンティはヴィーチェを産んで一年足らずで病に侵され帰らぬ人となってしまった。そのため、ヴィーチェにはほとんど母の記憶がない。
そんな娘や幼い息子のためにも寂しい思いをさせないようにフレクは使用人達の手を借りながらではあったが、仕事に子育てに奮闘した。
赤子の頃からヴィーチェには沢山の玩具や絵本をプレゼントしたがそのせいなのか、想像力が豊かになり過ぎて絵本の世界に没入し、さらに自分の世界を作り上げたのかもしれない。
ままならない子育てにまたひとつ溜め息を吐き捨てる。
「……まぁ、まだ悪影響があるとは決まったわけではないな。反発や反抗をしてるわけではないのでしばらく様子を見てみよう」
「しかしお父様、今のうちに魔物がどのような存在であるかしっかりと理解してもらう必要があるかもしれません。所詮絵本は作り物、そのうち本物に会いたいと言いかねないでしょうし」
十歳にして落ち着きのある長兄が「しかも興味を抱くのがあのゴブリンなんて……」と付け加え苦言を呈する。
「それもそうだな。今のままで成長すると、ヴィーチェが世間知らずのお嬢様だと指を差される可能性もあるだろう。さすがに成人になってまでゴブリンの旦那になるなんて言わないとは思うが……」
今はまだ子供だからと思うものの、ちゃんと世間の常識を伝えなければ。夢見がちな子に育ってしまうのも問題である。
話が纏まろうとしていたその時、執務部屋の扉が勢いよく開かれた。室内の三人が慌てて訪問者へと目を向けると、そこにはすでにベッドで寝ていたはずのヴィーチェが立っていたのだ。
「ヴィーチェ!?」
「お嬢様っ! お目覚めになられたのですかっ?」
「お父様っ、お兄様っ、アグリー! ヴィーはぜーったいにゴブリン様の妻になるんだからねっ!」
どうやら話を聞かれてしまったらしく、ネグリジェ姿の娘はむすーっと不機嫌そうな表情をしながら再度宣言した。
「ヴィーチェ、そのゴブリン様……というのは魔物のゴブリンなのだろう? ゴブリンは悪いものだ。特に人間の女性に対して手荒いと聞く。蹂躙し凌辱するような奴らなのだから今すぐ考え直すべきだ」
ヴィーチェの作り話だろうとひとまずそこは指摘せず、駄目なことは駄目だと教えるところから始めるが、未だに困惑していたのかフレクの言葉選びが良くなかった。彼が気づいたときにはもう手遅れである。
「じゅーりん? りょーじょく? どーいう意味?」
知らない言葉にヴィーチェが反応してしまったのだ。これにはノーデルとアグリーも固まってしまう。
「その……なんだ。暴力的ということだ」
「だいじょーぶよ! ゴブリン様はヴィーを守ってくれたの!」
「それだけじゃなく、嫌がる子に沢山の子を産ませようとするんだ。それだけ恐ろしい存在ということを理解してくれ」
嘘ではないが言葉にしてから幼い子に聞かせる話じゃないのでは? とも思ってしまった。とはいえ少しはゴブリンの恐ろしさを知ってもらうためフレクは何とか伝える言葉を選んだのである。
そんな父の言いたいことが伝わったのだろうか、ヴィーチェは何か考えるような素振りを見せたあと大きく頷いた。
「わかったわ! ヴィー、ゴブリン様の子供を沢山産む!」
おそらく何もわかってないであろう幼子の発言。父は同じ気持ちになったと思われる息子と侍女とともに落胆の色を見せる。とはいえ直接的なことは言えないのもあるので、言い聞かせるのがここまで難しいとはフレクも思わなかった。
「そうじゃない……そうじゃないんだヴィーチェ……。ゴブリンの精力、いや体力だな。人間よりも体力があるのでヴィーチェには沢山の子を授かる前に疲労が溜まって死んでしまうかもしれないのだ。だからゴブリンはやめなさい」
「それならヴィーはたくさん体力をつけるわ! そうすれば問題ないわね!」
問題だらけだ! そう叫びたい父だったが輝くような娘の瞳を前にすると口が噤んでしまう。
そんなフレクの様子を見て結婚を許されたと思ったのか、ヴィーチェは「明日からがんばるね!」と声を上げて自室へと駆け出していった。
まるで嵐が立ち去ったあとのように残されたフレク達はヴィーチェの前向きさに頭痛を覚えながら何度目かの大息をつくのだった。