公爵令嬢は魔物の森にてゴブリンに恋をする
ヴィーチェ・ファムリアント七歳。かつて先祖が領地を栄えさせた臣民公爵家の令嬢ではあるが、公爵家一の問題児でもあった。
幾度となく屋敷を抜け出し、その度に侍女から料理人など屋敷で働く者総出で捜索が行われるのだ。
のちにヴィーチェが運命の日と口にするその日、幼子の彼女は遠くまで逃げ出した。
屋敷を抜け、近くの茂みに潜り込んでそのまま道ならぬ道を進む好奇心旺盛の彼女は、いつしか人の気配のない森の中まで進んでしまっていた。絵本で読んだ冒険者になった気分で。
ガサッ。
「!」
しかしここは小さな少女が一人で出歩くような場所ではなかったのだろう。なぜならヴィーチェが進んだ先に大きな猪型の魔物が現れたのだ。
生まれてこのかた初めて見る魔物。そしてその大きさは大人が見ても怯むほどである。
「あ……」
目が合うとヴィーチェは身体を強ばらせた。恐怖で足が動かない。このままでは食べられてしまうという恐れの色に染まると、魔猪はヴィーチェに狙いを定め突進しようとしたその時だった。
駆け出した魔物の頭上から大きな何かが飛び降り、そのまま脳天を強く殴りつけたのだ。その破壊力は相当なもので大きな猪の魔物が地面にめり込むほど。
その後、魔猪は動くことはなく、突然現れた者による一撃で仕留められたのだと理解する。
緑の体色を持つその者は猪とは違う別の魔物、ゴブリンであった。
種族が全く違うその人物にヴィーチェ・ファムリアントは雷が落ちるような衝撃を受ける。とても強くて格好いい、そう思うには十分であった。
止まらぬ胸の鼓動。この出会いを一瞬にして運命と感じ、一目で恋に落ちた。それはまだ幼い娘の初恋である。
「……人間の子供がこんな所で何をしてる? お前のような奴が来る所じゃない。死にたくないなら帰れ」
恐ろしくおぞましい声でギロリと睨むゴブリンだったが、恐怖に染まっていたヴィーチェの表情はいつの間にか消えて、襲われかけた魔物を仕留めた彼を輝くような目で見つめていたのだ。
「あなた、ゴリラ様!?」
「……違う」
なぜ熱帯森林に住む動物と間違われたのかゴブリンには理解できないように見えたが、ヴィーチェは気にせずに言葉をかけた。
「すごく! すごーくかっこよかった! ボカッてやっつけてすごい! 騎士様みたい!!」
「……」
ヴィーチェは未だかつてないほど興奮し、ゴブリンに近づいた。相手は少したじろいでいたのか一歩後ろに下がるも、彼女はさらに距離を詰める。
「身体もムキムキなのすごい! かっこいい! 好き! ヴィーの旦那様になって!」
「は……?」
「お父様とお兄様に紹介するわ! お家に来てっ!」
ぐいっとゴブリンの手を引っ張るが、ヴィーチェの力ではびくともしない。それでも少女は諦めることなく足を動かし続けた。
そんな勢いのままに行動するヴィーチェに何を思ったのか、ゴブリンと思わしき溜め息のつく声が彼女の耳に入る。同時にヴィーチェの手は軽く振り払われ、相手は目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「まだ子供だからわかってないだろうが俺は魔物だ。ゴブリンだぞ。お前など簡単に殺せる。とっとと泣き喚いて帰れ」
先ほどと同じように鋭く睨みつけるがヴィーチェはきょとんとしたあと「そうなのね!」と声を上げる。
「ゴブリンって絵本に載ってたわ! お姫様をさらうワルモノだって!」
「あぁ、そうだ。わかったなら早く━━」
「絵本と全然違う! 私を助けてくれた! ホンモノかっこいい!!」
「……はぁぁぁぁ」
キラキラした目でゴブリンを見つめるヴィーチェのそれは魔物であるゴブリンを恐れるどころかまるで王子様に向けるような熱視線。
ゴブリンは疲労感が現れるような深い溜め息を吐き捨てていた。
「何を勘違いしてるか知らないが俺はアレを狩っただけでお前を助けたわけじゃない」
「でもヴィーはケガしなかったわ!」
「結果的には、だ」
「つまり助けてくれた!」
「たまたまだ」
「助けてくれたお礼しなきゃ!」
「頼むから聞け……っ!?」
ヴィーチェの小さな手がゴブリンの両頬に添えるとそのまま背伸びをして唇にちゅっと小さな音を響かせる。ヴィーチェはお礼として子供らしくもある可愛らしい口付けをゴブリンに送ったのだ。
相手は驚いているようで固まっているが、少女は照れくさそうに「えへへ」と笑っていた。
「……もういい、俺は帰る。お前も早く帰れ。二度と来るな」
青ざめた様子で覇気がなくなったゴブリンがふらりと立ち上がり、息の根を止めた魔物の足を掴んで、ヴィーチェから背を向けるように引きずり始めた。
ヴィーチェは運命の人とも言える相手と別れたくなくて彼の後を追うが、それに気づいたゴブリンはすぐに足を止める。
「娘、お前の家に帰れと俺は言ったが聞いてないのか?」
「ヴィーの家はこっち!」
「絶っ対に違う!」
ヴィーチェの嘘はすぐに看破されてしまう。なぜわかったのかしら? と思ったのも一瞬だった。
「この先は俺の住む村だ。人間の住む所は反対のほうだろっ」
「そうかもしれないけど、夫婦は一緒に住むものよ!」
「待て。勝手に決めるな」
むふーっと鼻息を荒くするヴィーチェが当然と言うように答えるがゴブリンは眉を寄せていた。
「ちゅーしたら結婚するのが当たり前なんだからっ」
「人間の掟か? ゴブリンに押し付けるな……あぁ、わかった。迷ってどこに行けばいいかわからないんだな。仕方ない、出口だけ教えてやる」
頭痛でもするのか、頭を抱える様子のゴブリンは突然ヴィーチェを脇に抱えて走り出した。疾駆するその勢いに少女は悲鳴を上げた。もちろん歓喜のほうである。
「きゃー! お馬さんよりはやーい!」
「……」
ゴブリンに抱えられても怯えることなく、ヴィーチェはこの状況を楽しんでいたのだが、瞬く間に森の出口へと思わしき場所に到着し、その身を地面へと下ろされた。
「あ。お家だ」
まだ離れた場所ではあるが、自分の屋敷が見えたヴィーチェは「あれ、ヴィーのお家なの!」とゴブリンの下半身の布切れを引っ張るが慌てたゴブリンによりすぐにその手を払われた。
「いいか? この森には俺のような恐ろしいゴブリンがうじゃうじゃいることを忘れるなよ? 二度とこの森に足を踏み入れるなっ」
「また行けば会えるっ?」
「話通じてないのか?」
今のヴィーチェにとっては次はいつ運命の相手と会えるのか知りたかっただけだった。
しかしそんな二人のやり取りはここで中断となる。なぜならば遠くから「ヴィーチェお嬢様ー!!」と呼ぶ声が聞こえたのだ。
聞き覚えのあるその声はヴィーチェの家で働く侍女のもの。すぐに遠くからその姿を見せた彼女と目が合えば、侍女は急いで少女の元へ走り出した。
「はぁっ、見つけましたよ、お嬢様っ! こんな所まで抜け出して! 屋敷中大騒ぎだったんですから!」
ヴィーチェを発見した侍女が慌てて駆けつけ、息を切らしながらしゃがみ込むと、ヴィーチェの肩は彼女の手によって掴まれた。
森の中だからあまり気づかなかったがすでに日が暮れそうな時間。いつもより家に帰る時間が遅かったこともあってなのか、侍女の顔面は蒼白としていた。
しかしヴィーチェは「そんなことよりも聞いて!」と興奮状態で彼を紹介しようとする。
「あのねっ、この人ヴィーの旦那様……あれ?」
先ほどまで隣に立っていた兄よりも父よりも大きい緑色の彼がいなくなっていた。どこに行ってしまったのかと辺りを見回すが、あのゴブリンの姿はどこにもない。
「?」
「お嬢様、一体どうされたのですか? それにこの森は魔物が沢山住む森なので危険ですよ。早く帰りましょうっ」
「さっきここにヴィーの旦那様がいたの!」
「旦那、様……ですか?」
「うん。ゴブリンの旦那様!」
「!?」
その言葉を聞いた侍女は驚きのあまり声が出なくなったようだ。もっと詳しい話をしようとしたが、侍女が「早く帰りましょう!」と急かすので、ヴィーチェは彼女の手に引かれながら屋敷へと戻った。