ゴブリンは静かに落ちた
ティミッドにヴィーチェのことを真剣に向き合ってほしいと言われたすぐあと、彼は「申し訳ありません……少し熱くなりましたので、頭を冷やしに村を回ってみます……」と告げてリラから離れていった。
リラは彼の言うことは正しいと理解している。記憶がなくともおそらく普段と変わらないであろうヴィーチェに甘えていたのかもしれないと、そう考える。
(この曖昧な関係をちゃんとはっきりさせるべきだ)
ヴィーチェのことはおそらくこの先も好きにならない可能性が高いだろう。
再び好きになったら記憶が取り戻せるというならとっくにそうなっているはず。何せあの娘は色々と眩い。ゴブリンの身にはもったいないほどに。何なら引く手数多と言ってもいい。
やはり貴族の娘と魔物、そして年齢的にも差があることに引っかかりを覚えているに違いないと断言できる。
もしかしたら、なんて淡い期待を抱いたが、現実的な理性の方が勝るのだ。
例えヴィーチェが気にしていなくとも、歳上のリラの方が気にしてしまう。
(人間とゴブリンが添い遂げるなんて……やはりどうにも考えられない)
ティミッドの言う通り、ヴィーチェの想いに応える気がないのなら何度も突き放すべきなのかもしれない。そうしない方が不誠実なのだろう。
ヴィーチェのことは嫌いではない。ただ恋しいと思うほどの好意までには至っていないのだ。
人柄は悪くないのでできるのなら良き友人ではありたいが、おそらくそれすらもヴィーチェにとっては期待させる材料になるのかもしれない。
(もう一度……いや、ヴィーチェが諦めるまでしっかりと断るべきだったんだ)
そう決意した瞬間だった。
「リラ様~~!!」
娘がやって来た。その姿を見ると決意が揺らいでしまいそうなほど嬉しそうな表情をしている。
「リラ様っ、ティミッド様とのお話はもう終わったのかしら?」
「……あぁ、一応。村を見て回るんだとよ」
「そうなのねっ。ティミッド様もたくさんリラ様のお話を聞いてくださったからゴブリンの村が気になるのかもしれないわ」
いや、そんなことはないだろう。ティミッドはヴィーチェのことが好きだから話を聞いていただけに過ぎないのだと、リラはすぐにそう察した。
「ヴィーチェ、話がしたい」
「! えぇ! 私もリラ様とお話がしたいわ!」
世間話のつもりで目を輝かせるヴィーチェ。リラからしたら少しの罪悪感を覚えるので言葉にするのが躊躇われる。
「……記憶をなくしてしばらく経ったが、やはりお前のことを思い出せない、し……お前の気持ちは嬉しいが、俺には応えられる気がしない。だから、お前はもっと別の相手を見つけた方がいい。俺に時間を費やすな。もったいないだろ」
なぜかリラの胸がぎゅっと締めつけられる。言葉に偽りはないのになぜこんなにも気が重いのかわからない。
「俺に一切の期待をするな。僅かな望みを懸けるな。お前は醜いと言われるゴブリンではなく同じ人間の、もっと歳の近い奴の隣にいるべきだ」
頼むからわかってほしい。例えヴィーチェの諦めが悪かろうが、今回ばかりはリラも諦めるつもりはなかった。
静かに吹く風がやけに大きく聞こえる。明るいヴィーチェの声が発していないからなのかもしれない。
「リラ様」
ヴィーチェは微笑んだ。それはファムリアント家に飾られていた絵画と呼ばれる色がついた絵よりも美しくて愛らしい表情をしていた。
思わず見蕩れてしまう。そう感じたのだが、ヴィーチェは突然動いた。
「私を受け止めてっ!」
「は……? ━━って、おいっ!?」
いきなりヴィーチェが飛びかかってきた。それはもう魔猪のごとく勢いで。むしろ攻撃でもするのかという突進と言ってもいい。
子供なら簡単に抱き留めただろう。いや、今も子供といっていい年齢だろうが、身体は人間の成人に匹敵する。
リラの反応が遅いのもあってか、上手くヴィーチェを受け止めることができず、そのままなだれ込むように押し倒された。
「なん、なんだよ……いきなり……」
仰向けになりながら困惑するリラの視界に、こちらを見下ろすヴィーチェの顔が映った。
リラの身体を跨って、ふふっと笑う彼女に悪びれる様子はない。
「リラ様っ、こうして私を受け止めてくださるのなら絶対に私の想いも受け止めてくれるはずよ」
「受け止めたんじゃなくて押し倒されたんだよ……」
「でも私を拒絶してないわ。リラ様がお優しいからでもあるのだけど、心を開いてくださってる証拠よ」
「……あのな、別に俺はそこまで深く考えてない。ポジティブに意味を持たせるな」
はぁ、と軽く溜め息をつく。だが、わかったことがある。娘に押し倒された状況でも感情はあまりに静かだった。
普通ならば少しでも気があれば胸が騒ぐのだろう。しかしそれがないということはやはりこの娘をそういう目で見られないのだ。
「リラ様、不安なのね。でも安心して。私の身分が気になるのならファムリアントの姓も貴族としての肩書きも全てを捨てるつもりだし、人間という種族が引っかかるのなら悪魔の力でも何でも利用して同じ種族になることも厭わないし、年齢差が足枷となるなら今が一番若いのだから今からでも添い遂げましょう!」
次から次へと口が回る。その熱量は出まかせじゃない。心から本気で訴えているのだ。
リラと一緒になるために何もかも捨てることができるヴィーチェ。やはりその言葉と感情は重く、リラの身と心にも重圧として伸しかかる。
「お前な……」
「リラ様、心配ごとは全部私が吹き飛ばすわ。リラ様をたっくさん幸せにもするから安心してもう一度恋をしましょう!」
まるで求婚のような殺し文句。迷いのないその勢いにリラは飲まれそうになる。
少し前だったら理解できず、恐れすら抱いたヴィーチェのその言動は今ではどこか微笑ましさすら感じた。
「俺が幸せにされるのかよ……。お前の幸せはどうするんだ?」
「私の幸せはリラ様と一緒にいることよ。だからすでに幸せだわ」
ゴブリンと一緒にいることが幸せとは貴族の娘のくせに安い幸福感だ。
(そう言われるのは嬉しいが……どうしても感情は追いつかない)
元の自分なら今のヴィーチェの言葉にもっと胸が高鳴っただろう。だが、今の自分にはそこまでには至れない。リラは申し訳なさの方で胸がいっぱいになる。
「ヴィーチェ、悪いが……」
「大好きよリラ様っ! この想いはずっと燃え尽きないわ! それだけリラ様のことを愛してるんだものっ」
恥ずかしげもなく、それでいて真っ直ぐな告白。記憶がなくとも何度か耳にした。
とびきりの笑顔を見せるその表情は幾度かリラの胸を熱くさせる。そして彼はようやく気づいたのだ。
(━━あぁ、もしかして俺はこの笑顔にやられたのかもしれない)
星屑でも閉じ込めた宝石のような輝かしいその瞳。暗い気持ちさえも追い払うような太陽の暖かさを感じるその笑み。触れてしまえば身を焦がすのは確実だと言い切れるほどの豪炎のような愛情。
きっと、最初に目を奪われたのは、眩むような笑顔。かつての自分はそれで落ちたに違いない。
何度拒もうとも抗えない。身体が、封じられた心が焦がれている。
そしてリラは自覚した。落ちたのだと。その音はあまりに小さく、葉の露が静かに池に落ちて波紋を作るような、極めて自然で些細な変化でしかなかった。
初めてならばいつそうなっていたのかわからなかった。しかしこの感覚が二度目だからこそリラは気づく。
恋に落ちるとはこんなにも気づかないものなのか、と。
「っ……!」
その瞬間、かち割られるような頭の痛みに苛まれ、リラは顔を顰めた。
「リラ様? どうされたのっ?」
苦痛に歪む顔を見たであろうヴィーチェの心配げな声が耳に入る。脳に届く。そして記憶が呼び起こされた。
ずっと靄がかった人物の顔がようやくはっきりしたのだ。やはり今まで失っていたその人物は紛れもなくヴィーチェである。
消えてしまった記憶が頭へと急激に流れ込むせいで情報量が半端なく、酷い頭痛を引き起こすので小さく呻くことしかできない。
「リラ様っ! 頭が痛むのねっ? 待っていて、今すぐお医者様を━━」
「ヴィーチェ」
立ち上がろうとしたヴィーチェの手を掴み、彼女によって押し倒されたその身を起こしたリラは自分の膝の上にヴィーチェを座らせた。
「リラ様?」
「……記憶が、戻った」
顔を俯かせて、その身体に似つかわしくないほどのか細い声で呟いた。
自分でも自信がなかったから。もしかしたら気のせいかもしれない。だからヴィーチェの顔が見られなかった。
ヴィーチェの記憶はしっかりと思い出したつもりだが、もし目を合わせて、やはり何も感じなかったら……と思うと今度こそヴィーチェへの気持ちはそれ以上芽吹くことはないだろう。
それでも意を決してリラは顔を上げた。
「……本当に?」
そこには大きく目を開いて驚きの色を見せるヴィーチェがいた。
静かに頷けば、この上ない幸せだと言わんばかりにほんのりと赤く染まる頬と、楽園の光のごとく暖かな笑顔を向けられた。
「っ……」
胸も身体も沸騰するように熱が上がった。なぜこの娘を前にしてこの感情を忘れたのかが不思議なほど、心臓は鼓動を増していく。
「嬉しいわリラ様っ! 私達の愛の力で記憶を取り戻せたわけね!!」
恥ずかしいことを大きな声で言うな。そう口にしようとしたが、ヴィーチェに抱きつかれてしまい、リラは言葉を噤む。
思えば記憶がないとはいえ、ヴィーチェには悪いことをした。不愉快な物言いをした自覚もあるし、何なら大事な日を━━。
「おっ。記憶が戻ったっておチビちゃんが叫ぶから来てみりゃ、さっそくイチャついてんなー」
リラとヴィーチェの前に屈んでニタニタと笑みを浮かべるアロンが呟いた。
こいつ、いつの間に……。そう思いながらもヴィーチェに抱きつかれて身動きが取りづらい状況ではあるが、確かに仲睦まじく戯れているようには見えなくはないので、リラはカッと顔が赤くなる。
本当ならば「いつまでくっつくつもりだ!」とヴィーチェを無理やり剥がしにかかっていただろう。
しかし記憶を失ったときの事を思うと償いというわけではないが、これくらいは受け入れなければヴィーチェに悪い気がした。
「くそっ……あとで覚えてろよっ!」
リラは恥ずかしさに耐えつつぐっと堪えながらアロンを睨みつけた。




