ゴブリンは怒りに任せて拳を振るう
「ヴィー……チェ……?」
もう一度娘の名を口にするが、やはり反応はない。生々しく胸元に突き刺さるナイフを見てリラはドッと嫌な汗が吹き出た。
嘘だろ……? そう呟きながら一歩、また一歩とヴィーチェの元へ近づくが、この惨状に似つかわしくない笑い声が響いたためその歩みは止まる。
「ダッハッハッハ! ずいぶんと呆気ないなぁ? もっと粘ってくれるかと思ったのによ!」
今までのどんな言葉よりも頭にきた。プツンと何かが切れた感覚もある。
一気に頭の血が上ったリラは大笑いする兄の横っ面に目掛けて思い切り拳を振るった。
血管が浮き出るほどに強く重たい一撃は、頑丈だったオルガが吹っ飛ぶくらいの威力。
「……っ、ようやく本気になったな? これで心置きなく━━!」
体勢を立て直すようにすぐに立ち上がったオルガの言葉を待つつもりはなかったリラは続けてもう一発殴る。
さらにもう一発入れようとしたが、オルガがその拳を受け止めた。口の中でも切れたのか、相手は血をペッと吐き出してリラを睨む。
「まさか本気どころかマジギレしちまったのか。理性のねぇ獣に成り下がるとはよぉ……たかが人間の女ごときで」
確かに激昂したリラだったが、オルガの言葉が耳に届かないわけではない。
ヴィーチェのことを“たかが人間の女”と評するその言葉がまたリラに激しい怒りを募らせた。
「俺にとっては……そうじゃない!」
空いてる方の手で再度拳を作って兄の顔面へと狙うが、オルガに読まれていたのかやすやすと受け止められる。
「いい加減に目を覚ませ!! 人間に騙されて情けないと思わねぇのか!」
両方の拳を掴んで攻撃を防いだ状態のオルガはそのまま指先に力を入れてきた。握力だけでリラの手を潰す勢いのようで、リラの拳から骨の軋む音が聞こえる。
「ゴブリンを下に見てる人間と本気で付き合えると思ってるならただの馬鹿でしか━━がっ!」
リラに言い聞かせるように顔を寄せたオルガに向けて今度は強い頭突きを食らわせた。
両手が塞がれようと攻撃手段はいくらでもあるが、兄がそこまで読めなかったのはリラを軽く見ている証拠なのかもしれない。
侮っているのならそれを逆手に取るだけなのだが、リラはただただ怒りに任せて兄へさらなる攻撃を与えることに集中した。
リラの手を離し、鼻を押さえて怯んだオルガに飛びかかる。そのまま押し倒し、馬乗りになったリラはひたすら顔面に向けて拳をぶつけた。
何度も、何度も。力加減なんて一切しない。そもそもそれができる相手でもないのだ。
昔はあんなにも憧れる対象の兄だったが、今では殺意すら覚える。ヴィーチェに危害を加えたオルガが死ぬほど憎いのだ。
兄の血が頬に飛んだ気がする。手も赤に染まっている気がする。だがそんなことはどうでも良かった。
オルガを殴りながらも、ナイフが突き刺さった状態で倒れるヴィーチェの姿が何度もフラッシュバックする。
本当ならば手当てをするためにヴィーチェの元に駆け寄るのが正解かもしれない。しかしリラにはそこまで手早くできる自信もなければ、ヴィーチェの生死を確認する心の準備もできていなかった。
もしヴィーチェが即死だったら、そう考えるだけで怨念の火が灯る。
だから原因となった目の前の男に暴力を振るうことしかリラにはできない。
理性のない獣と言ったオルガの言葉もあながち間違いではないと心のどこかで思いながら。
そうしているうちに後ろから自分の名を呼ぶ声が耳に入ってくる。仲間達の声だろう。
オルガを殴る手を止めさせようとしているのか、それともヴィーチェに最悪の事態が起こったのか、どちらにせよまだ抵抗しようとするオルガの意識がある限りこの拳は止められなかった。
こいつだけは許せない。許してたまるか。
もはや周りが見えなくなっている。自覚もある。今までにない怒りに頭から身体まで支配されているようだ。
とはいえこれは八つ当たりとも言える。ヴィーチェを守れなかった不甲斐ない自分への。
もっと早く兄の矛先に気づいていれば。そうすればヴィーチェはああはならなかった。
もう誰にも憤懣をぶつける手を止められない。例え仲間であろうと。自分ですらどうすることもできないのだ。そう思っていた矢先だった。
「リラ様」
その声を聞いて振り上げた拳がピタリと止まった。
これは幻聴か。そう思って顔を上げると、そこには馬乗りになるリラの目線に合わせてしゃがみ込んだヴィーチェの姿があった。いつもと変わらぬニコニコした表情で。
「……幻、か?」
そうでなければおかしい。いくらヴィーチェとはいえ、ナイフが刺さって無事なわけがないのだ。だとするとこれは幻覚と考えるのが普通だ。
それとも死んだから化けて出たというゴースト化かあるいはアンデッド化したというやつなのだろうか。どちらにせよ、その姿は生前とは変わらぬ華やかさがあった。
「リラー! おチビちゃんは無事だから安心しろよー!!」
そこでようやく仲間の声がしっかりと耳に入った。
ヴィーチェが無事……? だが、確かにナイフが胸元に刺さっていた。見間違いではなかったはずなのでリラは困惑する。
ヴィーチェの衣服だって胸元にナイフが刺さってたであろう生地の破れだってあるのだ。
「……どういうことだ?」
「リラ様にいただいたこちらのペンダントが守ってくださったの」
そう言って、ヴィーチェは衣類に隠れていたペンダントを首から外した。
確かにそれは以前リラがヴィーチェの誕生日プレゼントにと用意したクラウンウルフの牙でできたアクセサリーである。
狼の牙は魔除けになると人間の書いた図鑑で知ったルナンに教えてもらい、リラは大きくて丈夫そうなクラウンウルフの牙でお手製のペンダントを作ってヴィーチェにプレゼントした。
その牙の部分がナイフの切っ先を受け止めたらしく、ヒビが入っていたのだ。
「そうか……無事なんだな」
ヴィーチェが生きてる、それだけで酷く安心した。二度と目を覚まさなかったらと思うと生きた心地すらしない。
安堵の喜びからかヴィーチェへと触れようと手を伸ばす。
抱擁か、頬に触れるか、とにかく彼女の生を実感したかったが視界に入る己の手を見て中断した。
兄を暴行した際についた血液。思いのほかその量は多く、オルガは鼻や口から血が垂れていた。瞼は腫れ、頬も大きな痣になっている。
兄をそんな姿にさせるまで暴力を振るったその手はべったりと赤黒い血で汚れていて、こんな手でヴィーチェに触れるわけにはいかないとリラは自身を戒めた。
「……ッハ、ハ。恐ろしい男に成長したもんだな……人間の女ごときに理性すら操られてるってか……?」
抵抗さえしなくなったものの気絶してもおかしくはないほどのダメージを受けたというのに、息絶え絶えではあるがオルガの口はまだ動く。
こいつ、まだヴィーチェのことを悪く言うつもりかとカッとなるが、同時に火花の音が聞こえたのでリラはヴィーチェへと目を向ける。
「リラ様に手を上げただけじゃなく、リラ様への暴言、そしてリラ様からのプレゼントにまで傷をつけるなんて……罪深い方だわ」
ヴィーチェの表情が見えない。なぜなら俯くようにオルガを見下ろしているからだ。しかし声色と弾けるスパーク音によりヴィーチェが怒っていることは確かだと理解する。
オルガだけはヴィーチェの顔が見えていたはずだ。それを見て何を思ったのかピタリと固まっているようだった。
しかし次にリラが見たヴィーチェの表情はいつもと変わらぬ笑顔だった。
「リラ様。手に怪我をされているからこれ以上の制裁はやめておいた方がいいと思うわ」
そう言われ「怪我……?」と口にするリラだったが、もしかしてオルガの血がついた手を見て勘違いしているのかと思った。
だが、怒りが落ち着いた今ならわかる。手に若干の痙攣と痛みを感じたから。
オルガに拳を掴まれた際に骨の軋む音が聞こえたからヒビが入った可能性があった。そして怒りに任せ殴り続けた結果骨が逝ったのだろう。力の入らない指がある。
「お望みでしたら私が代わりを引き受けるわ。これ以上リラ様の手を汚すわけにはいかないもの」
言葉こそ柔らかいが、オルガを痛めつけると言っているようなもの。そんなことをさすがにヴィーチェにさせるわけにはいかないのでリラは首を横に振る。
「もういい。ひとまずこいつらを縛りつけてこれからどうするか考えることにする」
「それでしたら私がお手伝いするわっ。バインド」
任せてと言わんばかりにヴィーチェはオルガとその仲間達に拘束魔法を放った。
魔力でできた縄のようなものがオルガ達の身体に巻き付き、彼らの動きを封じる。
これなら逃げることもないだろうと安心したリラは馬乗りするのをやめて立ち上がった。
「……そこまでできるのか」
「何だかできそうな気がしたの。でも回復魔法は全然使えそうにないわ。リラ様を癒すことができないのは残念なのだけど……」
うーん、と悩ましげに話すヴィーチェだったが、リラにとっては回復魔法の有無など関係なかった。
「別にこんなのは寝とけば数日で治る。気に病むほどでもないだろ」
何本か骨が折れてしまったであろう手をひらひらさせる。
リラの言葉は嘘ではない。ゴブリンは回復力が高い方なので他の仲間なら一週間、身体能力が高いリラなら回復力もさらに高くて数日もあれば完治するのだ。
「さすがリラ様だわ!」
ヴィーチェの魔法に比べたら大したことではないが、と思いつつも彼女に褒められ慣れたリラはそれこそがヴィーチェだと素直に受け入れる。
それにヴィーチェに褒められるのは悪くないのだ。
「俺なら一日で治すがな」
ヴィーチェとの会話に割り込むように、そして水を差すように拘束魔法をかけられたオルガが身体を起こして口を挟む。自分の方がリラよりも上だと言いたいのだろう。
「さっすがお前の兄貴は丈夫だな。雷に打たれても、ボッコボコにされてもまだ動けそうだ。おチヴィーチェ、暴れないようにもっとギッチギチに縛った方がいいんじゃね?」
アロンが呆れるように言うとヴィーチェもすんなりと「それもそうね」と頷き、さらに拘束魔法を重ねがけした。
二重にも三重にも魔力の縄にグルグル巻きにされた兄だが、すでに諦めているのか暴れるどころか抜け出す素振りも見せない。
「そんなに警戒しなくてもいいだろ。もう勝負はついてんだからよ。侮っていたとはいえ俺はリラに負けた。敗者は大人しくするもんだ」
あれだけ自分達の仲間になれと言ったり、人間に報復させようと思想を押しつけたりしていたわりにはずいぶんとあっさり身を引くんだな。
そう思っていたがオルガは話を続ける。
「ところでリラ。その人間の娘を俺の第三の妻に欲しいがいいか?」
不敵に笑うこの男は何を言っているんだ。人間差別をしていた兄が手のひらを返す以上の発言をしたことにカチンときたリラは、もう一度殴ってやろうかと負傷した手に無理やり力を入れて拳を作った。




