悪魔は公爵令嬢の命を狙い、屈服する
悪魔アンドラスは早急に今回の契約を遂行したかった。元々、ヴィーチェの魔力量に惹かれて自らこの世界に現界した彼だったが、契約を断られたのが全ての始まりである。
膨大な魔力を持っている者はそのほとんどが欲深く、悪魔の力を欲してもおかしくはない野望を持っているもの。
ヴィーチェの魔力量は数百年に一人くらいの珍しい存在だった。だからこそ自分から売り込むくらいにヴィーチェと契約し、その魔力を啜りたかったのだ。
さぞかし美味い魔力だろう。どんな内容でも構わないから契約して食らってみたかった。
ヴィーチェの取り巻く状況から判断して、毒で死にかけのゴブリンを救うというとても簡単な願いを叶えてあげようとしたが、獲物はそれを拒んだ。いや、最初は食いつきそうだったが、ゴブリンごときが邪魔をした。
ヴィーチェもすぐにゴブリンの判断に従うものだから何度契約を訴えても靡かない。
それどころか『そもそも私はあなたを呼んですらいないので、お次はちゃんと魔法陣から出てきてくださいね』と言われる始末。その言葉がアンドラスのプライドを傷つけた。
悪魔が自ら契約を持ちかけるのはほとんど有り得ないのに。その価値もわからない人間に馬鹿にされ、帰るように言われた。それがずっと腹立たしくて仕方なかったのだ。
どうにかあの娘に復讐したい。そう思うくらいには気に食わなかった。
ところがすぐに転機が訪れる。自分を指名する呼びかけを察知したからだ。魔法陣が上手く描けている上に術者の魔力量も必要最低限を満たしていたためである。
あとは悪魔が呼びかけに反応するか否かだけ。ひとまず魔法陣を通して術者の望みや心の深層を覗き込む。
面白いことにヴィーチェを消し去りたいという欲を見出した。これはアンドラスにとってチャンスでもあり、利用しない手はないので、すぐに召喚に応じた。
リリエルとの契約もあっという間だったが、あえて文句を言うのならリリエルの魔力はそんなに美味しくないこと。とはいえ魔力の好みは仕方ない。ご馳走にありつけることなんて滅多にないのだ。
だからこそ適当に契約者であるリリエルを自由にさせ、ヴィーチェに仕返しをしたあと、頃合いを見てリリエルを殺せばいい。そう考えていた。
悪魔との契約には必ずしも契約者の願いを叶えなければいけないということもなければ、契約者の命を大事にしなければならないというルールはない。飽きたら殺すし、命令も全て聞く必要はない。悪魔との契約は契約者のためではなく、あくまで悪魔のためのもの。
いよいよヴィーチェに仕返しができるところまできた。自分と契約しなかったことを後悔させてやろうと意気込みながら。もし運良く生きていればもう一度契約を振ってみてもいいかもしれない。今度こそ考え直すだろう。
……と、思っていたのにまた邪魔が入った。しかもあの日と同じゴブリンだ。
二度も邪魔をされてたまるか。そんな気持ちでアンドラスは速やかにゴブリンを始末しようと攻撃の準備をし、走った。
一撃で仕留めようと、相当な自信を持ってアンドラスは口端を吊り上げた。実際にアンドラスの力はリラほどの実力者であろうと一瞬で葬り去ることができる。
「そこの死に損ない! 早く私の契約者を解放し━━」
「いったい、どなたに向けて手を出すつもりかしら!!」
予想外の出来事さえなければ。
「なっ……━━ぅぐッ!?」
一瞬のことだった。後ろからアンドラスを追いかけてきたヴィーチェに後頭部を掴まれ、床へと強く叩きつけられた。その勢いは大きな衝撃音とともに大理石にめり込むほど。
アンドラスは困惑した。ヴィーチェの素早さに、その力強さに。いくら油断をしたからといって、隙を突かれたとはいえ、悪魔が人間に後れを取るなんてあってはならないこと。ましてや貴族の小娘なんかに。
「き、さまっ……この私を床に這いつくばせたことを後悔させてあげますよぉ!」
頭を上げるとボタッと赤い液体が流れ落ちた。鉄臭さも感じる。額と鼻の奥から液体のようなものが流れていると気づいたアンドラスは、ようやく自身が額と鼻を負傷したのだと理解した。
悪魔は頑丈である。この程度の物理攻撃を食らっても無傷のはずなのに、身体はダメージを受け、痛覚も働いた。
身体強化魔法でも使用して取り押さえられてるのかと思ったが、ヴィーチェが魔法を口にした声も聞こえなかった。
ならば無詠唱? しかしこの娘はつい最近魔力に目覚めたばかりで魔法に関しては赤子同然のはず。それ以外に考えられることといえば、この力こそが魔法に頼らないヴィーチェの実力ということだが、それこそ有り得ない。非力な人間の力で悪魔を押さえつけるだなんて、そんなのもはや化け物ではないか。
そもそも貴族の令嬢が悪魔に手を出すというこの現状がすでにおかしいのだ。人間の娘に抑え込まれたというより、獣に抑え込まれたという方がしっくりくるだろう。
なんだこれは。なんだこれは。心臓の鼓動が速くなる。そんな焦りが生まれたアンドラスはヴィーチェの手から逃れるため動こうとするが、身体が動かなかった。上に覆い被さるヴィーチェの力に押し負けているのだ。それどころか上げた頭を再び床へと強く押しつけられた。
「後悔……? それはこちらの台詞ですわ。リラ様を手にかけようだなんて私が許すとお思いで?」
言いようのない強い悪寒が走った。悪魔をも従わせるような威圧。
ドス黒い闇に染まるような得体の知れないオーラが肌にひしひしと感じた。まるで悪魔の王を思わせる。ただ魔力が強いだけの人間ではなかったのか? 自分を取り押さえる娘ははたして本当に人間なのか? そんな疑問さえ浮かぶほど、アンドラスはヴィーチェに恐怖心を抱いた。
その魔力のせいなのか、バチバチと火花を放つ可視化した魔力の音が耳に入る。次第に激しさを増すのだから多量の魔力が放出されているのだろう。ならばすぐにでも枯渇し、娘を払い除けることができる。アンドラスはそう信じていた。
(……おかしい、全く魔力が切れない)
可視化するほどの魔力を放出したらどれだけ魔力量が多くても数分で魔力切れを起こして倒れるはずなのに、ヴィーチェにはその気配が感じられない。
魔力が底なしの人間なんているはずがないのにどういうことか。魔力は空気中に漂う魔素を身体に取り込み、ゆっくりと自然回復するか、魔素を液体化した魔力回復薬を頼るしか取り戻す方法はないはず。今のヴィーチェには回復薬を口にしているわけもないのに。
その時、アンドラスはハッとした。もうひとつの可能性に。ごく稀に昂った感情が魔力とリンクし、周りの魔素や魔力を吸い取る特異体質の存在を。
まさかこいつがそうなのか。そんな馬鹿なことがあるのか。信じられない。しかしそれしか考えられなかった。混乱していて気づくのが遅くなったが、ヴィーチェから一番近い自分の魔力の減りが著しく早いのだ。
魔力量が多いだけでなく、さらに特異体質持ちだなんて千年か二千年に一人くらいの確率と言える。
怒りが引き金となったヴィーチェによってアンドラスの魔力が奪われ続ける。このままでは枯渇して命に関わるだろう。
「お、お待ちいただけますかぁっ? 私は契約者の命令に従っただけでぇす! どうか命だけはっ……!」
「おかしなことを仰るのね? まるで私があなたを殺めるみたいだわ」
言葉の端々に怒気を感じる。怒りが収まる気配がないのは間違いない。殺めるつもりはないと言いたげだが、本人が無意識なだけなのか、ただの無知なだけなのかわからないけれど、このままでは確実に消滅させられてしまう。
そのような未来が近づいてることに気がついたアンドラスはみるみるうちに血の気が引いた。
「あなたの大事なお方に手を出そうとしたことは猛省しておりまぁす! お望みならば彼女との契約を破棄し、すぐさま退去いたしますのでお怒りをお鎮めいただけますかぁっ!?」
「はぁ!? 何言ってんのよあんた! 私が呼び出したのに勝手なこと言わないで!」
リラに羽交い締めにされたリリエルが暴れながら訴える。リラの力には適わないらしく彼から抜け出すこともできない。そんなリリエルの言葉を無視するようにアンドラスは言葉を続けた。
「私の胸ポケットに契約書がありますのでご確認くださぁい!」
「あら、ご親切にありがとう」
少しだけ怒りが和らいだ気がした。しかし魔力が枯渇しかけるアンドラスにとってはまだ気が抜けないし、ヴィーチェの手から抜け出す力も出ない。
ヴィーチェは言われた通りアンドラスの胸元のポケットへと手を伸ばし、リリエルとの契約書を抜き取った。
「こちらね?」
「はいっ! 破るなり燃やすなりお好きにしていただければぁ! そして、お手を離して私を解放してくださぁい……これでは、帰るに帰れず……」
「本当にリラ様には手を出さないと誓ってくださる?」
「もちろんでぇす!!」
最後の力を振り絞るほどの大きな声で返事をした。早く解放してもらわないと全ての魔力が吸い取られ、この身が崩れ落ちてしまうから。
「ご理解いただけて何よりだわ」
にっこりと笑いながら取り押さえていたヴィーチェの手が離れる。彼女の周りを纏っていた魔力の電流が消え去ったところを見ると怒りも落ち着いてきたのだろう。
魔力を奪われていなければ反撃できたが、それどころではない。アンドラスは一刻も早くこの地から逃げ出そうと、ふらつきながらも立ち上がった。
「寛大な、心……感謝いたしま、す……」
ギリギリでの解放だった。あと一分でも遅かったら心身ともに脆く崩れていただろう。最後までヴィーチェの機嫌を損ねないようにアンドラスは気を遣いながら、胸元に手を当て頭を下げた。立っているのがやっとな状態なので身体は小刻みに震える。
そして悪魔は二度とここに来るものかと胸の内で叫び、約束通りその場から消え去る準備に入った。
━━それにしても随分と惜しい人間だった。
アンドラスは自身が消える間際にそう思った。ヴィーチェのように魔力量が膨大で、さらに感情の爆発により周辺の魔力や魔素を奪う特異体質の人間と契約できれば、悪魔としての力も底上げが可能となり、三日もしないうちに世界を滅ぼすことができたかもしれない。
それをやり遂げたら悪魔界でも伝説になっただろう。それだけの可能性をヴィーチェは秘めていたし、性質的にも悪魔に近いはずだというのに、なぜ彼女はこちら側に来ないのか疑問である。しかしその答えは考えるまでもなく、全てあのリラというゴブリンのせいだろう。
きっとヴィーチェを支配し、手綱を握るのは彼しかいないのだと、アンドラスはリラをそのように評価した。
そんなアンドラスが最後に見た光景はヴィーチェが契約書を破る姿だったので「えっ」と思ったと同時に背筋が凍ってしまう。
確かに破ってもいいと言ったが、悪魔の作り出した契約書はそう簡単に破ることができないのだ。薄っぺらい柔らかな用紙のように見えるが、簡単には破棄できないように石のように硬くできている。ただ火には弱いので燃やすのが一般的だった。
それをいとも簡単に破るのだからあの娘はやはり化け物かもしれない。そう思う他なかった。




