はなとクー
現代に生きる全ての人に、ぬいぐるみのクーが癒しを施します。
もふもふふわふわな世界を、お楽しみください。
夜10時、東京某所。
この街が闇に包まれる日は無い。
駅前の高層ビル6階に、パソコンのキーボードを叩く音が聞こえる。そして深いため息も。
「はあ、部長め。これ今日中って無茶ぶりしやがって……」
恨めしそうな独り言を呟くのは、この会社に務めて3年目の久遠花。
黒い髪を一つにまとめ、ブルーライトカットの眼鏡をかけてパソコンの画面と睨めっこをしている。
カタカタとキーボードを叩く手の動きは止まることを知らない。早く帰りたい一心で、3時間前からとある仕事を片付けていた。
周りにいた同僚も上司も既に皆帰ったあと。フロアには花一人だ。
「よし、これで……。ああっ、やっと終わったぁ」
メールを送信し終えた花は、思い切り伸びをしてのけ反った。肩から首にかけてガチガチに固まってしまっている筋肉を解すように、頭を右に左に動かす。
さすがに今日の仕事は疲れた。いつもはこんなに残ることはないのだが、帰ろうとしたところに昨日納品した分のクレームが入ってしまったのだ。
帰る前に花がお茶を飲もうと足元のカバンに手を伸ばした時、付けていたクマのぬいぐるみのバックチャームがひとりでに揺れた。
花は誰もいないとわかっていながらも念の為周りを確認してから、クマをカバンから取り外して手の上に乗せ「いいよ」と小さく呟いた。その瞬間、クマがブルブルと震え、光を放つ。眩しさに目を細めた花の目の前で、座っていたクマはひとりでに立ち上がった。光がおさまった頃、花の手の上のクマはひとまわり大きくなっていた。
ぱちり、と黒い目が瞬く。栗色の毛の、ぬいぐるみのバックチャームのはずだったクマは、花を見上げて可愛らしく笑った。
「はなちゃん!」
「クーちゃん、ごめんね、まだお家じゃないの」
「しってるよ!はなちゃん、またあの黒いおじさんにいじめられたの?」
ぱたぱたと両手を動かして、クマのぬいぐるみがぎこちなく喋る。花はそのぬいぐるみをクーと呼んだ。
「部長だよ、クーちゃん。虐められてないし、もう帰れるから」
「あ、まってまって」
クーが立ち上がろうといた花を呼び止める。振り向いた花に向かって、クーはその短い腕をぐーんと広げて満面の笑みを見せた。
「はなちゃんお疲れ様っ。クーがぎゅうってしてあげるっ!」
愛らしいその姿に、花は思わず吹き出してしまった。
「ありがとう」
花が手のひらの上でハグ待ちをするクーをそっと自分の頬に近付けた。クーは花の頬をきゅっと抱きしめ頬ずりする。
「んふふ。くすぐったい」
「はなちゃん今日も頑張ってえらい!えらいえらいえらいぃーっ」
「あはは、くすぐったいって」
クーのふわふわな毛糸のような肌が、優しく花を癒していく。ついさっきまで感じていた疲れも苛立ちも、もうどこかに吹き飛んでしまった。
クーはいつもいい匂いがした。作り物の香水なんかではない。自然の野に咲く花のような、優しい匂いだ。花はその匂いが大好きだった。
花は机上の時計を見て、少し慌てた。もう10時を過ぎている。明日も仕事だ。早く帰らなくては。
「クーちゃん。もう帰るからカバンに戻ってくれる?」
「ええ」
「これじゃいつまでも帰れないよ」
「……分かった」
クーは少し寂し気に頷いて、カバンに戻っていく。バックチャームの金属の装飾に触れるとクーは再びただのぬいぐるみのチャームに戻った。
パソコンの電源を落とし軽く机の上を片付けて、花はカバンを肩にかける。
フロアに誰もいないことを確認して、最後に電気を消した。
いつもよりも遅い時間の電車には、いつもよりも少ない人たちが疲れた顔で乗っていた。
そこに一人、クマのバックチャームを付けた女性、花が乗り込む。
(夕飯、面倒だな。その辺でパンでも買って帰ろう)
花の家は会社から電車で一駅乗ったところにある。そしてその家にはクーの本体がいる。
(チャームで動き出すなんて、遅くなったから寂しくさせてるかな)
電車が止まり扉が開く。花は若干気を急いて電車を降りた。
明るい街を抜け、コンビニによりパンを調達する。
住宅街の一角の青い屋根のアパートに一直線に向かって歩く花。花の家はその2階にある。
鍵を開けドアを開く。
「ただいま」
「おかえりぃ」
中は電気に照らされて明るい。でも誰かがいるような気配は無く、キッチンからひょっこり顔を出したのは、30㎝程の大きさのクマのぬいぐるみだ。
「クーちゃん、ただいま。ごめんね、遅くなって」
「んーん!さっきちょっとだけお話できたから我慢できたよ」
クーはてちてちと花に駆け寄り、ぴょんと跳ねて花の胸に飛びこんだ。
温かい。まるで生きものを抱きしめているような感覚だが、クーは生き物ではない、と思う。
物心ついたころから、クーは花の隣にいた。そして、花が一人の時にいつの間にかこうして動いてしゃべるようになった。最初こそ驚いたものの幼い花は自分の夢を神様が叶えてくれたのだと思って、深くは考えなかった。そうして現在の状態に至る。
「うーん、ふわふわ……いい匂い……」
「わあい。クーもはなちゃんぎゅうするー!」
クーが何者かなんて、今や花にはどうでもよかった。ただ近くにいて、こうして一緒に居られる。それだけで花は心穏やかに過ごせるし、何よりクーは彼女にとって極上の癒しの対象だった。
「やっぱりこの大きさが落ち着くなあ」
しばらく玄関で靴も脱がずにクーの柔らかいお腹に顔を埋めていると、不意に花の腹の虫が鳴いた。
「はなちゃんおなかすいたの?」
「空いたー。帰りにパン買ってきたから、一緒に食べよう」
「うん!」
と言ってもクーは何も食べない。隣で食べている花を見つめて、たまに喋るだけだったが、一人よりずっといい。
花はクーを抱えたまま靴を脱ぎ、リビングへと向かう。
この先も、この優しい時間が続くことを願って。
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お読みいただきありがとうございました。