戦国数奇伝 お手紙差し上げそうろう われ、織田信長なり
今から15年ほど前のことだ。
永禄4年(1561年)に、わたしは、この人に嫁いだ。
ぐうぐうといびきをかきながら 膝を枕にして眠る男を見つめる。
禿げた頭。
不細工な顔。
わたしは、眠るそのハゲ頭を撫でた。
藤吉郎 秀吉。
結婚後は、わたしの母方の姓である木下を名乗っていたが、元亀3年(1572年)には、上司へのおべっかで、羽柴と改めた。
上司の丹羽と柴田から1文字ずつ取って、ご機嫌をとろうとするあたり、せこいわね。
特に、酔った時には、「柴田の顔は、思い出すだけで虫唾が走る。」とぶつぶつと独り呟く くせに、こういう所では、それを気にしない。
合理で、効率的であれば、体面を気にしない性なのだ。
まぁ、丹羽の下の字・・・『羽』・・・を、筆頭家老 柴田の上の字・・・『柴』の上に持ってくるあたりは、感情がこもっているとも言えるかもしれないけれども・・・。
しかしながら、その性質は、明るい。
常に陽気と言ってよいだろう。
夫の 人たらし として最大の魅力は、ここだろうとおもう。
そもそも、人は、根の暗い者に、わざわざ近づこうとは、思わない。
常に構えて気持ちが硬い者にも、近づこうとは思わない。
自分より身分の高いものに、媚びることはあっても、親しく付き合おうとは思わない。
安心して見下せるもの。
下の者を自分に近づけたいと思うものなのだ。
そうして、わが夫、秀吉は、この全てに当てはまらない。
まず、陽気であるということは、根は暗くない。
悪く言えば、粗野であるが、夫は、人に会うときに、身構えることが無く気安い。
そうして、身分は、とても低い。
これは、現在の地位が低いというわけではない。
領地だけで見るならば、むしろ、今の地位は、織田家において明智殿に次ぐものといってよい。
そうではなく、出自が低いのだ。
さきほど、結婚後しばらくは、わたしの母方の姓を名乗っていたと述べた。
それ以前と言えば、苗字を名乗る地盤すら持たない階層に生きる者であったことは尾張以来の織田家の家臣であれば、誰もが知っていることだ。
そう言えば、羽柴の名前を決める際にも、「ワシは、若い頃は、針の売り子も、富山の薬売りの真似事も何でもやった。しかし、一番長かったのは、河原で柴を刈り、それを売って生計を立てていた時代じゃ。枯柴の尖端で点火用にあつらえた端柴を売っていたのよ。つまり羽柴売りということじゃな。」なぁんて、うそぶいていた。
まぁ、いわゆる川の民というものであったのだろう。
事実、わたしの実母のアサヒは、いわば野人である夫の出自を嫌っており、夫との婚姻については、周囲の反対にもかかわらず密かに結ばれた野合であると言い張って、結婚から15年以上経過した今でも、未だに認めてもらえない。
しかし、その低い出自おかげで、大名といってよい水準の大領の主となっても、下の者と、気安い人付き合いが出来るのだから、塞翁が馬とはよく言ったものだと思う。
その夫であるが、私から見て、大きな欠点がある。
浮気性だ。
その土地土地に1人とはいわず複数人。
三河殿(家康)のように、後家は好まない。
若い生娘が好みで、身分が高ければ、高いほど良い。
まぁ、なんと分かりやすいことか。
腹立たしいにもほどがある。
余りに腹が立ったので、信長公の四男・秀勝様を養子に貰ったご縁で、安土のお城にお呼ばれした際に、その不満をグチグチと言いつけてやった。
そうしたら、どうであろう。
右筆の楠長諳の筆ではあったが、信長公からお手紙が来たではないか。
ふふっ。この手紙の内容を読んだら、この人、なんていうかしら。
手紙を手に、酔っぱらってぐうぐうと寝息を立てる夫の顔を眺めながら、わたしは頬を緩め、その頭を撫で続けた。
差し込む月明かりが、夫の頭を照らす。
わたしの膝に頭をのせる小さな男は、月明かりを怖がるかのようにくっと顔をうずめる。
わたしは手紙をたたみ、文箱を片づけると、ふっと、灯りを吹き消した。
今夜は、月がキレイ。
明日は、きっと晴れるだろう。